古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

大津皇子はどこで殺されたのでしょうか Ⅱ

2010年04月07日 01時40分34秒 | Weblog
《二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ(万2-106)》という大伯皇女の歌は、大津皇子が『秋山』を越えることができないで、高市皇子に殺されたことを表現していると考えました。
そして、その「秋山」は「阿騎野」のことではないか、としました。

「阿騎野」といえば
「東野炎立所見而反見為月西渡」
『東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ  1-48』
という柿本人麻呂の歌が有名です。
《軽皇子の安騎(あき)の野に宿りませる時、柿本朝臣人麿がよめる歌》で
持統6年(692年)のことになっています。ですから、この『軽皇子』は文武天皇である、というのが定説です。
《ですが、持統6年という年代は存在しません。なぜならこの692年は高市天皇の時代だからです。
そして、この軽皇子は文武天皇ではありません。
文武天皇は確かに軽皇子です。
しかし、以前からいっていますように、孝徳天皇も軽皇子といいました。
645年乙巳の変で蘇我氏が滅亡した後、天皇になったのが孝徳天皇です。
もう一人の軽皇子は孝徳天皇であり、孝徳天皇のモデルは草壁皇子こと高市天皇だからです。》

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209
「隠された十字架」の変なところ③

そこで、書きましたように、この孝徳天皇(軽皇子)は文武天皇(軽皇子)の父である草壁皇子でなければなりません。
親子を混同するという『魏志倭人伝』の間違いを、ここでも利用しています。
しかし、しつこいですが、草壁皇子は実在しません。草壁皇子は高市皇子の身代わりです。実質的に高市皇子を指しています。
万葉集も、『魏志倭人伝』の間違いから逃れることはできません。
この軽皇子は高市皇子(天皇)のことです。
しかし、692年という年代も違っていると考えます。

この歌を叙景歌とすれば、東の空には炎が燃えたつように周りの景色を真紅に染めて太陽が昇ってこようとしている。振り返ってみると西の空では月が色を失って静かに、音もなく沈もうとしていた、ってなことのようです

 叙景歌ではないという説もあります。
柿本人麻呂と阿騎野で思いだす本は「人麻呂の暗号」(藤村由加・新潮社)です。
「人麻呂の暗号」では
 この「東野炎立所見而反見為月西渡」は草壁皇子を追悼する歌とされています。
 この軽皇子は文武天皇ですから、昇ってくる太陽は文武天皇を意味し、沈む月は草壁皇子だそうです。
 単なる叙景歌でないことはそのとおりだと思います。
 ですが、人物比定が私の解釈と違ってきます。
 そして、根本的に「柿本人麻呂」の立ち位置が逆だと思います。

 私の解釈では、この歌は、伊勢で禊を終えて戻ってくる大津皇子は、太陽のように昇ってしまえば、天皇に即位することになる。しかし、太陽が昇れば、反対に月(高市皇子)は輝きを無くし、色を失って死ぬことになります。高市皇子は大津皇子を殺害する以外に生きる道はないのです、ということになります。

 高市皇子を月に比定した時点で、柿本人麻呂は「反高市」という立場のはずです。
 なぜ、月になるか、もう少し説明が必要でしょう。
 神話の時代に月が出てきます。
 それも関連することになると思われます。
 「秋山」も阿騎野にあるようです
 いろいろな方面に話が飛びますので、まとめるのが難しいです。

・・・・・・・・・・
目黒川に桜が散って流れていきます。
それでもまだ満開に見えました。
携帯で写しましたがデジカメの方が良かったな。
夜はぶれますが、昼間でしたら、ぶれませんでした。シャッタースピードの関係でした。
白い鳥が一羽(白鷺?)、川にいたんですが、写ってません。







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