もし、法隆寺が建立されたのが670年だとすると、歴史の風景はがらっと変わります。
たぶん、法隆寺は670年に建立されたものではないという証拠は出てこないと思います。とはいっても、それだからといって、法隆寺が670年に建立されたということにはなりません。(唯一、高麗尺の使用が挙げられるかもしれません。しかし、それでも故意に使用したのだろうと解釈はできます)
ですから、とりあえず、法隆寺が670年に建立されたという仮定で話を進めてみます。
なぜ法隆寺は670年に建立されることになったか、を推測します。
前回書いたように669年に中臣鎌足が亡くなっています。
中大兄皇子と鎌足は蘇我蝦夷・入鹿の親子を645年の乙巳の変で滅ぼしています。鎌足の亡くなった原因が入鹿・蝦夷の祟りであったと考えられたならば、法隆寺は蘇我氏の怨念を慰め、祟りを封じるために造られたといえなくもありません。
しかし、それではおかしいのです。
蘇我氏が怨霊であったなら日本書紀で蘇我氏はもっと丁重に扱われていなければなりません。
また、臣下が亡くなったからといって、あたふたするのも変です。
また、鎌足は五十歳(五十歳以上)とも、五十五、六だったとも書かれています。当時では十分、高齢の部類にはいったはずです。祟りでもないでしょう。
それとも、変死だったのでしょうか?
さらに、天智天皇が天智十年45歳で崩御します。もし、法隆寺が怨霊封じのために天智九年(670年)に建立されたとしたならば、法隆寺は役に立たなかったことになります。
だから法隆寺は670年に焼失したということいいではないか、といわれそうです。
しかし、もう一つ考えようがあります。
天智八年(669)に天智天皇が亡くなって、それで法隆寺が建立されたと考えることもできるのです。
そのような発想で見ると、鎌足の病床の場面は怪しすぎるのです。
鎌足の病床の場面は、実は、天智十年(671)に大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の病床を訪ねた場面の引き写しなのではないかと考えてしまいました。
元々は天智天皇病床の場面は、実際あったにしろ、架空の場面にしろ天智八年と考えるのです。
天智八年、秋、藤原内大臣の家に落雷があったと書紀に書かれています。その 冬・十月十六日に鎌足は亡くなっています。
鎌足の死は祟りであることをほのめかしている(ほのめかしたかった)といえなくもありません。
冬十月、天智天皇は鎌足の家に見舞いに行きます。
天智天皇は病床の鎌足に「何か、私にできることがあるなら、なんでもやるからいってくれ」というと鎌足は「私の葬儀は簡易・質素にしてください」といったようです。するとそれを伝え聞いた賢人は誉めたたえました。
十月十五日、天智天皇は東宮大皇弟(ひつぎのみこ・大海人皇子・天武天皇)を鎌足の家に遣わして「大織冠と大臣の位を授けて、姓(うじ)を賜い、藤原氏」とした。次の日に藤原内大臣・鎌足は亡くなったわけです。
意地悪く考えますと、藤原氏は鎌足の架空の病床で、あらゆるものを手に入れたように見えるのです。
鎌足は「葬式は質素に」と頼みますが、不比等の父の鎌足の葬儀は元々質素に執り行われていたかもしれません。
天智天皇にとって鎌足は乙巳の変・大化の改新を一緒にやり遂げた盟友です。
病床で、たとえ天智天皇が「わかった」と答えたとしても、葬儀を簡素にできるでしょうか。葬儀は本人の希望に沿うのが一番だとは思いますが、残されたものとしてはそうもいかないはずです。
もし、ここで鎌足(藤原内大臣)の葬儀が簡素に執り行われたとしたならば、天智天皇はなんて冷たいんだと世間の人はいうはずです。
鎌足の発言は立派でしょう。賢人も誉め讃えるでしょう。しかしそのとおりにしたならば、今度は天智天皇は影でボロクソにいわれるに違いありません。(人間の社会は面倒です)
第一、内大臣の葬儀が質素では格好がつかないでしょう。
それに、亡くなるまで姓(うじ)もなく、位も低かったんでしょうか。(疎いものですみません)
この場面は、藤原不比等が最初の想定を変えて、自分の父を押し込んだのです。自分の出自を光らせるためにです。
天智八年に、天智天皇が亡くなっているとしたならば、どんなことになるでしょうか。
法隆寺は天智天皇が不慮の死を遂げたために、それが怨霊の祟りではないかと怖れられて、怨霊封じのために造られたと考えるのです。
すると、まず大友皇子は即位していたのは間違いないはずです。
この表現は正確ではないでしょう。なぜなら天皇という称号が用いられたのは天武天皇かららしいですから。
ですから、中大兄皇子も天皇になっていたということはありえません。しかし王位にあったのです。
大友皇子も同じはずです。王位を継いでいたのでしょう。
しかし、天智天皇が天智十年まで生存していたならば、王位の相続は極めてあやふやになるのです。
不比等がこれを策したならば、これで天武系に恩を売ったことになります。
というよりも、もともと天武系の天皇の要望でしょう。
また天武系といっても天智の血統でもありますから、天智天皇がここで亡くなったとして、それが祟りであったとしたならば、いやな思いをするでしょう。
持統天皇は天武天皇の皇后であり、同時に天智天皇の皇女でもあります。
祟りを信じたとしても、それが丁重に封じられていると信じたならば、安心なわけです。
怨霊封じのために法隆寺が建立されたのではなく、「魏志倭人伝」の法則どおりに逆に書いて、法隆寺を消滅したことにすれば天智天皇についたと考えられる祟り(の噂)も一緒に消えてしまいます。
法隆寺が怨霊封じに成功しているならば、祟りの噂が消えても怨霊は身もだえして、怒ることはできません。(たぶん)
すなわち、法隆寺が建立された670年を法隆寺の消滅の年にすると、次の両方の欠点を消せたのです。
① 天武天皇が王位の簒奪をしたこと
② 天智天皇が怨霊に祟られて崩御したこと。
しかも、不比等は自分の出自もきらびやかに変化させることができたことになります。
三方一両得といったところです。
と、まあ勝手にほざいてきましたが、天智天皇が祟りを受けたと考えられたかどうかになります。
といいましても、私の考えているのは、蘇我入鹿の祟りではありません。
前王朝の磐之姫の祟りです。
原因は669年の78、9年前におきたことのはずです。
続く
たぶん、法隆寺は670年に建立されたものではないという証拠は出てこないと思います。とはいっても、それだからといって、法隆寺が670年に建立されたということにはなりません。(唯一、高麗尺の使用が挙げられるかもしれません。しかし、それでも故意に使用したのだろうと解釈はできます)
ですから、とりあえず、法隆寺が670年に建立されたという仮定で話を進めてみます。
なぜ法隆寺は670年に建立されることになったか、を推測します。
前回書いたように669年に中臣鎌足が亡くなっています。
中大兄皇子と鎌足は蘇我蝦夷・入鹿の親子を645年の乙巳の変で滅ぼしています。鎌足の亡くなった原因が入鹿・蝦夷の祟りであったと考えられたならば、法隆寺は蘇我氏の怨念を慰め、祟りを封じるために造られたといえなくもありません。
しかし、それではおかしいのです。
蘇我氏が怨霊であったなら日本書紀で蘇我氏はもっと丁重に扱われていなければなりません。
また、臣下が亡くなったからといって、あたふたするのも変です。
また、鎌足は五十歳(五十歳以上)とも、五十五、六だったとも書かれています。当時では十分、高齢の部類にはいったはずです。祟りでもないでしょう。
それとも、変死だったのでしょうか?
さらに、天智天皇が天智十年45歳で崩御します。もし、法隆寺が怨霊封じのために天智九年(670年)に建立されたとしたならば、法隆寺は役に立たなかったことになります。
だから法隆寺は670年に焼失したということいいではないか、といわれそうです。
しかし、もう一つ考えようがあります。
天智八年(669)に天智天皇が亡くなって、それで法隆寺が建立されたと考えることもできるのです。
そのような発想で見ると、鎌足の病床の場面は怪しすぎるのです。
鎌足の病床の場面は、実は、天智十年(671)に大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の病床を訪ねた場面の引き写しなのではないかと考えてしまいました。
元々は天智天皇病床の場面は、実際あったにしろ、架空の場面にしろ天智八年と考えるのです。
天智八年、秋、藤原内大臣の家に落雷があったと書紀に書かれています。その 冬・十月十六日に鎌足は亡くなっています。
鎌足の死は祟りであることをほのめかしている(ほのめかしたかった)といえなくもありません。
冬十月、天智天皇は鎌足の家に見舞いに行きます。
天智天皇は病床の鎌足に「何か、私にできることがあるなら、なんでもやるからいってくれ」というと鎌足は「私の葬儀は簡易・質素にしてください」といったようです。するとそれを伝え聞いた賢人は誉めたたえました。
十月十五日、天智天皇は東宮大皇弟(ひつぎのみこ・大海人皇子・天武天皇)を鎌足の家に遣わして「大織冠と大臣の位を授けて、姓(うじ)を賜い、藤原氏」とした。次の日に藤原内大臣・鎌足は亡くなったわけです。
意地悪く考えますと、藤原氏は鎌足の架空の病床で、あらゆるものを手に入れたように見えるのです。
鎌足は「葬式は質素に」と頼みますが、不比等の父の鎌足の葬儀は元々質素に執り行われていたかもしれません。
天智天皇にとって鎌足は乙巳の変・大化の改新を一緒にやり遂げた盟友です。
病床で、たとえ天智天皇が「わかった」と答えたとしても、葬儀を簡素にできるでしょうか。葬儀は本人の希望に沿うのが一番だとは思いますが、残されたものとしてはそうもいかないはずです。
もし、ここで鎌足(藤原内大臣)の葬儀が簡素に執り行われたとしたならば、天智天皇はなんて冷たいんだと世間の人はいうはずです。
鎌足の発言は立派でしょう。賢人も誉め讃えるでしょう。しかしそのとおりにしたならば、今度は天智天皇は影でボロクソにいわれるに違いありません。(人間の社会は面倒です)
第一、内大臣の葬儀が質素では格好がつかないでしょう。
それに、亡くなるまで姓(うじ)もなく、位も低かったんでしょうか。(疎いものですみません)
この場面は、藤原不比等が最初の想定を変えて、自分の父を押し込んだのです。自分の出自を光らせるためにです。
天智八年に、天智天皇が亡くなっているとしたならば、どんなことになるでしょうか。
法隆寺は天智天皇が不慮の死を遂げたために、それが怨霊の祟りではないかと怖れられて、怨霊封じのために造られたと考えるのです。
すると、まず大友皇子は即位していたのは間違いないはずです。
この表現は正確ではないでしょう。なぜなら天皇という称号が用いられたのは天武天皇かららしいですから。
ですから、中大兄皇子も天皇になっていたということはありえません。しかし王位にあったのです。
大友皇子も同じはずです。王位を継いでいたのでしょう。
しかし、天智天皇が天智十年まで生存していたならば、王位の相続は極めてあやふやになるのです。
不比等がこれを策したならば、これで天武系に恩を売ったことになります。
というよりも、もともと天武系の天皇の要望でしょう。
また天武系といっても天智の血統でもありますから、天智天皇がここで亡くなったとして、それが祟りであったとしたならば、いやな思いをするでしょう。
持統天皇は天武天皇の皇后であり、同時に天智天皇の皇女でもあります。
祟りを信じたとしても、それが丁重に封じられていると信じたならば、安心なわけです。
怨霊封じのために法隆寺が建立されたのではなく、「魏志倭人伝」の法則どおりに逆に書いて、法隆寺を消滅したことにすれば天智天皇についたと考えられる祟り(の噂)も一緒に消えてしまいます。
法隆寺が怨霊封じに成功しているならば、祟りの噂が消えても怨霊は身もだえして、怒ることはできません。(たぶん)
すなわち、法隆寺が建立された670年を法隆寺の消滅の年にすると、次の両方の欠点を消せたのです。
① 天武天皇が王位の簒奪をしたこと
② 天智天皇が怨霊に祟られて崩御したこと。
しかも、不比等は自分の出自もきらびやかに変化させることができたことになります。
三方一両得といったところです。
と、まあ勝手にほざいてきましたが、天智天皇が祟りを受けたと考えられたかどうかになります。
といいましても、私の考えているのは、蘇我入鹿の祟りではありません。
前王朝の磐之姫の祟りです。
原因は669年の78、9年前におきたことのはずです。
続く