古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

蘇我遠智娘・蘇我造媛・美濃津子娘と蘇我堅塩媛①

2006年10月03日 13時39分45秒 | Weblog
天武妃の大田皇女(おおたのひめみこ)と鵜野讃良皇女(うのさららのひめみこ・持統天皇)は姉妹で、母は天智妃の蘇我遠智娘(そがのをちのいらつめ)です。
 ≪天智7年「遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る」≫
の後が≪蘇我山田石川麻呂大臣の女(むすめ)あり、遠智娘といふ。或本に云はく、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)といふ≫

そして「遠智娘」の注に「蘇我造媛と同人であろう」とあり、「四巻のp306の注四」参照とあります。

また美濃津子娘の注には
 ≪造媛の「造(みやつこ)」→御(美)野津子→美濃津子と変わったか。≫
という解説があります。

要するに、遠智娘と美濃津子娘とは造媛は同一人物らしいのです。
そこで、注をみてみます。やっぱり、同一人物といっているようです。

ところが、p306の文章は、それ以上に重要なことを物語っているように見えます。

 孝徳天皇・大化五年(649)(書紀巻25・文庫四巻、p306)
「皇太子(中大兄皇子)の妃、蘇我造媛(そがのみやつこひめ)父の大臣(蘇我倉山田麻呂)、塩(物部二田造塩・もののべのふつたのみやつこしほ)の為に斬らると聞きて、心を傷(やぶ)りて痛みあつかふ。塩の名を聞くことを悪(にく)む。所以(このゆゑ)に、造媛に近く侍る者、塩の名を称(い)はむことを諱(い)みて、改めて堅塩(きたし)といふ。造媛、遂に心を傷るに因りて、死ぬるに到りぬ。」

≪塩という言葉を使いたくないので、代わりに堅塩といった。造媛は心が傷ついて、それが原因で亡くなった。≫

 まず、この年代を注目してください。
 孝徳天皇・大化五年(649)です。
 前回書いたように、現在の書紀の紀年の上では、天智7年は668年にあたっています。しかし、実際の天智7年は649年か648年ではないかと考えました。
ちょうど、その年に皇太子(中大兄皇子・天智天皇)の妃・造媛(遠智娘、美濃津子娘)が登場し、亡くなっています。
 そして、この年が真実の天智7年だということは、孝徳天皇の御世はなかったということです。皇極・孝徳・斉明天皇の642年~661年の期間も天智天皇の御代だったとしないとつじつまが合わなくなります。

 次に、気になるのは‘堅塩’です。
 どうしたって、欽明天皇妃・蘇我堅塩媛を思い起こします。

 すると≪造媛に近く侍る者、塩の名を称(い)はむことを諱(い)みて、改めて堅塩(きたし)といふ。≫というのは、おかしなわけです。

 
欽明2年(541)3月に、蘇我稲目の女(むすめ)・堅塩媛は五人の妃の一人として、欽明天皇に迎え入れられています。そして、用明天皇、推古天皇を生んでいます。
 
 とすると、塩を疎んで堅塩というのは、堅塩媛に失礼ではないかと、思えないでしょうか。

 しかし、これが失礼でないとしたならば、堅塩媛の名前の由来が、100年以上経過した後で説明されていたのではないか、と考えることもできます。(その場合、稲目が物部に斬られたことになってしまい、余計わからなくなるかもしれません。)
 
 しかし、‘堅塩’という言葉は、蘇我遠智娘と蘇我堅塩媛の間に、何らかの関連を示唆しているはずです。
        続く
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