法隆寺は(①誰によって②何のために③いつ建てられたか)が「隠された十字架」の最初の設問です。
「法隆寺資財帳」が藤原氏と法隆寺の関係をさぐる資料としてもっとも重要だ、そうです。
(A)山背大兄皇子殺害の張本人、巨勢徳太(こせのとこた)、それに、おそらくは山背大兄皇子の殺害の共犯者であった孝徳天皇、その人々の意志によって、法隆寺に食封(へひと)三百戸が下された。
殺害者が食封を寄付している。この事実をどう思うか。(隠された十字架・p75)
この(A)から梅原氏は、「法隆寺が太子の霊の鎮魂の寺であることは否定できない」としています。
(B)「法隆寺資財帳」を調べた結果、物品の寄付において、橘三千代をはじめ藤原不比等と関係の深い人が、法隆寺に多くの寄付をしていることがわかった。(p79)
・・・
藤原氏には、巨勢徳太や孝徳天皇のように太子のたたりを恐れねばならぬ理由があるのであろうか。
「この事実をどう思うか」といわれましても、困ります。本当に事実なんでしょうか。
Aの「法隆寺が太子の霊の鎮魂の寺」であることを否定できないことはないのです。
なぜなら、その最初になされた食封の記事は大化三年(647)ということだそうです。(p74)
これは、法隆寺が670年より前に存在していたならば、正しいという可能性はあります。
しかし、法隆寺焼失の記事が正確であることを前提に論を進めてはなりません。
法隆寺焼失の記事は『天孫降臨』神話と同様に二つの組み換えを同時にやっているのです。
『天孫降臨』は天(高天原)から地(出雲)ではなく、逆に、地下・黄泉の国(出雲)から地(又は天、大和のこと)への上昇です。そして同時に出雲から大和・平城京の直線を《出雲から日向》へ90度・直角の変化をさせたものです。「魏志倭人伝」の間違いどおりです。
法隆寺の焼失の記事も同様です。708年の建立を38年前《19×2》に持っていったうえで、同時に建立を焼失と逆にさせたのです。
また、もう一つの、用明天皇の586年に法隆寺を造ることを発願したという薬師光背銘も、少なくとも二つの変化の組み合わせ(三つかもしれません。もう一つはモデルです。)を実行しています。
これは、120年(二干支)前に持っていき、その上で焼失を建立に変えているのです。この寺は斑鳩寺で、法隆寺の前身とされていますが、別の寺です。
前に書きましたが、平城京遷都の120年前に、前王朝は崩壊しているはずです。斑鳩寺は前王朝の寺です。
大和朝廷は法隆寺と斑鳩寺を一体化・同一化させることにより、王朝交代があったにもかかわらず、歴史を万世一系に変化させることに成功しました。
前王朝の怨霊を怖れたために、同一の血統であると示したかったのです。
くどいですが、19年という数字は繰り返しの卑弥呼の復活の数字です。と同時に奇跡的な偶然で、太陰暦では閏月を七回入れると19年で暦がもどります。
(「魏志倭人伝」では西暦247年に卑弥呼が死んで墓が造られた。そして266年にトヨは中国に使者を送った、となっています。この間19年です。この墓はトヨの墓です。トヨは生まれ変わったことになってしまったのです。もしよかったらブログの3月あたりを読んでください。)
19という数字は、法隆寺でも見つけられます。ただし「隠された十字架」に載っている図ではわかりにくいです。
p56に中門正面図があります。東側11間、西側10間となっています。ところが、東と西のはずれはそれぞれ回廊なのです。法隆寺を上から見た図だとわかります。ということは、金堂や五重塔のある境内から中門を見ますと、東側10間、西側9間となり、あわせて19間となります。
中門は4間であり、死を暗示していると解かれていますが、法隆寺にも復活の数字が隠されているということです。
出雲大社と同じで、表面的には死をイメージしているように見えても、実は、願いは逆になっているのです。
私の考えのように670年の38年後が建立の年(再建ではない)としたならば、この巨勢徳太の食封の記事は偽証です。
その証拠、とまではいかないかもしれませんが、この「法隆寺資財帳」の食封の記事の順番は変です。法隆寺資財帳の最後の記事だそうです。
法隆寺へ三度食封が下され、二度停止されています。
最初に書かれているのが、天平十年(738)の食封、次が巨勢徳太の大化三年(647)、最後が養老六年(722)。(p74)
順番は新しいものからでもないし、古いものからでもありません。大化三年が最後に書かれているのならば、新しいものから表示したといえますが、そうなってはいません。
しかし、法隆寺にとって一番新しいものがもっとも大事であり、それ以前のものは年代順に書いたと、無理に解釈できないこともありません。
では寄付の記載の順番はどうなのでしょうか。年代順になっているのでしょうか。(わかりませんのでいずれ。)
Bの「藤原氏はなぜ法隆寺に多くの寄付をしているのか」についての、梅原氏の説明は変です。ついふきだしてしまいました。ところが、確かに、書紀の記述をそのとおりに信じて推理すると、あのようになるのかもしれません。でも、変なのです。
まとまりのないまま続く
・・・・・・・・・・・・・・・・・
2013・6/27 追記
ここは、私のブログの中でも読まれる回数が多いようですが、文句も多いところです。
で、コメントに対する返答をそのまま載せときます。。
『もう7年も前の投稿ですし、これ以降、進歩(?)しています。
ここだけ読んでもわからないでしょう。(とはいえ、他の部分を読むのも疲れます)この時は、まだ、私もはっきり理解していたわけではありません。
(ですが、前の質問にも、文武天皇ためだと答えています)
現在では、法隆寺は文武天皇の慰霊のために、文武天皇を殺害した側(不比等、物部連麻呂)及びその関係者(橘三千代、光明子)が造営及び維持・管理にかかわっていた、また、長屋王も藤ノ木古墳に葬られている、と考えています。』
「法隆寺資財帳」が藤原氏と法隆寺の関係をさぐる資料としてもっとも重要だ、そうです。
(A)山背大兄皇子殺害の張本人、巨勢徳太(こせのとこた)、それに、おそらくは山背大兄皇子の殺害の共犯者であった孝徳天皇、その人々の意志によって、法隆寺に食封(へひと)三百戸が下された。
殺害者が食封を寄付している。この事実をどう思うか。(隠された十字架・p75)
この(A)から梅原氏は、「法隆寺が太子の霊の鎮魂の寺であることは否定できない」としています。
(B)「法隆寺資財帳」を調べた結果、物品の寄付において、橘三千代をはじめ藤原不比等と関係の深い人が、法隆寺に多くの寄付をしていることがわかった。(p79)
・・・
藤原氏には、巨勢徳太や孝徳天皇のように太子のたたりを恐れねばならぬ理由があるのであろうか。
「この事実をどう思うか」といわれましても、困ります。本当に事実なんでしょうか。
Aの「法隆寺が太子の霊の鎮魂の寺」であることを否定できないことはないのです。
なぜなら、その最初になされた食封の記事は大化三年(647)ということだそうです。(p74)
これは、法隆寺が670年より前に存在していたならば、正しいという可能性はあります。
しかし、法隆寺焼失の記事が正確であることを前提に論を進めてはなりません。
法隆寺焼失の記事は『天孫降臨』神話と同様に二つの組み換えを同時にやっているのです。
『天孫降臨』は天(高天原)から地(出雲)ではなく、逆に、地下・黄泉の国(出雲)から地(又は天、大和のこと)への上昇です。そして同時に出雲から大和・平城京の直線を《出雲から日向》へ90度・直角の変化をさせたものです。「魏志倭人伝」の間違いどおりです。
法隆寺の焼失の記事も同様です。708年の建立を38年前《19×2》に持っていったうえで、同時に建立を焼失と逆にさせたのです。
また、もう一つの、用明天皇の586年に法隆寺を造ることを発願したという薬師光背銘も、少なくとも二つの変化の組み合わせ(三つかもしれません。もう一つはモデルです。)を実行しています。
これは、120年(二干支)前に持っていき、その上で焼失を建立に変えているのです。この寺は斑鳩寺で、法隆寺の前身とされていますが、別の寺です。
前に書きましたが、平城京遷都の120年前に、前王朝は崩壊しているはずです。斑鳩寺は前王朝の寺です。
大和朝廷は法隆寺と斑鳩寺を一体化・同一化させることにより、王朝交代があったにもかかわらず、歴史を万世一系に変化させることに成功しました。
前王朝の怨霊を怖れたために、同一の血統であると示したかったのです。
くどいですが、19年という数字は繰り返しの卑弥呼の復活の数字です。と同時に奇跡的な偶然で、太陰暦では閏月を七回入れると19年で暦がもどります。
(「魏志倭人伝」では西暦247年に卑弥呼が死んで墓が造られた。そして266年にトヨは中国に使者を送った、となっています。この間19年です。この墓はトヨの墓です。トヨは生まれ変わったことになってしまったのです。もしよかったらブログの3月あたりを読んでください。)
19という数字は、法隆寺でも見つけられます。ただし「隠された十字架」に載っている図ではわかりにくいです。
p56に中門正面図があります。東側11間、西側10間となっています。ところが、東と西のはずれはそれぞれ回廊なのです。法隆寺を上から見た図だとわかります。ということは、金堂や五重塔のある境内から中門を見ますと、東側10間、西側9間となり、あわせて19間となります。
中門は4間であり、死を暗示していると解かれていますが、法隆寺にも復活の数字が隠されているということです。
出雲大社と同じで、表面的には死をイメージしているように見えても、実は、願いは逆になっているのです。
私の考えのように670年の38年後が建立の年(再建ではない)としたならば、この巨勢徳太の食封の記事は偽証です。
その証拠、とまではいかないかもしれませんが、この「法隆寺資財帳」の食封の記事の順番は変です。法隆寺資財帳の最後の記事だそうです。
法隆寺へ三度食封が下され、二度停止されています。
最初に書かれているのが、天平十年(738)の食封、次が巨勢徳太の大化三年(647)、最後が養老六年(722)。(p74)
順番は新しいものからでもないし、古いものからでもありません。大化三年が最後に書かれているのならば、新しいものから表示したといえますが、そうなってはいません。
しかし、法隆寺にとって一番新しいものがもっとも大事であり、それ以前のものは年代順に書いたと、無理に解釈できないこともありません。
では寄付の記載の順番はどうなのでしょうか。年代順になっているのでしょうか。(わかりませんのでいずれ。)
Bの「藤原氏はなぜ法隆寺に多くの寄付をしているのか」についての、梅原氏の説明は変です。ついふきだしてしまいました。ところが、確かに、書紀の記述をそのとおりに信じて推理すると、あのようになるのかもしれません。でも、変なのです。
まとまりのないまま続く
・・・・・・・・・・・・・・・・・
2013・6/27 追記
ここは、私のブログの中でも読まれる回数が多いようですが、文句も多いところです。
で、コメントに対する返答をそのまま載せときます。。
『もう7年も前の投稿ですし、これ以降、進歩(?)しています。
ここだけ読んでもわからないでしょう。(とはいえ、他の部分を読むのも疲れます)この時は、まだ、私もはっきり理解していたわけではありません。
(ですが、前の質問にも、文武天皇ためだと答えています)
現在では、法隆寺は文武天皇の慰霊のために、文武天皇を殺害した側(不比等、物部連麻呂)及びその関係者(橘三千代、光明子)が造営及び維持・管理にかかわっていた、また、長屋王も藤ノ木古墳に葬られている、と考えています。』
なお、法隆寺が建てられたのは、文武天皇が殺害されたためだ、とずーっと考えています。
wakannnai
ここだけ読んでもわからないでしょう。(とはいえ、他の部分を読むのも疲れます)この時は、まだ、私もはっきり理解していたわけではありません。
(ですが、前の質問にも、文武天皇ためだと答えています)
現在では、法隆寺は文武天皇の慰霊のために、文武天皇を殺害した側(不比等、物部連麻呂)及びその関係者(橘三千代、光明子)が造営及び維持・管理にかかわっていた、また、長屋王も藤ノ木古墳に葬られている、と考えています。