エー、またもや立ち止まり。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c505658142f3618b691d520b3c06aca2
出雲大社には卑弥呼が祀られている 2005年03月13日
ここが3,4日前からだいぶ読まれていました。
番宣で以下の番組があることを知っていましたが、夜間働いている時間なので録画していました。
この番組が放映されている時間帯、もしくはその直後に、訪問者が多いようでした。
《古代文明ミステリー たけしの新・世界七不思議大百科第3巻》
2016年1月8日(金)夜8時54分放送
《2009年、邪馬台国の都として有力視されている奈良の三輪山山麓・纏向遺跡から出雲大社とよく似た建物跡が発見された。さらに天照大神を祀る伊勢神宮の社殿にも同じ構造があった。出雲・纏向・伊勢の共通点が示す意味は?そして、皆既日食が卑弥呼の死んだ年にあったという奇妙な一致。出雲大社を舞台にした神話から、日本史上最大の謎に包まれた女王卑弥呼の真実に迫る!》(番組のホームページから)
何万人もの人がテレビを見るのでしょうから、私のブログを訪れることとは関係ないでしょうが、それでも見てくれる人が増えたのは事実です。
放映している間にも、検索しているのでしょうか。
私のように、テレビを見ながらパソコンを使っている人も多いのでしょう。
番組では二つのことが強調されていました。
一つは、纏向遺跡から出雲大社や伊勢神宮の社殿と同じ構造の建物跡が出てきた、ということです。
神社建築のルーツが纏向遺跡の建物跡で発見され、それは、棟持柱(むなもちばしら)というものです。
ということは、纏向遺跡が「魏志倭人伝」のいう邪馬臺国ではないかというもの。
もう一つは、248年9月5日に皆既日食があり、それが原因で卑弥呼は殺された。それが天照大神の天岩戸隠れではないか、というものでした。
皆既日食があった後、卑弥呼は殺された、と番組では思い込んでいました。
たぶん、棟持柱の跡が九州の吉野ヶ里遺跡からはでてきていないのでしょう。
恥ずかしながら、棟持柱のことを、まるで知りませんでしたから、大変良かった。
棟持柱の画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A3%9F%E6%8C%81%E6%9F%B1&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiw1cTonZ7KAhXIKJQKHcVRAcMQsAQIGw&biw=978&bih=488
https://kotobank.jp/word/%E6%A3%9F%E6%8C%81%E6%9F%B1-642095
神明造(しんめいづく)りで、両妻の側柱外にあって棟を支える柱。
http://www.kenchiku-cpd.jp/seminar-kaishi/2006_skill/2006_skill06.pdf
飛鳥・奈良時代以前の古墳時代、日本の神社建築ではその屋根を棟持柱で支えることが普通で、やがてそれが形式化されて伝わることになった。とくに伊勢神宮に代表される「新明造」は、高床の平入りで正面三間(柱は4本)、側面二間(柱は3本)の社殿の両脇に独立柱を2本立てて棟木の両端を支え、そこに反りの無い切妻屋根を架ける形としてよく知られている。
一方、出雲大社に代表される「大社造」は、妻入りで書面2間、側面2間(ともに柱3本)の「田の字」型平面で、切妻屋根の棟木の高さまでが単一材である点で立派な棟持柱であり、しかも梁や桁で他の柱と連結されることで床や壁を支えている。
棟持柱の話は多いに結構なのですが、皆既日食の後に卑弥呼が殺害されたという説は納得できません。
皆既日食の前に卑弥呼が殺害されていたならば、話は正反対になります。
以前もやっていますが、卑弥呼の霊力が無くなったから日食が起きたのではなく、卑弥呼がいなくなってしまったから日食が起きたと考えられたのだと思っています。(そうでないと、私の説ではつじつまが合わなくなります。卑弥呼・臺与(とよ)が移動した後に列島は寒気の底から抜け出ました。近畿の人々は卑弥呼が来たから暖かくなった、と思い込んだ、のではないかと)
しつこくいいますが、
ともかく、「魏志倭人伝」が二人の卑弥呼を一人と勘違いしてしまったために、「魏志倭人伝」はタイムスリップしました。
そのうえ、卑弥呼・臺与(とよ)が移動したことに気づかなかったために、「魏志倭人伝」は日本での方向感覚を失い、北九州の奴国と近畿の邪馬臺(ヤマト)国を混同してしまったのです
(まだまだ、気づかれない方が良いです。気づく人が多くなったら、私のやっていることなんかすぐ追い越されてしまいますから)
放映しているだろうと考えられる時間にアクセス・訪問者が多くなっていました。(私のブログでは異常といっていいほどでした)
前後でまるで違います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/ea/abbeda4a0ce7f2c8efe64193c61a552b.jpg)
93pvというのが《出雲大社には卑弥呼が祀られている 2005年03月13日》こんなことは今までありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/cb/bd4c4bbf9d3b8f666dedfd1b1f987553.jpg)
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c505658142f3618b691d520b3c06aca2
出雲大社には卑弥呼が祀られている 2005年03月13日
ここが3,4日前からだいぶ読まれていました。
番宣で以下の番組があることを知っていましたが、夜間働いている時間なので録画していました。
この番組が放映されている時間帯、もしくはその直後に、訪問者が多いようでした。
《古代文明ミステリー たけしの新・世界七不思議大百科第3巻》
2016年1月8日(金)夜8時54分放送
《2009年、邪馬台国の都として有力視されている奈良の三輪山山麓・纏向遺跡から出雲大社とよく似た建物跡が発見された。さらに天照大神を祀る伊勢神宮の社殿にも同じ構造があった。出雲・纏向・伊勢の共通点が示す意味は?そして、皆既日食が卑弥呼の死んだ年にあったという奇妙な一致。出雲大社を舞台にした神話から、日本史上最大の謎に包まれた女王卑弥呼の真実に迫る!》(番組のホームページから)
何万人もの人がテレビを見るのでしょうから、私のブログを訪れることとは関係ないでしょうが、それでも見てくれる人が増えたのは事実です。
放映している間にも、検索しているのでしょうか。
私のように、テレビを見ながらパソコンを使っている人も多いのでしょう。
番組では二つのことが強調されていました。
一つは、纏向遺跡から出雲大社や伊勢神宮の社殿と同じ構造の建物跡が出てきた、ということです。
神社建築のルーツが纏向遺跡の建物跡で発見され、それは、棟持柱(むなもちばしら)というものです。
ということは、纏向遺跡が「魏志倭人伝」のいう邪馬臺国ではないかというもの。
もう一つは、248年9月5日に皆既日食があり、それが原因で卑弥呼は殺された。それが天照大神の天岩戸隠れではないか、というものでした。
皆既日食があった後、卑弥呼は殺された、と番組では思い込んでいました。
たぶん、棟持柱の跡が九州の吉野ヶ里遺跡からはでてきていないのでしょう。
恥ずかしながら、棟持柱のことを、まるで知りませんでしたから、大変良かった。
棟持柱の画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A3%9F%E6%8C%81%E6%9F%B1&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiw1cTonZ7KAhXIKJQKHcVRAcMQsAQIGw&biw=978&bih=488
https://kotobank.jp/word/%E6%A3%9F%E6%8C%81%E6%9F%B1-642095
神明造(しんめいづく)りで、両妻の側柱外にあって棟を支える柱。
http://www.kenchiku-cpd.jp/seminar-kaishi/2006_skill/2006_skill06.pdf
飛鳥・奈良時代以前の古墳時代、日本の神社建築ではその屋根を棟持柱で支えることが普通で、やがてそれが形式化されて伝わることになった。とくに伊勢神宮に代表される「新明造」は、高床の平入りで正面三間(柱は4本)、側面二間(柱は3本)の社殿の両脇に独立柱を2本立てて棟木の両端を支え、そこに反りの無い切妻屋根を架ける形としてよく知られている。
一方、出雲大社に代表される「大社造」は、妻入りで書面2間、側面2間(ともに柱3本)の「田の字」型平面で、切妻屋根の棟木の高さまでが単一材である点で立派な棟持柱であり、しかも梁や桁で他の柱と連結されることで床や壁を支えている。
棟持柱の話は多いに結構なのですが、皆既日食の後に卑弥呼が殺害されたという説は納得できません。
皆既日食の前に卑弥呼が殺害されていたならば、話は正反対になります。
以前もやっていますが、卑弥呼の霊力が無くなったから日食が起きたのではなく、卑弥呼がいなくなってしまったから日食が起きたと考えられたのだと思っています。(そうでないと、私の説ではつじつまが合わなくなります。卑弥呼・臺与(とよ)が移動した後に列島は寒気の底から抜け出ました。近畿の人々は卑弥呼が来たから暖かくなった、と思い込んだ、のではないかと)
しつこくいいますが、
ともかく、「魏志倭人伝」が二人の卑弥呼を一人と勘違いしてしまったために、「魏志倭人伝」はタイムスリップしました。
そのうえ、卑弥呼・臺与(とよ)が移動したことに気づかなかったために、「魏志倭人伝」は日本での方向感覚を失い、北九州の奴国と近畿の邪馬臺(ヤマト)国を混同してしまったのです
(まだまだ、気づかれない方が良いです。気づく人が多くなったら、私のやっていることなんかすぐ追い越されてしまいますから)
放映しているだろうと考えられる時間にアクセス・訪問者が多くなっていました。(私のブログでは異常といっていいほどでした)
前後でまるで違います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/ea/abbeda4a0ce7f2c8efe64193c61a552b.jpg)
93pvというのが《出雲大社には卑弥呼が祀られている 2005年03月13日》こんなことは今までありませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/cb/bd4c4bbf9d3b8f666dedfd1b1f987553.jpg)
↑によると、古墳寒冷期は246年頃から始まるので、日食の248年と非常に近いです。
地層に眠っていた植物の花粉からの年代測定なので、かなり真実味があります。
ですから、寒の底を抜けたという表現は真逆だと思われます。失礼でしたら申し訳ありません。
私が10年以上前に読んだ本には250年ごろが寒気の底とありましたので、そのまま信じていました。
そうしますと、寒くなってきたから、縄文時代のような生活様式(採集・狩猟)が難しくなり、むしろ、水稲耕作が広がったということになるのでしょうか。
へこたれずに言えば、その時期に、農耕技術を持っていた卑弥呼一行がヤマトに行ったということになりましょうか。