扶余(フユ)と扶余(プヨ)の関係を調べたかったのですが、よく理解できません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99
扶余・・ウィキペディア(Wikipedia)
《扶余(ふよ、プヨ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は、満洲に存在した民族の一つ。夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。》
《遅くともB.C. 238年 ~ 494年には満州地方に同名の国家を形成していた。その版図は、中国三国時代には、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)に接し、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に及んでいたという。》
私の想像では、倭人、はっきりいえば、スサノオ及びその子孫が、朝鮮半島を北上し、紀元300年ごろには扶余(フユ)の位置まで征服していたのです。
そして、次第に追い落とされ、百済の扶余(プヨ)まで下がり、最後には660年百済滅亡に至ったと考えました。
ところが、ウィキペディア(Wikipedia)によると、B.C. 238年 ~494年は扶余(フユ)という国が存在していたようです。
そうしますと、私の考えでは、その国は倭国から来たスサノオ・卑弥呼トヨの子孫が王となったものの国名は元のままだったのではないか、となります。
少々脱線します。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、倭人・日本人は拡大・膨張期とその後の収縮期があるのではないでしょうか。
スサノヲは必ず朝鮮に向ったでしょうし、秀吉も、朝廷の後押しでしょうが、朝鮮制圧を図ります。
しかし、平安時代には遣唐使すら止めることになり、江戸時代には鎖国をします。
義経(=チンギス・ハーン)は特殊な例ですが、膨張する資質を持っていたはずです。
大日本帝国は拡大・膨張しますが、敗戦で終わります。
そして一気に収縮したために、普通なら緩やかな収縮期に入るところを、ショック療法で息を吹き返し、わずかな収縮期間で、再び経済的に拡大期に向ったのです。
ですが、2009年12月はどうしようもない収縮に入っています。
税収よりも国債発行額のほうが大きいのは1946年度以来のことだそうです。
しかし、当時は生産設備も足りなかったでしょうから、それらを整えれば、将来的に税収の不足はカバーできる見通しはあったでしょう。
ですが、現在はどうするのでしょう。
八ッ場ダム? 子供手当て?
自民党も危ないドライバーでしたが、ドライバーが代わっても、車が整備不良で制御不能になりつつあります。
てなことはあきらめて、ともかく扶余(フユ)と扶余(プヨ)の位置を検討します。
扶余(フユ)-宇佐神宮-平城京・朱雀門
扶余(フユ)-平城京・朱雀門-高千穂峰
扶余(プヨ)-高千穂峰-平城京・朱雀門
これらはほぼ直角三角形になります。
前回書きましたように、扶余(フユ)-宇佐神宮の直線は平城京、斑鳩と直角になります。
箸墓では直角より大きくなります。
宇佐神宮→扶余(フユ)
①341.781度 ②158.376度 ③1353.651km
Ⅰ341°42′30.20″ Ⅱ158°18′13.32″ Ⅲ1,352,913.649(m)
宇佐神宮→箸墓
①73.4040度 ②255.903度 ③426.321km
Ⅰ73°28′17.43″ Ⅱ255°58′14.98″ Ⅲ427,347.247(m)
360-341.781+73.4040=91.623度
360-341°42′30.20″+73°28′17.43″=91°45′47.23″
360-341.781=18.219
360-341°42′30.20″=18°17′29.80″
宇佐神宮→平城京・朱雀門
①71.1234度 ②253.601度 ③426.5466km
360-341.781+71.1234=89.3424度
宇佐神宮→法隆寺金堂
①71.9710度 ②254.412度 ③418.9962km
360-341.781+71.9710=90.19度
宇佐神宮→藤ノ木古墳
①71.9867度 ②254.425度 ③418.4893km
360-341.781+71.9867=90.2057度
もしこれが意識的なものだったとすると、どういう意味を持っていたことになるのでしょうか。
忘年会疲れで進みません。続く。
・・・・・・・・・
葉っぱがほとんど散りました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99
扶余・・ウィキペディア(Wikipedia)
《扶余(ふよ、プヨ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は、満洲に存在した民族の一つ。夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。》
《遅くともB.C. 238年 ~ 494年には満州地方に同名の国家を形成していた。その版図は、中国三国時代には、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)に接し、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に及んでいたという。》
私の想像では、倭人、はっきりいえば、スサノオ及びその子孫が、朝鮮半島を北上し、紀元300年ごろには扶余(フユ)の位置まで征服していたのです。
そして、次第に追い落とされ、百済の扶余(プヨ)まで下がり、最後には660年百済滅亡に至ったと考えました。
ところが、ウィキペディア(Wikipedia)によると、B.C. 238年 ~494年は扶余(フユ)という国が存在していたようです。
そうしますと、私の考えでは、その国は倭国から来たスサノオ・卑弥呼トヨの子孫が王となったものの国名は元のままだったのではないか、となります。
少々脱線します。
馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、倭人・日本人は拡大・膨張期とその後の収縮期があるのではないでしょうか。
スサノヲは必ず朝鮮に向ったでしょうし、秀吉も、朝廷の後押しでしょうが、朝鮮制圧を図ります。
しかし、平安時代には遣唐使すら止めることになり、江戸時代には鎖国をします。
義経(=チンギス・ハーン)は特殊な例ですが、膨張する資質を持っていたはずです。
大日本帝国は拡大・膨張しますが、敗戦で終わります。
そして一気に収縮したために、普通なら緩やかな収縮期に入るところを、ショック療法で息を吹き返し、わずかな収縮期間で、再び経済的に拡大期に向ったのです。
ですが、2009年12月はどうしようもない収縮に入っています。
税収よりも国債発行額のほうが大きいのは1946年度以来のことだそうです。
しかし、当時は生産設備も足りなかったでしょうから、それらを整えれば、将来的に税収の不足はカバーできる見通しはあったでしょう。
ですが、現在はどうするのでしょう。
八ッ場ダム? 子供手当て?
自民党も危ないドライバーでしたが、ドライバーが代わっても、車が整備不良で制御不能になりつつあります。
てなことはあきらめて、ともかく扶余(フユ)と扶余(プヨ)の位置を検討します。
扶余(フユ)-宇佐神宮-平城京・朱雀門
扶余(フユ)-平城京・朱雀門-高千穂峰
扶余(プヨ)-高千穂峰-平城京・朱雀門
これらはほぼ直角三角形になります。
前回書きましたように、扶余(フユ)-宇佐神宮の直線は平城京、斑鳩と直角になります。
箸墓では直角より大きくなります。
宇佐神宮→扶余(フユ)
①341.781度 ②158.376度 ③1353.651km
Ⅰ341°42′30.20″ Ⅱ158°18′13.32″ Ⅲ1,352,913.649(m)
宇佐神宮→箸墓
①73.4040度 ②255.903度 ③426.321km
Ⅰ73°28′17.43″ Ⅱ255°58′14.98″ Ⅲ427,347.247(m)
360-341.781+73.4040=91.623度
360-341°42′30.20″+73°28′17.43″=91°45′47.23″
360-341.781=18.219
360-341°42′30.20″=18°17′29.80″
宇佐神宮→平城京・朱雀門
①71.1234度 ②253.601度 ③426.5466km
360-341.781+71.1234=89.3424度
宇佐神宮→法隆寺金堂
①71.9710度 ②254.412度 ③418.9962km
360-341.781+71.9710=90.19度
宇佐神宮→藤ノ木古墳
①71.9867度 ②254.425度 ③418.4893km
360-341.781+71.9867=90.2057度
もしこれが意識的なものだったとすると、どういう意味を持っていたことになるのでしょうか。
忘年会疲れで進みません。続く。
・・・・・・・・・
葉っぱがほとんど散りました。