古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

⊿竹島-福井-京都御所と元の平安京大極殿の位置

2015年01月10日 15時51分59秒 | Weblog
天孫降臨の先が大国主命の国譲りをした出雲ではなく九州だったのは、出雲大社から平城京・朱雀門という直線と直角にするためだったというのが、私のブログの基点・起点でした。
継体天皇の出身地が福井というのも出雲大社-平城京・朱雀門-伊勢神宮・内宮の直線に対して直角にさせるためのものだった、としました。
しかし、ぴったりといく福井の地が福井の何処なのか、見つけられたとはいえませんでした。
確かに、九州のほうでもいろいろやりましたが、出雲大社で直角になる地点をみつけるのは結構困難でした。
ただし、竹島を加えると、例えば、高千穂峰-竹島-鹿島神宮が直角三角形になるなど、うまい具合になる場合もありました。
さて、そこで竹島と福井を結んでみました。
とりあえず、福井の地点を福井城址にしてみましたが、古代ではそこがどんなもんだったのかわかりません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E5%9F%8E
《福井城が築城される以前に同地に存在した北ノ庄城》
《織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後、柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがある》
《1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって、「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)》

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/190c063d9844722a2dcc71894535bc9c
出雲大社-平城京・朱雀門-伊勢神宮・内宮と福井・高椋あたり Ⅰ
2011年10月18日

継体天皇が福井の出身であるというのは、白村江の敗戦で竹島を通って日本に戻ってきた人の中に、後の日本の権力を獲得した人たちの祖先が存在していたことを表していると考えています。
竹島から氣多大社の辺りだけでなく、気比に着いた人、又は南の出雲に行った人もいたかもしれません。
その全体を、福井で表したものか、それとも肝心な人は福井にしばらく滞在したものなのか。





で、ともかく、竹島-福井の線が、福井で直角になるところは、と探すと、なんと京都御所がそうなりそうです。
確かに、京都御所で、直角になりました。

竹島
北緯37度14分23.17秒 東経131度52分11.26秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=371423.17&l=1315211.26

福井(福井城址)
北緯36度03分55.71秒 東経136度13分15.35秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360355.71&l=1361315.35

京都御所
北緯35度01分27.23秒 東経135度45分43.61秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350127.23&l=1354543.61


福井→竹島
 Ⅰ289°48′31.10″  Ⅱ107°12′36.84″ Ⅲ410,251.698(m)
福井→京都御所
 Ⅰ199°56′21.65″  Ⅱ19°40′21.39″ Ⅲ122,789.531(m)
竹島→京都御所
 Ⅰ123°53′46.90″  Ⅱ306°11′32.88″ Ⅲ427,940.468(m)

福井での角度 
 289°48′31.10″-199°56′21.65″=89°52′09.45”≒89.8693度
竹島での角度
 123°53′46.90″-107°12′36.84″=16°41′10.06”≒16.6861度
京都御所での角度
 360°-306°11′32.88″+19°40′21.39″=73°28′48.51”≒73.4801度

しかし、元の大極殿の位置は現在の位置より1.7㎞西側だそうです。
《平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から内裏の所在地として定着》

そういうことで、大極殿跡を探してみました。
以前は平安宮豊楽殿跡や平安宮内裏回廊跡とかをみましたが、大極殿跡は見つかりませんでした。
ウオッちずにはのっていませんでした。
検索しますと千本丸太町バス乗り場のそばでした。









平安京大極殿跡
京都府京都市千本丸太町の北西の内野児童公園内
北緯35度01分08.63秒 東経135度44分31.95秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350108.63&l=1354431.95

⊿竹島-福井-平安京大極殿
福井→平安京大極殿
 Ⅰ200°38′27.61″  Ⅱ20°21′45.74″ Ⅲ123,949.981(m)
福井→竹島
 Ⅰ289°48′31.10″  Ⅱ107°12′36.84″ Ⅲ410,251.698(m)
竹島→平安京大極殿
 Ⅰ124°06′09.38″  Ⅱ306°23′12.56″ Ⅲ426,815.427(m)

福井での角度
 289°48′31.10″-200°38′27.61″=89°10′03.49”≒89.1676度
竹島での角度
 124°06′09.38″-107°12′36.84″=16°53′32.16”≒16.8923度
平安京大極殿での角度
 360°-306°23′12.56″+20°21′45.74″=73°58′33.18”≒73.9759度



なんとか直角三角形になります。
90度、75度、15度になるのでしょうか。
竹島の位置をもう少し北側で、福井がもう少し南でも良さそうです。

竹島と日本の歴史とは因縁が深いです。
ただし、しつこくいいますが、竹島(韓国名・独島)は《リャンコトウ》と近世まで呼ばれていたはずで、日本語でも朝鮮語でもない名称でした。ですから、近世まではどちらの国も自国の領土とは考えていなかったはずです。
何度もやっていますが、
イザナミ・イザナギが生んだ最後の島・両児島(ふたごのしま)はリャンコトウと読めます。
また、フランスの捕鯨船が発見して、自分たちの船の名前から「リアンクール岩礁 (Liancourt Rocks)」と名付けた、というのは虚偽です。
(Liancourt)とは『リャンコトウ』に決まっています。
(しつこく付け足します。竹島という名前もリャンコトウ=二ケ島から来たものです。竹=二ケ=ケケ。1/13)
私のような、普通の一般人には、こんなことで紛争になるのはわけが分かりません。
ずっと以前から、縄文時代から、日本と朝鮮を結ぶ島なのですから共同管理地でいいじゃないですか。お互いの防衛のためにも。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
月と木星なんですが、・・・




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