古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

天智天皇は、いつ、妃を受け入れて、皇孫大田皇女はいつ亡くなったのか

2006年09月30日 23時01分59秒 | Weblog
 前回指摘した日本書紀の明らかな間違いは、大田皇女の両親(天智天皇・蘇我遠智娘)は、大田皇女が墓に葬られてから一年後に初めて結ばれて、結婚したと記述している所にあります。
この時の流れの逆転は、しつこく書きますが、「魏志倭人伝」の‘卑弥呼の復活’からきています。
ですから、日本書紀は故意に、時の流れを逆転させるという間違いを犯したのです。あくまでも、わざとやったのです。しかも、それは事実に基づいていたはずです。「魏志倭人伝」のように。

 では、想定される事実を推測します。
≪天智7年(668)2月23日(書紀五巻・巻27・p42)
 「遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る」≫
という記事は天智7年となっています。そして年表を見ると、天智7年は西暦668年にあたります。
斉明天皇の崩御が661年で、越年称元法で、翌年の662年が天智元年となっています。
ですから、天智7年は668年になっているのは正しいということになります。

≪天智7年「遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る」≫
という記事はたぶん正確です。事実に基づいているのです。

 しかし、実は天智7年は668年ではないはずです。
ここの書紀の記事は、本当の天智7年が別の年であることを表明しているのです。
前にも、書いたのですが、(2006年6/13のブログ)舒明天皇崩御後、中大兄皇子(天智天皇)が即位していたのではないか、という推測をしています。
(読み直してみますと、修正しなければならないこともありそうですが、いずれそのうち。)

 その場合、天智7年は、大化5年(649)か、大化4年(648)になります。
668-19=649と考えると、皇極2年(643)が天智元年となり、舒明天皇は642年に崩御となります。(舒明崩御後の皇極・孝徳・斉明天皇の期間は642年~661年です)

 しかし、現在の書紀の舒明崩御年は641年となっていますので、642年の皇極元年を天智元年にすることになります。
一年のズレはついてまわりますが、とりあえずは、現在の論点に関係ないと思われますので、実際の天智元年は643年か642年のどちらかだ、ということにしておきます。

 すると、天智7年は649年か648年になります。
 舒明天皇崩御の時16歳の中大兄皇子が誄(しのびごと)をしたという記事がありました。

書紀巻23・文庫四p184
≪・・・東宮(まうけのきみ)開別皇子(ひらかすわけのみこ)、年十六にして誄したまふ≫
ですから、実の天智7年・(649、648)には23、4歳ということになります。

≪天智7年「遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る」≫
という記事の「遂に」は、天智天皇が23,4歳なら、納得がいきます。
 治世7年目にして、やっと天皇もそういう年に届いた、という感慨があったように思えます。
 天智7年が668年の場合でも「遂に」とはいえますが、その時は、年が42,3歳になるわけですから、血統継承者が必要な家系ではありえないのです。
「結婚できない男たち」に入れてはいけません。
そこで、天智7年は649年か648年になるというのは正しいと考えています。

問題は前年の
天智6年(667)2月27日、(書紀五巻・巻27・p38)
「斉明天皇と間人皇女と合葬。その陵の前の墓に皇孫大田皇女を葬る」のほうです。

 これは、このままでも話は通じてしまいます。
 しかし、大田皇女は天武御世まで生きていてもらわなければ困ります。(私が)
 私の見るところ、大田皇女は卑弥呼として遇されているはずです。
また敏達天皇の最初の皇后広姫は、敏達4年(575)に皇后になり、その4年のうちに亡くなっています。
 敏達4年の100年後は天武4年です。
 敏達=天武という多くの場合があります。
 ですから、大田皇女は天武4年(675)に亡くなったのではないか、と推察することは可能です。(広姫=大田皇女と考えるのです。)
 そして、天武6年(677)に墓に葬られたのではないでしょうか。

 その場合、大田皇女は天武天皇の最初の皇后であり、壬申の乱の際に、天武天皇と吉野に随行したのは大田皇女だったとなります。鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・持統皇后)ではないのです。

 こうなると、天武天皇後継の争いは、大田皇女没後、水面下で、激しくなることは容易に想像できます。
 大津皇子が皇太子の地位のまま、(皇太子という名称があったならですが)鵜野讃良皇女(持統)が皇后についたのかもしれないのです。

 そして、天武天皇崩御後、一気に片が付けられたのです。

 こういう後継争いはよくあることのようです。

 NHKで先週(9/23)放送された「チャングムの誓い」ではそのような状況
が、解説されていました。
 国王の亡くなった先代の皇后には病弱の皇太子がいて、現在の皇后との軋轢を国王は心配している、といったものです。ちょっと記憶があやふやですが、大体同じようなものです。

 さて、以上の空想は大田皇女と持統女帝の母の蘇我遠智娘を見ると、理解が深まるかもしれません。(あてになりませんけど。)
 
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