古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

蘇我は石川? 石川県の石川とは?

2013年10月03日 13時02分37秒 | Weblog
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/42a96f77a075166ae7d6d79f2b8b7f95
蘇我氏は石川麻呂を祖とすると (玄斎)
2013-09-25 19:37:30
石川麻呂が、河内の石川のことならば、河内の野中村に林氏あり林臣であろうか。またこの村に藤井氏もふるくからある また古市の真連寺には、たしか蘇我氏の墓があった。河内は面白いでしょ

いただいたコメントの「石川」が気になっています。
石川氏というと蘇我氏の流れである、というのが一般的なようです。
また、文武天皇嬪(ひん)には石川刀子娘がいました。
また大伴安麻呂の妻に石川内命婦がいます。時期的には石川刀子娘は大伴安麻呂と石川内命婦の娘ではないかと考えましたが、大伴安麻呂も文武天皇と敵対したかもしれませんので、ちょっと変です。

http://kotobank.jp/word/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F
世界大百科事典 第2版の解説
そがうじ【蘇我氏】
古代の有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では,孝元天皇の孫(あるいは曾孫)武内宿禰(たけうちのすくね)を波多(はた),巨勢(こせ),平群(へぐり),紀,葛城(かつらぎ)氏とともに祖先とし,武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする。しかし,その起源には諸説があり,奈良県橿原市曾我または大阪府南河内郡石川の土着豪族とされてきたが,百済の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来して大和の曾我に定着したのに発するともされる。

蘇我氏は《武内宿禰の子の石川宿禰に始まるとする》とされています。
はっきりしませんが、どうも、蘇我氏の祖は石川氏で、石川氏の祖は蘇我氏ということなのでしょうか。

ですが、私の考えでは、《蘇我》とは『よみがえる(蘇る)我』ということで、朝鮮から戻ってきて、王権についた卑弥呼臺与(トヨ)の子孫のことです。
蘇我氏の崩年と天武天皇系は対応がみられました。また蘇我馬子には藤原不比等が投影されていました。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a25560e9d7f2d238ab6314ceeed75d07
 蘇我氏
継体崩531  39年差→ 稲目崩570   (569だと38年差)
        95年差→馬子崩626  ←60年差 天武崩686
       114年差→蝦夷崩645   ←60年差 敏達崩585
       114年差→入鹿崩645   ←60年差 敏達崩585
  (念のため、38=19×2、95=19×5、114=19×6。一干支=60年
   また『元興寺縁起』にのっとれば、欽明30年(569)蘇我稲目崩。)

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/be91dfe16a2685eb3b880dc718f7355f
各天皇方の崩年と即位年と『19』年間の関係2006年05月08日

それらについては色々やっていたと思います。

そこで、私は、蘇我氏は架空の氏族で、天武・天智天皇系をあらわしていると考えていました。
しかし、ここで石川も蘇我を表わしていることを考慮に入れると少し考えを変えなければなりません。
というのは、石川の「石」にこだわりがあるからです。
「石」は卑弥呼臺与(トヨ)を殺害した「磐之姫」を意味させているはずだ、と考えているからです。
スサノヲの正妻「磐之媛命」は嫉妬深く石のように硬く融通の利かない人物で、生前おそらく似たような名称で呼ばれていたはずです。(仮に仁徳天皇の后の名で呼びます。仁徳天皇にはスサノヲが投影されている部分があるはずです)

私は、590年ごろにクーデターが起こり、豪族たちが、朝鮮から戻ってきていた卑弥呼臺与(トヨ)の子孫を担ぎ上げ、スサノヲと磐之媛命の子孫の王朝を滅ぼした、と考えています。(まず天武天皇系の出雲からの『天孫降臨』)
しかし、全員が完全に殺されていたわけではなく「石川」が残っていたとします。
「石川」はクーデターを起こした側についていたことになります。
乙巳の変の蘇我倉山田石川麻呂のように。

さて、「石川」という地名は、検索すると、全国いたるところにあるようです。
いただいたコメントで、大坂の河内にもあるようです。
だいたいが川の名前のようです。






奈良県石川池
北緯34度28分56.4秒  東経135度48分5秒
奈良県石川町 
北緯34度37分53.2秒  東経135度49分13秒

ところで、石川といえば、石川県が最大ではないでしょうか。
なぜ石川県は石川県というのでしょうか。
わたしが、この石川にこだわるのは、能登にあるからです。
朝鮮半島-竹島(ケケ島・ニケ島・「Liancourt Rocks」両児島・ふたごの島)-能登半島という海の道が必ずあったと考えているからです。

検索してみますと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C
石川県(いしかわけん)は、日本の都道府県の一つ。本州の中央部、日本海側の北陸地方に位置する。 県域は令制国 の加賀国と能登国 に当たる。県庁所在地は金沢市。
石川県の名称は加賀地方にあった石川郡に由来し、さらに石川郡との命名は本県最大の河川手取川の古名である「石川」に由来する。1872年(明治5年)、金沢県庁が石川郡美川町(現・白山市)に移転した際、その郡名により石川県と改名された。翌年、県庁が再び金沢に移転した後も県名はそのままで現在に至っている[14]。なお、金沢も市制施行前である当時は石川郡に属していたため、県庁所在地と県名に不整合はなかったといえる。

で、検索をした後で、職場の同僚に金沢市の出身の人がいまして、尋ねてみました。
「石川県はなぜ石川県というのか」
すると、返答は驚くものでした。
「賊軍だったから、変な名前をつけられた」というのです。
幕末・明治維新時に官軍ではなかったようです。
「石川郡があって、そこを流れている手取川を、もとは石川といったのではないか」と私。
すると「手取川はもとから手取川だ。」という返事。

検索すると、
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/dainichikawadamu/tedori.html
手取川の概要
手取川は霊峰白山を源に、途中で尾添川、瀬波川、大日川、直海谷川を合流し、日本海へ注ぐ、長さ72kmの石川県最大の河川です。手取川は日本有数の急流河川で、洪水に悩まされ続けていました。こうした洪水との戦いの中で生まれた霞堤、村囲堤といった技術が今でも残っています。
手取川の由来
手取川と言う名前の由来にはいくつかあり、源平のむかし倶利伽羅の合戦を終えた木曾義仲の軍が急流を渡るために手を取り合って渡ったからとか、氾濫のたびに渡るのに手間どったからだとか言われています。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:KJ1A3_OY5qAJ:www.kyo-sin.net/kenmei.htm+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
http://www.pref.akita.jp/koho/furusato/min10/min10.html
石川県
石川、とは現在の石川郡・能美郡を流れている手取川のことを指すそうです。  その昔、この川はよく氾濫を起こし、大きな石をも流す暴れ川で、流域には流された石がゴロゴロしていました。そこで、この手取川を「いしかわ」と呼んだことからこの川の周辺が石川郡と名付けられたそうです。 ちなみに、「手取川」は木曾義仲軍が京へ上る時に、神の使いである巫女が手を取って浅瀬を渡し導いたとの伝説から由来するようです。  この「石川」という郡名が県名となるのは明治の廃藩置県のときですが、石川県が作られたとき、県庁が今の金沢市ではなく、現在の石川郡美川町に設置され、「石川県」となったのですが、すでにこの地方の経済の中心が金沢に集まっていたというような理由だと思われますが、県庁のほうは、わずか一年ほどで美川町から金沢に移りましたが、県名はそのまま残って「石川県」となったそうです。

手取川が元は石川という名称であったことを、金沢の人は認めていないのか、もしくはあまりに遠い昔ですっかり忘れられている?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%83%A1_(%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
石川郡 (石川県)
823年(弘仁14年)に加賀国設置とともに成立。加賀郡から分置し河南郡と呼称した。後に河南郡は廃止され、石川郡になる。郡域は、手取川以北浅野川以南。
明治2年
6月17日(1869年7月25日) - 版籍奉還により加賀藩(通称)の正式名称が金沢藩となる。
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により金沢県の管轄となる。
明治5年2月2日(1872年3月10日) - 金沢県が改称して石川県となる。

石川県にも河内があります。

しまりませんが、思い浮かんでいたのは、もしや、石川県の石川という名称は、スサノヲと磐之媛命の王朝のときに、何かが置かれた痕跡ではないか、ということです。
(明治政府が嫌がらせで石川県という名称にした場合でも、その石川の名称がどこからきたのか、本当の理由を知らなかった、ともいえます。←全くの妄想)
もちろん、朝鮮半島から北九州というのが本線でしょうが、また大きな船で朝鮮-竹島-能登というのは無理だったかもしれませんが、陸路の整備が進んでいなかったなら、危険をおかす価値はあったでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日午後4時過ぎ。消えかけの虹。もっと前に大きなきれいな虹だったようです。残念。


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