古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

聖武天皇の父は藤原不比等であるⅢ

2006年02月25日 22時57分52秒 | Weblog
海龍王寺(東北隅)
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344138&l=1354824
 法華寺、海龍王寺は藤原不比等邸の存在していた所です。
 不比等邸跡に、法華寺が建てられたという記述が「続日本紀」にあるそうです。
http://www1.sphere.ne.jp/naracity/j/kan_spot_data/w_si59.html
《海龍王寺は法華寺の東北隅にあったので、俗に隅寺と呼ばれていました。  西金堂には、薬師寺の三重塔と細部がよく似ている、国宝五重小塔があります》
 上記に載せられている地図も参照してください。
http://inoues.net/club/club_heijyo.html
《佐紀古墳群・平城宮跡をゆく》
《法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」である。光明皇后の生家、藤原不比等の邸が寄進されて寺となった。皇太子を満一歳前に亡くし、また天然痘で兄弟の藤原四卿を失った皇后の悲しみが、「滅罪寺」という名前を付けさせたのかもしれない。》
《奈良市の法華寺境内で、旧講堂の基壇下から宮殿並みの規模を持つ柱穴が、奈良文化財研究所の発掘調査で出土していたことが二十七日、わかった。》
《最近の研究では、不比等邸の敷地は、法華寺に隣接する海龍王寺を含む「八町」(約十三・五ヘクタール)と推定。長屋王邸の二倍、孫の太政大臣、仲麻呂邸の一・五倍に相当し、突出した広大さを持つとされている。》

 地図でわかるように、海龍王寺の東北の隅に東西に通る道路が、南北に走る道路とぶつかった所があります。そこを「海龍王寺(東北隅)」と採ります。
平城宮の東隣からそこまで、不比等邸だったようで、広大な邸宅です。
 藤原宮跡の真北は平城宮跡ではありません。少しずれています。藤原宮の真北は不比等邸です。不比等が帝王であった証拠の一つと思えます。
 
 海龍王寺(東北隅)・元明天皇陵・聖武天皇陵の位置関係をみますが、それぞれが近い位置にあるために、多少不正確になっているかもしれません。
 (元明陵、聖武陵の緯度・経度がチョットずれても、影響を受けます。そこで、海龍王寺の東北隅の位置が、道路を隔てた所あたりにしないとうまくいきません。しかし、必ず、基点は海龍王寺の内にあるはずです)

A海龍王寺・東北隅→元明天皇陵
①59.9443度 ②239.957度 ③2.40431km
B海龍王寺・東北隅→聖武天皇陵
①89.9935度 ②270.006度 ③2.081298km
C元明天皇陵→聖武天皇陵
①179.915度 ②?     ③1.203941km

Bから海龍王寺・東北隅は聖武天皇陵の真西にあることがわかります。
またCから元明天皇陵は聖武天皇陵の真北にあることがわかります。
ですから、この三地点は直角三角形を構成します。
さらに、海龍王寺・東北隅から他の二点に出る角度は、ほぼ30度になります。
(B①-A①=89.9935-59.9443=30.0492)
ですから、元明天皇陵から他の二点に出る角度はほぼ60度になります。
  (A②-C①=239.957-179.915=60.042)
そしてA③はC③のほぼ二倍、また、C③の1.732(=√3倍)がほぼB③になります。
というわけで、この三点を結んだ三角形は正三角形を真っ二つに割った直角三角形になります。
この形の直角三角形は、出雲大社・平城京・伊勢神宮・福井を結ぶ直線に見られた三角形で、大和朝廷にとってもっとも重要な三角形のはずです。

それが、ここに使われているということは、不比等・元明・聖武天皇がもっとも重要な人間関係にあるということを物語っています。
すなわち、彼等は親子関係にあるはずだ、ということになります。
また、「記・紀」は完全に不比等の主導の下につくられていたことも明らかです。
 
 「文武天皇の崩御後、その子の首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)はまだ7歳の幼少であるために、文武天皇の母親の阿閉皇女が皇位を継いで元明天皇となるが、その即位の半年後に新都造営の詔を発し、翌々年の和銅三(710)年三月に奈良盆地北端の平城京に遷都した。つまり、藤原京はわずか16年で廃都となり、やがてその条坊制の都は土に埋もれて条里制の水田に化してしまった。なぜ、藤原京がこのような短命に終わったのか、いまも謎のままである。」
  「飛鳥古京・藤原京・平城京の謎」p88 寺沢龍 草思社
 
 なぜ、藤原京がわずか16年で捨てられたのかは、すぐに明らかになります。
 文武天皇の母・阿閉皇女(元明天皇)は不比等と男女の関係になっていたことは明らかにしました。そして、子・首皇子(聖武天皇)まで儲けたはずなのです。
驚くべきことに、姉・氷高皇女(元正天皇)とも男女の関係になっていました。
なぜ、そういえるのでしょうか。
答えは「源氏物語」にあります。
光源氏は母に良く似た桐壺帝の中宮・藤壺との密通により、御子ができ、後にその子は天皇(冷泉帝)になります。
不比等と阿閉皇女の御子も聖武天皇になったはずです。(とりあえずの証拠は陵の位置関係です)
そして、氷高皇女が若紫のモデルです。
持統三年、31歳の不比等が草壁邸を訪れた時、草壁皇子と阿閉皇女には三人の子がいました。氷高皇女(元正天皇)と軽皇子(文武天皇)と吉備内親王です。この時の氷高皇女の年齢は、光源氏が初めて若紫を見たときの年齢ぐらいなのです。
氷高皇女は680年生まれとされていますから、持統三年(689)には、数えで10歳です。若紫も10歳ぐらいとされています。
(光源氏は、その時18歳ですから、31歳の不比等よりはるかに若いのですが、この18歳という設定はスサノヲと卑弥呼トヨの場合と混じっていると思われます)
 ということは、藤原不比等が二番目の光源氏のモデルだということです。(明石に流された後の光源氏はスサノヲです)
 若紫は藤壺と良く似ていたとされていました。当たり前です。事実は親子だったのですから。
 源氏物語に書かれた基本的な設定は、作者の頭の中の空想ではありません。
 事件は現場で起きていたのです。(このセリフはテレビのパクリ)
(聖武天皇は文武天皇と藤原宮子の御子とされています。後に書くかもしれませんが、とりあえず、一旦無視します。)

 納得できないかもしれませんが、しばらく我慢してください。
もし、以上の状況であったならば、文武天皇の胸の内はいかがなものでしょう。
不比等が憎くて、憎くて、しょうがなかったはずです。
 文武天皇からすれば、母も姉も不比等の毒牙にかかったのです。しかも、自分は天皇であるにもかかわらず、実権は不比等が握っています。
 
 文武天皇はクーデターを企てたはずです。
 不比等はそれを察知しました。もしかすると、不比等は必要以上に疑り深かったのかもしれません。しかし、先んじなければ、やられます。不比等はそのような例をいくつも視てきたはずです。
 そして、不比等は文武天皇を殺害します。
 そんな話は聞いた事がないといわれそうです。
 ですが、私の読むところ、日本書紀にそう書いてあるのだから仕方ありません。
          続く

 


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