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古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

藤原宮は飛鳥浄御原宮ではないでしょうかⅡ

2017年01月28日 13時48分36秒 | Weblog
藤原宮が本来は飛鳥浄御原宮だったとすると、私の説には都合がいいです。
阿蘇山-藤原宮跡-香取神宮が一直線。
そして藤原宮=飛鳥浄御原宮ならば
阿蘇(アソ・アス)=アスカ(飛鳥浄御原宮)-カ(香取)
という式が、間違いなく成り立ちます。

《「藤原宮」の藤原の意味について》は以前考えたことがありました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/855b65ad68e34e22b6c432faf2630e5a
「藤原宮」の藤原の意味について 2011年08月14日

この時と基本的には変わっていない気がしますが、ここにきて一つ変わったのは、「藤原宮」という名称は後からのもので、初めはここが「飛鳥浄御原宮」だったのではないか、ということです。

飛鳥京跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%AC%E8%B7%A1
地元では当地を皇極天皇の飛鳥板葺宮の跡地と伝承してきたため、発掘調査開始当初に検出された遺構については「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された[2]。しかし、上述のようにこの遺跡には異なる時期の宮殿遺構が重複して存在していることが判明し、2016年10月3日付けで史跡の指定範囲を追加の上、指定名称を「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に変更した[3]。

そして、「伝飛鳥板葺宮跡」の場所には、重複して宮が造られているということでした。
飛鳥浄御原宮もその位置にあるとされているようです。
そして、現在は『飛鳥京跡』という名称に落ち着いたそうです。
しかし、飛鳥浄御原宮はそれまでの宮の位置と違うべきではないでしょうか。

というのは、万葉集の歌からです。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/miyuki2.html
《壬申の年の乱、平定(たひ)らぎし以後(のち)の歌
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ(万19-4260)
【通釈】大君は神でいらっしゃるので、栗毛の馬が腹まで水に漬かって耕作する田んぼでさえ、皇都と成してしまわれた。
【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」巻三
大君は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に庵らせるかも
  作者不詳「万葉集」巻十九
大君は神にしませば水鳥のすだくみ沼を都と成しつ》

この大君は天武天皇とされています。
《壬申の年の乱、平定(たひ)らぎし以後(のち)の歌》ということですからそうなります。
そして、水沼を都とした、となっています。

飛鳥浄御原が代々続いた都と同じ位置ならば、「水沼」のわけがありません。
すると、これは藤原宮・藤原京(新益京)となるでしょう。

「壬申の乱」なぞ無かったのですが、その672年に、既に水沼はなくなっていて都とした、ということですと藤原宮遷都が持統8年(694年)では遅すぎます。

ともかく、藤原宮・藤原京(新益京)に関しては、書紀の記述は矛盾だらけでしょう。
日本書紀では白村江の戦いの敗戦の影響は小さくされているようです。
天智政権が続いていますから、そう思えます。
敗戦から9年も経った後で天智の皇子の大友皇子を倒して、天武政権が樹立されますが、
本来なら、唐に逆らった政権を倒して、成立した天武政権ということにしたはずです。
それにしても遅いです。
郭務悰をもう一度考えてみたいです。これは次回にして
阿蘇山-《藤原京(新益京)=飛鳥浄御原宮-香取神宮の直線と
飛鳥京跡・雷丘の位置関係













『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、「宮室を岡本宮の南に営る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
朱鳥元年七月の条に「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」とある。

天武元年672年ということですから、飛鳥浄御原宮は壬申の乱後に造られたことになります。
しかし、また朱鳥元年686年にも「名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」となっています。

いったい、飛鳥浄御原宮は672年に造られたのか、686年に造られたのでしょうか。
今のところ、これが何を意味しているのか解りませんが、
ともかく、天武元年672年「宮室を岡本宮の南に営る」とありました。
「岡本宮」はどこなのかとみると、「雷丘」にあったそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%AE%AE
舒明天皇の岡本宮
629年1月に舒明天皇は即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)[1]のふもとに遷宮し、岡本宮と称した。

ですが、飛鳥京跡にあったという説明もあり、整合はありません。
《岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。》

しかし、おそらく雷丘であったのでしょう。
というのは、飛鳥京跡-藤原宮跡の直線は雷丘のふもとを通り、
香取神宮-藤原宮跡-阿蘇山火口の直線と直角にぶつかっているからです。

雷丘の南とすると、飛鳥京跡(伝飛鳥板葺宮跡・飛鳥浄御原伝承地)ということになります
藤原宮跡は雷丘の北といっていいでしょう。
しかし、これは逆にしてある可能性があります。
また、飛鳥京跡と藤原宮跡を結ぶと雷丘のふもとを通ります。
岡本宮のあった位置を通っているのではないかとも思えます。
しかもこの直線は藤原宮跡-阿蘇山と直角にぶつかります。

藤原宮跡→飛鳥浄御原宮伝承地
 ①158°37′02.05″ ②338°37′29.93″ ③3,446.452(m)
藤原宮跡→阿蘇山火口
 ①249°02′04.19″ ②66°24′49.23″ ③473,084.726(m)
藤原宮跡→香取神宮
 ①69°00′04.98″ ②251°43′26.02″ ③456,523.747(m)

⊿飛鳥浄御原宮伝承地-藤原宮跡-阿蘇山火口
藤原宮跡での角度
249°02′04.19″-158°37′02.05″=90°25′02.14”≒90.4173度

⊿飛鳥浄御原宮伝承地-藤原宮跡-香取神宮
藤原宮跡での角度
 158°37′02.05″-69°00′04.98″=89°36′57.07”≒89.6159度

90.4173°+89.6159°=180.0332°・・・
ということで阿蘇山-藤原宮(=飛鳥浄御原宮)-香取神宮が一直線であることも再確認できます。

飛鳥浄御原宮伝承地
北緯34度28分24.46秒 東経135度49分15.70秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342824.467&l=1354915.70

藤原宮跡
北緯34度30分08.61秒 東経135度48分26.46秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.61&l=1354826.46

阿蘇山火口
北緯32度53分04.30秒 東経131度05分07.25秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=325304.30&l=1310507.25

香取神宮
北緯35度53分10.26秒 東経140度31分44.10秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=355310.26&l=1403144.10
35.8862n 140.5289e
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