古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

前回の五角形に龍門山を加えます

2009年10月29日 11時17分15秒 | Weblog
龍門山といっても、私自身、初めて知った名前です。
いかにも風水を思わせる名前ですので結びつけてみました。
検索しますと、奈良時代には高畑山という何の変哲もない名前で呼ばれていたものが、龍門山に変えられていたことがわかります。
ちょうど、仙台の太白山が『昔は独活(うど)ヶ森・おどが森・生出森と呼ばれていた』(2007・10/1を参照してください)と同じようです。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/d9a9e72657d3540f63becf3d6f0d4ebb

太白山は金星が落ちたからだとか、またこの龍門山にも説話がつけられていますが、実はその位置から名前が変えられたと考えられます。

龍門山
http://www.mtweb.jp/yamatabi/nihon/ryumonzan/ryumonzan.htm

龍門山の位置
検索結果 (2件) / 検索文字列:龍門山
1~2件を表示しています。
● 龍門山 (りゅうもんさん) / "三重県熊野市"
● 龍門山 (りゅうもんざん) / "和歌山県紀の川市"

熊野市のほうも何かありそうですが、今回は"和歌山県紀の川市"の龍門山です。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=341417&l=1352440

阿武山古墳-難波宮跡-四天王寺の直線をさらに延長します。
また、天智天皇陵から交点(恭仁宮跡-四天王寺、阿武山古墳-達磨寺の直線のぶつかった日下あたり)に直線を降ろし、さらに延長します。
その二直線の交点が龍門山辺りになりそうです。

ただし、五角形の東側の恭仁宮跡-法隆寺・五重塔、または恭仁宮跡-達磨寺の延長線上ピッタリとは龍門山にいきません。
かなり遠くからみますと一点でぶつかっているようには見えます。




龍門山と付近の地名


この位置にすると、阿武山古墳-難波宮跡-四天王寺と完全に一直線。
70mほど東
高野山・金剛峯寺は龍門山の東です。
また龍門山の西には高野(たかの)という地名があります。



 その時の大阪・日下辺り、龍門山の位置を少しずらせば阿武山古墳-達磨寺、恭仁宮跡-四天王寺、天智天皇陵-龍門山は一点で交わる。


その時の四天王寺


右側の線は恭仁宮跡-龍門山で、左側の線は恭仁宮跡-達磨寺の線




右側の線は恭仁宮跡-龍門山で平城京・朱雀門を通る。この線は藤ノ木古墳も通っています。左側の線は恭仁宮跡-達磨寺の線。


 もしかすると、この五角形は法隆寺・五重塔及び達磨寺ではない地点がいいのかも知れないというおそれが少しあります。
 ところが、先の五角形の東側の部分、恭仁宮跡とこの龍門山を結んだ線は、法隆寺・五重塔も達磨寺も通りません。
 その直線は藤ノ木古墳を通っています。
 最初の五角形(天智天皇陵・阿武山古墳・難波宮跡・法隆寺・恭仁宮跡)の法隆寺の地点を「法隆寺・五重塔」にしたのは阿武山古墳の関係から「雷」の関連で選びました。
 しかし「古墳」の関連でいけば、藤ノ木古墳でも良かったわけです。
 また、難波宮や恭仁宮の「宮」の関係でいけば、『斑鳩宮』でもいいわけです。 
 要するに、最初の五角形では法隆寺の何処をとっても、一長一短があり、大して形は変わりませんし、何処を最良の位置にしていいのかわかりません。
 計算してもわからないのではないかと思いますので、この五角形の東の部分については留保を付けておきます。
 

・・・・
2、3日前の台風が抜けた朝、7時半ごろ


その日の夕方



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