M竹島、Xf武寧王陵(ムリョンワンヌン)、Xl白頭山、Ga高千穂峰、S太白山
前回の正三角形を見ていて、竹島が気になりました。
竹島の位置については一月に検討しています。
今から考えると、一月の竹島の位置についての検討は多少無理がありました。
図で見てわかりますように、竹島の位置に関しては、今回の方が単純で意味があるように見えます。(前回のをすべて捨てるわけではありませんが)
竹島
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=371443&l=1315212
竹島の位置は太白山から白頭山-高千穂峰の直線に対して下ろした垂線上にありそうです。
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
Ⅰ264°48′35.20 Ⅱ79°20′07.94″ Ⅲ794,578.460(m)
太白山→高千穂峰
①234.805度 ②49.1104度 ③1141.657km
Ⅰ234°55′51.29″ Ⅱ49°14′07.56″ Ⅲ 1,142,876.701(m)
太白山→白頭山
①295.188度 ②106.968度 ③1157.633km
Ⅰ295°06′45.73″ Ⅱ106°53′35.33″ Ⅲ1,160,596.128(m)
264.776-234.805=29.971度
295.188-264.776=30.412度
前回見たように、△A(太白山・高千穂峰・白頭山)はほぼ正三角形ですから、太白山での角度は60°です。
ですから、太白山から竹島の直線は△Aでの太白山での角度を二等分しているといえます。
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/taihakuku/40/40-01.htm
≪太白山はこんな山
太白星(金星)が落ちてできた山なので太白山といわれる山。しかし昔は独活(うど)ヶ森・おどが森・生出森と呼ばれていた。頂上には大同二年(八〇七年)に京都から貴船神社を観請したといわれ、地主の神として崇められてきた。文治二年(一一八九年)源頼朝が鶴岡八幡より、八幡神社を勧請した。戦前までは戦の神として、胃病の神として数多くの人々が秋保軌道を利用して参拝したものという。・・・≫
太白山の神社(貴船神社または八幡神社。ずぼらでごめんなさい。)
北緯38度14分3秒,東経140度48分13秒
807年に貴船神社が勧請されたそうです。
理由は、太白山の位置と白頭山・高千穂峰を結ぶと正三角形になることがわかったからではないでしょうか。
ただ、それがどういう意味をもったものかは、まだわかりかねます。
806年に桓武天皇が崩御しています。ですから、807年は平城天皇の御代です。
勝手な推測をすれば
ア・桓武天皇の崩御が祟りと考えられて、祟りを押えようとした。
イ・桓武天皇の生前の構想で、朝鮮・武寧王陵を視野に入れていた。
(桓武天皇の母上が百済・武寧王の子孫だということは有名です。もちろん、私は父方も百済王の系統だと考えています)
その他いろいろ考えられるでしょうが、この図が何らかの意味を持っていたことは一目瞭然です。
竹島・武寧王陵(ムリョンワンヌン)の位置から高千穂峰・白頭山の位置を見てみます。
竹島-高千穂峰の距離が600kmぐらいで少し短いですが、その他は620kmぐらいで同一距離です。
竹島→白頭山
①329.665度 ②147.248度 ③619.7438km
Ⅰ329°33′49.67 Ⅱ147°08′46.76″ Ⅲ619,832.596(m)
竹島→高千穂峰
①188.587度 ②8.04772度 ③601.8954km
Ⅰ188°37′31.15″ Ⅱ8°05′06.38″ Ⅲ600,869.716(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→白頭山
①7.42283度 ②188.036度 ③620.8683km
Ⅰ7°27′13.02″ Ⅱ188°04′03.56″ Ⅲ620,283.181(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→高千穂峰
①144.396度 ②326.536度 ③617.2983km
Ⅰ144°16′23.67″ Ⅱ326°24′46.81″ Ⅲ617,060.407(m)
また太白山-竹島-武寧王陵(ムリョンワンヌン)はほぼ一直線になります。
武寧王陵と特定しないで、百済の首都だった公州(コンジュ)とすれば、一直線といえます。
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→竹島
①76.9773度 ②259.831度 ③431.7289km
Ⅰ 77°01′33.08″ Ⅱ259°52′47.25″ Ⅲ432,900.174(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→太白山
①76.6338度 ②264.964度 ③1224.032km
Ⅰ76°40′20.19″ Ⅱ265°00′09.96″ Ⅲ1,227,465.955(m)
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
Ⅰ264°48′35.20 Ⅱ79°20′07.94″ Ⅲ794,578.460(m)
431.7289+792.3154=1224.0443km
1224.0443-1224.032=0.0123 12.3m違い
(太白山の神社の位置でやると11.7mの違い)
432,900.174+794,578.460=1,227,478.634m
1,227,478.634-1,227,465.955=12.679m違い
太白山-竹島-武寧王陵(ムリョンワンヌン)は完全には一直線にはなりません。
そこであまり意味は無いかと思いますが、武寧王陵(ムリョンワンヌン)の位置を動かしてみます。もちろん、動きようはありませんが、どこになるといいか考えてみます。
北緯36度26分20秒、東経127度7分0秒(Xとします)あたりだと、ほぼ一直線になります。
X→太白山
①76.5078度 ②264.834度 ③1224.412km
X→竹島
①76.6126度 ②259.463度 ③432.0976km
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
432.0976+792.3154=1224.413km 1m違い
武寧王陵(ムリョンワンヌン)と2.8kmほど離れています。
この位置をグーグルアースで確かめます。
公州(コンジュ)のはずれになります。
ちなみに公州(コンジュ)のCityhall
北緯36度26分46秒、東経127度7分7秒
ここですと2.7mの違いです。
武寧王陵(ムリョンワンヌン)と2km離れています。
検討する余地はいろいろありそうですが、竹島は、遅くとも9世紀の初めには、大和朝廷にとって重要な位置にあることは認識されていたことになります。
一月にも言及しましたが、イザナミ・イザナギが生んだ最後の島である「天の両屋」は竹島になるでしょう。
ということは、「記・紀」は桓武天皇・平城天皇の時代にも手を加えられていたことにもなるわけです。
検討することがたくさんありすぎて、締りがつきません。
フラフラ続けます。
前回の正三角形を見ていて、竹島が気になりました。
竹島の位置については一月に検討しています。
今から考えると、一月の竹島の位置についての検討は多少無理がありました。
図で見てわかりますように、竹島の位置に関しては、今回の方が単純で意味があるように見えます。(前回のをすべて捨てるわけではありませんが)
竹島
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=371443&l=1315212
竹島の位置は太白山から白頭山-高千穂峰の直線に対して下ろした垂線上にありそうです。
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
Ⅰ264°48′35.20 Ⅱ79°20′07.94″ Ⅲ794,578.460(m)
太白山→高千穂峰
①234.805度 ②49.1104度 ③1141.657km
Ⅰ234°55′51.29″ Ⅱ49°14′07.56″ Ⅲ 1,142,876.701(m)
太白山→白頭山
①295.188度 ②106.968度 ③1157.633km
Ⅰ295°06′45.73″ Ⅱ106°53′35.33″ Ⅲ1,160,596.128(m)
264.776-234.805=29.971度
295.188-264.776=30.412度
前回見たように、△A(太白山・高千穂峰・白頭山)はほぼ正三角形ですから、太白山での角度は60°です。
ですから、太白山から竹島の直線は△Aでの太白山での角度を二等分しているといえます。
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/taihakuku/40/40-01.htm
≪太白山はこんな山
太白星(金星)が落ちてできた山なので太白山といわれる山。しかし昔は独活(うど)ヶ森・おどが森・生出森と呼ばれていた。頂上には大同二年(八〇七年)に京都から貴船神社を観請したといわれ、地主の神として崇められてきた。文治二年(一一八九年)源頼朝が鶴岡八幡より、八幡神社を勧請した。戦前までは戦の神として、胃病の神として数多くの人々が秋保軌道を利用して参拝したものという。・・・≫
太白山の神社(貴船神社または八幡神社。ずぼらでごめんなさい。)
北緯38度14分3秒,東経140度48分13秒
807年に貴船神社が勧請されたそうです。
理由は、太白山の位置と白頭山・高千穂峰を結ぶと正三角形になることがわかったからではないでしょうか。
ただ、それがどういう意味をもったものかは、まだわかりかねます。
806年に桓武天皇が崩御しています。ですから、807年は平城天皇の御代です。
勝手な推測をすれば
ア・桓武天皇の崩御が祟りと考えられて、祟りを押えようとした。
イ・桓武天皇の生前の構想で、朝鮮・武寧王陵を視野に入れていた。
(桓武天皇の母上が百済・武寧王の子孫だということは有名です。もちろん、私は父方も百済王の系統だと考えています)
その他いろいろ考えられるでしょうが、この図が何らかの意味を持っていたことは一目瞭然です。
竹島・武寧王陵(ムリョンワンヌン)の位置から高千穂峰・白頭山の位置を見てみます。
竹島-高千穂峰の距離が600kmぐらいで少し短いですが、その他は620kmぐらいで同一距離です。
竹島→白頭山
①329.665度 ②147.248度 ③619.7438km
Ⅰ329°33′49.67 Ⅱ147°08′46.76″ Ⅲ619,832.596(m)
竹島→高千穂峰
①188.587度 ②8.04772度 ③601.8954km
Ⅰ188°37′31.15″ Ⅱ8°05′06.38″ Ⅲ600,869.716(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→白頭山
①7.42283度 ②188.036度 ③620.8683km
Ⅰ7°27′13.02″ Ⅱ188°04′03.56″ Ⅲ620,283.181(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→高千穂峰
①144.396度 ②326.536度 ③617.2983km
Ⅰ144°16′23.67″ Ⅱ326°24′46.81″ Ⅲ617,060.407(m)
また太白山-竹島-武寧王陵(ムリョンワンヌン)はほぼ一直線になります。
武寧王陵と特定しないで、百済の首都だった公州(コンジュ)とすれば、一直線といえます。
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→竹島
①76.9773度 ②259.831度 ③431.7289km
Ⅰ 77°01′33.08″ Ⅱ259°52′47.25″ Ⅲ432,900.174(m)
武寧王陵(ムリョンワンヌン)→太白山
①76.6338度 ②264.964度 ③1224.032km
Ⅰ76°40′20.19″ Ⅱ265°00′09.96″ Ⅲ1,227,465.955(m)
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
Ⅰ264°48′35.20 Ⅱ79°20′07.94″ Ⅲ794,578.460(m)
431.7289+792.3154=1224.0443km
1224.0443-1224.032=0.0123 12.3m違い
(太白山の神社の位置でやると11.7mの違い)
432,900.174+794,578.460=1,227,478.634m
1,227,478.634-1,227,465.955=12.679m違い
太白山-竹島-武寧王陵(ムリョンワンヌン)は完全には一直線にはなりません。
そこであまり意味は無いかと思いますが、武寧王陵(ムリョンワンヌン)の位置を動かしてみます。もちろん、動きようはありませんが、どこになるといいか考えてみます。
北緯36度26分20秒、東経127度7分0秒(Xとします)あたりだと、ほぼ一直線になります。
X→太白山
①76.5078度 ②264.834度 ③1224.412km
X→竹島
①76.6126度 ②259.463度 ③432.0976km
太白山→竹島
①264.776度 ②79.3025度 ③792.3154km
432.0976+792.3154=1224.413km 1m違い
武寧王陵(ムリョンワンヌン)と2.8kmほど離れています。
この位置をグーグルアースで確かめます。
公州(コンジュ)のはずれになります。
ちなみに公州(コンジュ)のCityhall
北緯36度26分46秒、東経127度7分7秒
ここですと2.7mの違いです。
武寧王陵(ムリョンワンヌン)と2km離れています。
検討する余地はいろいろありそうですが、竹島は、遅くとも9世紀の初めには、大和朝廷にとって重要な位置にあることは認識されていたことになります。
一月にも言及しましたが、イザナミ・イザナギが生んだ最後の島である「天の両屋」は竹島になるでしょう。
ということは、「記・紀」は桓武天皇・平城天皇の時代にも手を加えられていたことにもなるわけです。
検討することがたくさんありすぎて、締りがつきません。
フラフラ続けます。