瀧原宮-扶余(プヨ)の測地線は耳成山をかすめます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/67/749d4c69ec5fc521c1fa9ae118a894d0.jpg)
扶余(プヨ)
北緯36度16分38.62秒、東経126度55分04.58秒
瀧原宮
北緯34度21分57.83秒、東経136度25分30.62秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342157.83&l=1362530.62
耳成山
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343051.70&l=1354821.36
扶余(プヨ)→瀧原宮
Ⅰ100°59′53.51″ Ⅱ286°30′15.04″ Ⅲ889,695.225(m)
扶余(プヨ)→耳成山
Ⅰ101°00′46.80″ Ⅱ286°10′07.09″ Ⅲ830,454.404(m)
耳成山→瀧原宮
Ⅰ105°56′49.41″ Ⅱ286°17′50.17″ Ⅲ59,241.235(m)
830,454.404(m)+ 59,241.235(m)=889,695.639(m)・・0.414m(41.4cm)違い
この測地線は藤原宮跡からだと1500mぐらい離れています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/6a/1d605dbf2f9e8eb3ddbc0833e2efa152.jpg)
そこで、瀧原宮から錦江(クムガン)河口にも測地線を引いてみました。
一番上の写真の下の線がそれです。
初め、扶余(プヨ)より南の錦江(クムガン)河口ならば、瀧原宮への測地線は、高松塚古墳よりも南を通り藤原京全体をはさみ込むのではないかと考えました。
ところが、畝傍山の北側を通ります。
二つの測地線は藤原宮跡をはさみます。
藤原宮跡
北緯34度30分08.09秒、東経135度48分26.66秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.09&l=1354826.66
錦江(クムガン)河口
北緯35度59分59.80秒、東経126度42分10.03秒
錦江(クムガン)河口→瀧原宮
Ⅰ98°44′06.34 Ⅱ284°20′47.90″ Ⅲ903,500.802(m)
錦江(クムガン)河口→藤原宮跡
Ⅰ98°41′03.84″ Ⅱ283°56′49.54″ Ⅲ844,750.430(m)
藤原宮跡→瀧原宮
Ⅰ104°43′26.62″ Ⅱ285°04′24.19″ Ⅲ58,755.425(m)
58,755.425(m)+ 844,750.430(m)=903,505.855・・・5mほど違います
藤原宮跡から《錦江(クムガン)河口-瀧原宮》の測地線までの距離は780mほどです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/a0/fa02bb1d30d4d52b03826e8f5e75cd74.jpg)
ついでに、公山城(コンサンソン)-瀧原宮もやってみました。
この測地線には百済寺がのっています。
《日御碕神社-瀧原宮は以前やっていますが、箸墓・三輪山がのっています。
この測地線が朝鮮半島のどこに行き着くかといいますと、牙山湾の近くです。
これに意味があるかどうかわかりかねますが、あるとすれば白村江の戦いの関連です。》
一番上の線が公山城(コンサンソン)-瀧原宮の測地線です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/55/364422a336bdf6142457b2389a13c6c8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ea/90db4094ac5d5b34edf4aac2d555eb50.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/06/8a518728191d5eb8c0c6c6f1a650ba66.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/fa/69ae7c58c9095d49a7d1177296d16a2f.jpg)
しかし、《瀧原宮-藤原宮-百済》が関係するのは奇妙に思われます。
といいますのは、藤原宮を造った主役は百済系の人たちではないはずだからです。
ですが、持統天皇の時のこととされていて、持統天皇は天智天皇の娘ということにされています。天智天皇が百済系ということならばおかしくはないとなります。
私の考えはまるで違いますし、今までもやっていますように、これは高句麗系と百済系の蜜月時代のせいだと考えています。
ちょっと、考えが違ってきたところもありますが、暑くてまとまりませんので、いずれ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
概要 [編集]690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。
名称 [編集]藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/67/749d4c69ec5fc521c1fa9ae118a894d0.jpg)
扶余(プヨ)
北緯36度16分38.62秒、東経126度55分04.58秒
瀧原宮
北緯34度21分57.83秒、東経136度25分30.62秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342157.83&l=1362530.62
耳成山
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343051.70&l=1354821.36
扶余(プヨ)→瀧原宮
Ⅰ100°59′53.51″ Ⅱ286°30′15.04″ Ⅲ889,695.225(m)
扶余(プヨ)→耳成山
Ⅰ101°00′46.80″ Ⅱ286°10′07.09″ Ⅲ830,454.404(m)
耳成山→瀧原宮
Ⅰ105°56′49.41″ Ⅱ286°17′50.17″ Ⅲ59,241.235(m)
830,454.404(m)+ 59,241.235(m)=889,695.639(m)・・0.414m(41.4cm)違い
この測地線は藤原宮跡からだと1500mぐらい離れています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/6a/1d605dbf2f9e8eb3ddbc0833e2efa152.jpg)
そこで、瀧原宮から錦江(クムガン)河口にも測地線を引いてみました。
一番上の写真の下の線がそれです。
初め、扶余(プヨ)より南の錦江(クムガン)河口ならば、瀧原宮への測地線は、高松塚古墳よりも南を通り藤原京全体をはさみ込むのではないかと考えました。
ところが、畝傍山の北側を通ります。
二つの測地線は藤原宮跡をはさみます。
藤原宮跡
北緯34度30分08.09秒、東経135度48分26.66秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343008.09&l=1354826.66
錦江(クムガン)河口
北緯35度59分59.80秒、東経126度42分10.03秒
錦江(クムガン)河口→瀧原宮
Ⅰ98°44′06.34 Ⅱ284°20′47.90″ Ⅲ903,500.802(m)
錦江(クムガン)河口→藤原宮跡
Ⅰ98°41′03.84″ Ⅱ283°56′49.54″ Ⅲ844,750.430(m)
藤原宮跡→瀧原宮
Ⅰ104°43′26.62″ Ⅱ285°04′24.19″ Ⅲ58,755.425(m)
58,755.425(m)+ 844,750.430(m)=903,505.855・・・5mほど違います
藤原宮跡から《錦江(クムガン)河口-瀧原宮》の測地線までの距離は780mほどです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/a0/fa02bb1d30d4d52b03826e8f5e75cd74.jpg)
ついでに、公山城(コンサンソン)-瀧原宮もやってみました。
この測地線には百済寺がのっています。
《日御碕神社-瀧原宮は以前やっていますが、箸墓・三輪山がのっています。
この測地線が朝鮮半島のどこに行き着くかといいますと、牙山湾の近くです。
これに意味があるかどうかわかりかねますが、あるとすれば白村江の戦いの関連です。》
一番上の線が公山城(コンサンソン)-瀧原宮の測地線です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/55/364422a336bdf6142457b2389a13c6c8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/ea/90db4094ac5d5b34edf4aac2d555eb50.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/06/8a518728191d5eb8c0c6c6f1a650ba66.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/fa/69ae7c58c9095d49a7d1177296d16a2f.jpg)
しかし、《瀧原宮-藤原宮-百済》が関係するのは奇妙に思われます。
といいますのは、藤原宮を造った主役は百済系の人たちではないはずだからです。
ですが、持統天皇の時のこととされていて、持統天皇は天智天皇の娘ということにされています。天智天皇が百済系ということならばおかしくはないとなります。
私の考えはまるで違いますし、今までもやっていますように、これは高句麗系と百済系の蜜月時代のせいだと考えています。
ちょっと、考えが違ってきたところもありますが、暑くてまとまりませんので、いずれ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
概要 [編集]690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。
名称 [編集]藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。