古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

大友皇子が大伴だった場合/608年裴世清・668年郭務悰

2013年10月27日 15時05分28秒 | Weblog
ほんの少し、空想・妄想を進めました。
大友皇子の大友が大伴であるとすると、私の説に都合いいことになります。
壬申の乱は大海人皇子と大友皇子の争いでした。
しかし、もし大友が大伴を顕しているとすると『魏志倭人伝』の間違い通りに書かれたことになります。
『魏志倭人伝』では卑弥弓呼は卑弥呼と敵対するものでしたが、実は卑弥弓呼は卑弥呼の弟だったと考えています。
『魏志倭人伝』は味方同士を敵対しているものと描いてしまっています。
天武天皇系と大伴氏は敵対するものではなく、大伴氏の祖先は『天孫降臨』『神武東征』でも先導し切り開いていくものでした。
(『天孫降臨』も『神武東征』も同一のものです)
その天武天皇系と大伴氏を敵対していることにしてしまっています。
これは『魏志倭人伝』の間違いどおりです。

ともかく、『魏志倭人伝』の間違い通りに書くのは、『魏志倭人伝』が卑弥呼復活を預言してしまったからです。
『壬申の乱』自体もなかったと考えています。
<乙巳の変もなかったことになります>
天智天皇が架空の存在ですから当たり前といえば当たり前です。
(架空の存在や無かった戦争が『魏志倭人伝』に書かれているからと考えています)
『壬申の乱』は大友皇子が大伴氏ならば、ありえない戦争となります。

以前に書きましたが、『壬申の乱』がなぜ創りだされたかというと、本当の首謀者を隠す、という意図があったと思われます。
壬申の乱は<天武天皇もしくは白村江の戦い当時の王位にあった者>が当事者であったことを隠すために創られた戦いであると考えます。
豪族たちも自分たちの関与を唐に知られないように、天武天皇系に嫁いだ娘たちを、自分たちの娘ではなく、天智天皇の娘、すなわち皇女に仕立て上げました。
現在公式的とされている天智天皇の娘と天武天皇系の閨閥は絶対にありえない閨閥関係です。
唐に対し真の戦犯を隠し、架空の天智天皇を身代わりにするためのものです。
ただし、百済王子(または百済王)豊璋を差し出す必要がありました。
百済王家の殲滅だけは必須のことでした。
668年高句麗を滅亡させた唐としては、次は朝鮮半島の直接の支配です。
同盟となっていた新羅が唐の次の標的になります。
しかし、百済王家の系統を残すことは、朝鮮半島の領有を狙う唐としては邪魔な存在となります。<戻ってこられたら困ります>

唐にとって敵だった日本の役割は新羅牽制に変わっていました。
ちょうど、第二次大戦で日本を破ったアメリカが日本を共産主義からの防波堤として位置づけ、日本を共産主義・ソビエト連邦牽制の役割をになわせたように。
以前に書きましたが、郭務悰の役目は百済王家の殲滅と高句麗滅亡後の朝鮮半島情勢を唐有利に進めるためです。できるものならば、新羅を滅ぼし朝鮮領有までも狙ったでしょう。
そのために日本を必要としました。新羅を挟み撃ちにするためです。
ですから、唐としては、大和朝廷が恭順の意を表するならば、とりあえず、味方に変えて、都合のいい政権として、大和朝廷を滅ぼす必要はないわけです。
(新羅を滅ぼした後はどうなったでしょうか。色々可能性はあります)

前回、前々回と引用させていただきましたが、608年『唐客』と書かれた裴世清が海柘榴市に迎えられました。
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遺飾騎七十五匹、而迎唐客於海石榴市術
【《日本書紀》武烈即位前紀に〈海柘榴市巷(ちまた)〉,同推古16年(608)条に難波より大和川を遡上してきた隋使裴世清(はいせいせい)一行を〈海石榴市街(ちまた)〉に迎えたとあるごとく,水陸交通の要衝に立地した。】

これは608年のことですから、まだ唐ではなく隋の時代のことでした。
以前、これを『魏志倭人伝』の間違いどおりだとしました。
『魏志倭人伝』は『魏』の時代のことを書くべきですが、次の『西晋』の時代のことを『魏』の時代として書いてしまっていたからです。<臺与(トヨ)の西晋への遣使>

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/2710075343281bb554fcdcab17505979
小野妹子に課せられた使命②  2006年04月18日

さて、この裴世清がやってきたのが608年ではなく、一干支後の668年のこととしたらどうでしょうか。
660年百済滅亡・663年白村江の戦い・668年高句麗滅亡の一連が続いています。
ですから、668年のことだとするとこの裴世清は郭務悰に変化します。
推古16年に書かれているのは『唐客』郭務悰の可能性が出てきました。
海柘榴市に迎えられたのは、668年の郭務悰だったのではないでしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/15b233153ef0a780063baa399b898aec
小野妹子に課せられた使命③ 2006年04月21日
推古16年(608)4月に裴世清と下客(しもべ)12人、筑紫に到着。
 6月15日 難波の津に泊まる。 8月3日 唐の客、京(みやこ)に入る

難波についてから京に入るまでの期間が長すぎる、というのがこのときの疑問でした。
これが668年郭務悰でしたなら、12人ということはなく、また2000人全部ということもないでしょうが、12人ではすまない、もっと大人数でしょう。
このとき、大和朝廷はてんやわんやの大騒ぎをしていたに違いありません。

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27号、28号台風に備えて土嚢を積みました。
それていってましたから必要は無さそうでしたが、練習で。




恵比寿方面


渋谷方面

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