白村江の戦いは
<:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)>
旧暦の27日、28日ということですから、新月に近いわけです。
http://www.data.kishou.go.jp/db/tide/suisan/explanation.html#hilo
《潮位は、月の運行に伴い、通常、1日2回の満潮および干潮を繰り返しますが、場所や時期によっては、1日1回の場合や、3回以上現れる場合もあります。》
《朔(新月)、望(満月)に当たる日の前後数日間は、潮位の満潮・干潮の差が大きくなる「大潮」となります。また、上弦の月、下弦の月に当たる日の前後数日間は、潮位の満潮・干潮の差が小さくなる「小潮」となります。》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E6%B1%90
《朔(旧暦1日)や満月(15日)のころには、月・太陽・地球が一直線に並び、月による起潮力(太陰潮)と太陽による起潮力(太陽潮)とが重り合うため、高低差が大きい大潮(おおしお)となる。》
干満の差が最も大きいときですから、潮流が最も速いときで、満潮に向かう時に「白村江の戦い」は起きたのでしょう。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki27.html
《天智天皇二年(六六三)八月戊申【二十七】》◆戊申。日本船師初至者。与大唐船師合戦。日本不利而退。大唐堅陣而守。
《天智天皇二年(六六三)八月己酉【二十八】》◆己酉、日本諸将与百済王、不観気象。而相謂之曰。我等争先、彼応自退。更率日本乱伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍。大唐便自左右夾船繞戦。須臾之際。官軍敗績。赴水溺死者衆。艫舳不得廻旋。
8月27日はやや不利があって、日本軍は退きます。
唐の堅陣は破れなかったものの、歯が立たないというものではなかった、という感触を日本軍は受けます。
8月28日は、それならばと日本軍は気合を入れなおしたかもしれません。
まるっきりの空想ですが、唐・新羅の連合軍は凪の状態か、まだ舵が効く状態の時に、おとりの船を出し、しばらく交戦し、そしてころあいを見て逃げだします。
初日の敗北から押し返したと思い、当然日本船は追いかけます。
《我等争先》
それは新羅・唐の作戦で、湾の中を深追いした時は、既に舵が効かないほどの潮流が速くなっています。
(初日はかなりの沖合いで戦い、干満の潮流は関係なかったかもしれません。)
左右に分かれて待ち受けていた唐・新羅の船は日本船に向かって矢をかけます。
しかし、風の具合では火矢は無理かもしれません。
普通の矢だったかもしれません。(書紀のその部分には「火」はでていません)
きっと風も計算していたことでしょう。
このとき、河口で待ち受けていた唐・新羅の船は潮流に流されない工夫をしていなければなりません。
船同士を鎖でつなぐ「連還の計」を用いたのではないでしょうか。
(「赤壁の戦い」では、曹操軍が負けた大きな原因となったものです)
なお、「日本書紀」では、「白村江の戦い」では唐の軍船だけのようですが、新羅の船もあったでしょうし、とくに作戦は金庾信(きむゆしん・595年 - 673年)がまだ生存している時ですから、現地の状況を知らないであろう唐が指揮を執るより、金庾信が作戦を立てたのではないかと思えます。
「日本書紀」は、新羅に負けたというのでは悔しいものですから、唐を全面にたてているのではないでしょうか。
例によって全部空想ですから、あしからず。
・・・・・・・・・・・・・
以前、書いていますが
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/85843b8594d7146229b91a4034c5a1a5
想像される白村江の天智天皇の幻の戦略
この前後の時期と考え方が特に違っているのは、天智天皇の存在です。
現在は天智天皇は存在しなかったと考えています。
また、百済王豊璋は東海岸から竹島を通って日本に亡命したと考えています。
<:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)>
旧暦の27日、28日ということですから、新月に近いわけです。
http://www.data.kishou.go.jp/db/tide/suisan/explanation.html#hilo
《潮位は、月の運行に伴い、通常、1日2回の満潮および干潮を繰り返しますが、場所や時期によっては、1日1回の場合や、3回以上現れる場合もあります。》
《朔(新月)、望(満月)に当たる日の前後数日間は、潮位の満潮・干潮の差が大きくなる「大潮」となります。また、上弦の月、下弦の月に当たる日の前後数日間は、潮位の満潮・干潮の差が小さくなる「小潮」となります。》
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E6%B1%90
《朔(旧暦1日)や満月(15日)のころには、月・太陽・地球が一直線に並び、月による起潮力(太陰潮)と太陽による起潮力(太陽潮)とが重り合うため、高低差が大きい大潮(おおしお)となる。》
干満の差が最も大きいときですから、潮流が最も速いときで、満潮に向かう時に「白村江の戦い」は起きたのでしょう。
http://www.j-texts.com/jodai/shoki27.html
《天智天皇二年(六六三)八月戊申【二十七】》◆戊申。日本船師初至者。与大唐船師合戦。日本不利而退。大唐堅陣而守。
《天智天皇二年(六六三)八月己酉【二十八】》◆己酉、日本諸将与百済王、不観気象。而相謂之曰。我等争先、彼応自退。更率日本乱伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍。大唐便自左右夾船繞戦。須臾之際。官軍敗績。赴水溺死者衆。艫舳不得廻旋。
8月27日はやや不利があって、日本軍は退きます。
唐の堅陣は破れなかったものの、歯が立たないというものではなかった、という感触を日本軍は受けます。
8月28日は、それならばと日本軍は気合を入れなおしたかもしれません。
まるっきりの空想ですが、唐・新羅の連合軍は凪の状態か、まだ舵が効く状態の時に、おとりの船を出し、しばらく交戦し、そしてころあいを見て逃げだします。
初日の敗北から押し返したと思い、当然日本船は追いかけます。
《我等争先》
それは新羅・唐の作戦で、湾の中を深追いした時は、既に舵が効かないほどの潮流が速くなっています。
(初日はかなりの沖合いで戦い、干満の潮流は関係なかったかもしれません。)
左右に分かれて待ち受けていた唐・新羅の船は日本船に向かって矢をかけます。
しかし、風の具合では火矢は無理かもしれません。
普通の矢だったかもしれません。(書紀のその部分には「火」はでていません)
きっと風も計算していたことでしょう。
このとき、河口で待ち受けていた唐・新羅の船は潮流に流されない工夫をしていなければなりません。
船同士を鎖でつなぐ「連還の計」を用いたのではないでしょうか。
(「赤壁の戦い」では、曹操軍が負けた大きな原因となったものです)
なお、「日本書紀」では、「白村江の戦い」では唐の軍船だけのようですが、新羅の船もあったでしょうし、とくに作戦は金庾信(きむゆしん・595年 - 673年)がまだ生存している時ですから、現地の状況を知らないであろう唐が指揮を執るより、金庾信が作戦を立てたのではないかと思えます。
「日本書紀」は、新羅に負けたというのでは悔しいものですから、唐を全面にたてているのではないでしょうか。
例によって全部空想ですから、あしからず。
・・・・・・・・・・・・・
以前、書いていますが
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/85843b8594d7146229b91a4034c5a1a5
想像される白村江の天智天皇の幻の戦略
この前後の時期と考え方が特に違っているのは、天智天皇の存在です。
現在は天智天皇は存在しなかったと考えています。
また、百済王豊璋は東海岸から竹島を通って日本に亡命したと考えています。