前回みたウィキペディア(Wikipedia)では
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
《名称 [編集]藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。》
となっていました。
《持統五年(六九一)十月甲子【二十七】》◆甲子。遣使者、鎮祭新益京。
《持統六年(六九二)正月戊寅【十二】》◆戊寅。天皇観新益京路。
藤原となればどうしても藤原氏を思い起こします。
書紀によれば
《朝日新聞社本 HTMLファイル(巻二十七) shoki27.html》
《天智天皇八年(六六九)十月庚申【十五】》◆庚申。天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後。通曰藤原内大臣。
669年に天智天皇は東宮大皇弟(大海人皇子・天武天皇)を家に遣り、藤原氏と姓を与えた、となっています。
一々突っ込んでいるとなんですが、ともあれ
藤原宮の「藤原」は「藤原氏」からきたものになりそうです。
しかし、なぜ新しい姓を賜らなければならなかったのでしょうか。
『授大織冠与大臣位』
大織冠を授けた、と書かれた後に藤原氏の姓を賜ったとあるのですから、新しい姓もきっと「ご褒美」なんだろうな、と一般的には推測されることでしょう。
しかし、「藤原」とはどんな意味なのでしょうか。
ところで、「中臣・ナカトミ」という名前もすごいもののはずです。
以前やりましたが、「ナカトミ」から「カ」を抜きますと「ナトミ」となります。
これは奴国王の難斗米(登美毘古・那賀須泥毘古・難升米)を表わしています。
「中臣鎌足」は奴国王の系列、いいかえれば卑弥呼の弟の血筋であることを表わしているのです。
まぁ、実際は中臣鎌足・天智天皇は実在せず、百済王・豊璋がモデルになっています。
さらに、鎌足には不比等が投影されている場合もありました。
ところで、百済王・豊璋は「藤原」という姓を授けられて喜ぶでしょうか。
豊璋は百済王のプライドから、それを受け入れることはありえません。
しかし、藤原の姓は豊璋の子・不比等に与えられたものだと考えます。
不比等には新しい姓が必要だったと考えられます。
なぜか。
唐の追及を逃れるためです。
「日本書紀」には郭務悰の来日は二度記述されています。
一度目は鎌足が亡くなったときです。(二度目は天智天皇崩御のとき)
ここには月日はなく是歳だけですから、鎌足の生きていたときなのか亡くなった後の事なのか定かではないと思われるかもしれません。
《天智天皇八年(六六九)是歳》◆是歳。遣小錦中河内直鯨等、使於大唐。又以佐平余自信。佐平鬼室集斯等。男女七百余人、遷居近江国蒲生郡。又大唐遣郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等二千余人。
二度目は
天智天皇一〇年(六七一)十一月癸卯【十】》◆十一月甲午朔癸卯。対馬国司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人従唐来曰。唐国使人郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。総合二千人。乗船四十七隻、倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船数衆。忽然到彼、恐彼防人驚駭射戦。乃遣道文等、予稍披陳来朝之意。
二度目は天智天皇の崩御の前だったことがわかります
《天智天皇一〇年(六七一)十二月乙丑【三】》◆十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
前にも書いていますが、郭務悰は同じ規模で来日したにもかかわらず、二度目は大騒ぎされています。
普通なら二度目は、「またか」で落ち着いて対応しえます。
これは実は一度のことだったと考えます。
豊璋=中臣鎌足=天智天皇ですし、鎌足も天智天皇は実在しません。
そして両方とも不比等の父と位置づけられます。
さて、郭務悰の来日の目的は残っていた百済王家殲滅です。
百済王豊璋と名乗る人物が日本にいるということを唐が聞きつければ、せっかく朝鮮に築いた橋頭堡を奪われるかもしれませんから、芽を摘み取ろうとするでしょう。
だからこそ不比等は、百済王家と見破られないために、姓を変える必要があったのです。(姓がないとしたならば新たな姓の必要)
郭務悰は見破れなかったのか、見逃したのかわかりませんが、不比等は生き残りました。(ワイロだった可能性も)
不比等はまだ幼かったでしょうから、助けてくれと天武天皇に懇願したのは不比等の母でしょう。
そして、苦肉の策が「藤原」への姓の変更だったことになります
すると、前回見たように、瀧原宮-百済の線が藤原宮をはさみましたが、それは意味があることがわかります。
その宮の名前が「藤原宮」であるならば、その線に託された思いは「百済奪還」でしょう。
すると「藤原」という名前には隠されていることがあるはずです。
多くの百済人が日本に亡命していたでしょうし、唐の追及を逃れるためとはいえ単に「藤原」という名を与えたというだけなら、百済人のプライドは傷つくでしょう。
で、「藤原」には「百済奪還」が隠されていると考えました。
「藤原」を「フジワラ」ではなく「フジハラ」と表記します。
「フジ」は「不死」でいいでしょう。
で、「ハラ」ですが「HARA」とすると、気が付かれる人もいるかもしれません。
以前やりましたが、「漢」「韓」を、我々は「カン」と読みますが、中国や韓国では「ハン」と読むようです。
流行の「韓流」は「ハンリュウ」のようです。
「K」が抜けて発音されています。
「漢」「韓」は「KHAN」の「K」が抜けてしまったものと考えられます。
すると「ハラ」は「HARA」に「K」を足した「KHARA」と表記されるべきかもしれません。
すると「ハラ」は「KHARA」になり、「カラ」と発音されることになります。
「藤原」は「不死・韓(とか加羅)」になります。
ということで「藤原」は「百済は滅びない・復活する」という意味になるのではないでしょうか。
しかし、まだ重大な問題が残ります。なぜ、天武・高市天皇系が藤原宮という名称を用いなければならなかったのか、ということです。
おそらく、百済系の協力がなければ、高市皇子(天皇)は王権を維持できなかったのではないかと思われます。
百済奪還の協力をするということで、百済系をつなぎとめたのでしょう。
大津皇子殺害が尾を引いていたということなんでしょうけれど。
《天武天皇元年(六七二)三月壬子【二十一】》◆壬子。郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等再拝、進書函与信物。
《天武天皇元年(六七二)五月壬寅【十二】》◆夏五月辛卯朔壬寅。以甲・冑。弓矢賜郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等。是日。賜郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等物。総合〓[糸+施の旁]一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
《天武天皇元年(六七二)五月庚申【三十】》◆庚申。郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等罷帰。
郭務悰はずいぶんともらい物をして672年5月に帰ったようです。
これらは唐への貢物でもあるでしょうが、郭務悰に対する口止め料もあったのではないでしょうか。
以上、空想ですから、眉に唾してお読み下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
《名称 [編集]藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、『日本書紀』には登場しない。『日本書紀』ではこの都城のことは、京が「新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)」(持統天皇六年正月十二日条)、宮が「藤原宮」と呼びわけられている。》
となっていました。
《持統五年(六九一)十月甲子【二十七】》◆甲子。遣使者、鎮祭新益京。
《持統六年(六九二)正月戊寅【十二】》◆戊寅。天皇観新益京路。
藤原となればどうしても藤原氏を思い起こします。
書紀によれば
《朝日新聞社本 HTMLファイル(巻二十七) shoki27.html》
《天智天皇八年(六六九)十月庚申【十五】》◆庚申。天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠与大臣位。仍賜姓為藤原氏。自此以後。通曰藤原内大臣。
669年に天智天皇は東宮大皇弟(大海人皇子・天武天皇)を家に遣り、藤原氏と姓を与えた、となっています。
一々突っ込んでいるとなんですが、ともあれ
藤原宮の「藤原」は「藤原氏」からきたものになりそうです。
しかし、なぜ新しい姓を賜らなければならなかったのでしょうか。
『授大織冠与大臣位』
大織冠を授けた、と書かれた後に藤原氏の姓を賜ったとあるのですから、新しい姓もきっと「ご褒美」なんだろうな、と一般的には推測されることでしょう。
しかし、「藤原」とはどんな意味なのでしょうか。
ところで、「中臣・ナカトミ」という名前もすごいもののはずです。
以前やりましたが、「ナカトミ」から「カ」を抜きますと「ナトミ」となります。
これは奴国王の難斗米(登美毘古・那賀須泥毘古・難升米)を表わしています。
「中臣鎌足」は奴国王の系列、いいかえれば卑弥呼の弟の血筋であることを表わしているのです。
まぁ、実際は中臣鎌足・天智天皇は実在せず、百済王・豊璋がモデルになっています。
さらに、鎌足には不比等が投影されている場合もありました。
ところで、百済王・豊璋は「藤原」という姓を授けられて喜ぶでしょうか。
豊璋は百済王のプライドから、それを受け入れることはありえません。
しかし、藤原の姓は豊璋の子・不比等に与えられたものだと考えます。
不比等には新しい姓が必要だったと考えられます。
なぜか。
唐の追及を逃れるためです。
「日本書紀」には郭務悰の来日は二度記述されています。
一度目は鎌足が亡くなったときです。(二度目は天智天皇崩御のとき)
ここには月日はなく是歳だけですから、鎌足の生きていたときなのか亡くなった後の事なのか定かではないと思われるかもしれません。
《天智天皇八年(六六九)是歳》◆是歳。遣小錦中河内直鯨等、使於大唐。又以佐平余自信。佐平鬼室集斯等。男女七百余人、遷居近江国蒲生郡。又大唐遣郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等二千余人。
二度目は
天智天皇一〇年(六七一)十一月癸卯【十】》◆十一月甲午朔癸卯。対馬国司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人従唐来曰。唐国使人郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。総合二千人。乗船四十七隻、倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船数衆。忽然到彼、恐彼防人驚駭射戦。乃遣道文等、予稍披陳来朝之意。
二度目は天智天皇の崩御の前だったことがわかります
《天智天皇一〇年(六七一)十二月乙丑【三】》◆十二月癸亥朔乙丑。天皇崩于近江宮。
前にも書いていますが、郭務悰は同じ規模で来日したにもかかわらず、二度目は大騒ぎされています。
普通なら二度目は、「またか」で落ち着いて対応しえます。
これは実は一度のことだったと考えます。
豊璋=中臣鎌足=天智天皇ですし、鎌足も天智天皇は実在しません。
そして両方とも不比等の父と位置づけられます。
さて、郭務悰の来日の目的は残っていた百済王家殲滅です。
百済王豊璋と名乗る人物が日本にいるということを唐が聞きつければ、せっかく朝鮮に築いた橋頭堡を奪われるかもしれませんから、芽を摘み取ろうとするでしょう。
だからこそ不比等は、百済王家と見破られないために、姓を変える必要があったのです。(姓がないとしたならば新たな姓の必要)
郭務悰は見破れなかったのか、見逃したのかわかりませんが、不比等は生き残りました。(ワイロだった可能性も)
不比等はまだ幼かったでしょうから、助けてくれと天武天皇に懇願したのは不比等の母でしょう。
そして、苦肉の策が「藤原」への姓の変更だったことになります
すると、前回見たように、瀧原宮-百済の線が藤原宮をはさみましたが、それは意味があることがわかります。
その宮の名前が「藤原宮」であるならば、その線に託された思いは「百済奪還」でしょう。
すると「藤原」という名前には隠されていることがあるはずです。
多くの百済人が日本に亡命していたでしょうし、唐の追及を逃れるためとはいえ単に「藤原」という名を与えたというだけなら、百済人のプライドは傷つくでしょう。
で、「藤原」には「百済奪還」が隠されていると考えました。
「藤原」を「フジワラ」ではなく「フジハラ」と表記します。
「フジ」は「不死」でいいでしょう。
で、「ハラ」ですが「HARA」とすると、気が付かれる人もいるかもしれません。
以前やりましたが、「漢」「韓」を、我々は「カン」と読みますが、中国や韓国では「ハン」と読むようです。
流行の「韓流」は「ハンリュウ」のようです。
「K」が抜けて発音されています。
「漢」「韓」は「KHAN」の「K」が抜けてしまったものと考えられます。
すると「ハラ」は「HARA」に「K」を足した「KHARA」と表記されるべきかもしれません。
すると「ハラ」は「KHARA」になり、「カラ」と発音されることになります。
「藤原」は「不死・韓(とか加羅)」になります。
ということで「藤原」は「百済は滅びない・復活する」という意味になるのではないでしょうか。
しかし、まだ重大な問題が残ります。なぜ、天武・高市天皇系が藤原宮という名称を用いなければならなかったのか、ということです。
おそらく、百済系の協力がなければ、高市皇子(天皇)は王権を維持できなかったのではないかと思われます。
百済奪還の協力をするということで、百済系をつなぎとめたのでしょう。
大津皇子殺害が尾を引いていたということなんでしょうけれど。
《天武天皇元年(六七二)三月壬子【二十一】》◆壬子。郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等再拝、進書函与信物。
《天武天皇元年(六七二)五月壬寅【十二】》◆夏五月辛卯朔壬寅。以甲・冑。弓矢賜郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等。是日。賜郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等物。総合〓[糸+施の旁]一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
《天武天皇元年(六七二)五月庚申【三十】》◆庚申。郭務〓[立心偏(りっしんべん)+宗]等罷帰。
郭務悰はずいぶんともらい物をして672年5月に帰ったようです。
これらは唐への貢物でもあるでしょうが、郭務悰に対する口止め料もあったのではないでしょうか。
以上、空想ですから、眉に唾してお読み下さい。