古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

箸墓-仁徳天皇陵-(鶯塚古墳と恭仁宮跡)

2011年03月09日 22時36分30秒 | Weblog
紀年問題に取り組むとまるで雲の中に入ったように視界が利かず、計器が乱れる気がします。
588年が一つの軸だとは思いますし、それ以前のことは消えているのでしょう。
というのも、645年乙巳の変の記述の中に、蘇我蝦夷が国記を燃やそうとしたとあるからです。
この645年のことは57(19×3)年前の588年のことで、実際に前王朝の歴史書が燃やされた可能性もあると考えるからです。
もう一つの可能性は、後の天武天皇系、または天智天皇系が一切消し去ったこともありえます。
繰り返し記述するということが、いたし方のない苦肉の策だったのか、復活のために初めから望んでそうしたのか、どちらもありえる気がします。

で、また一旦バックします。
今回は
仁徳天皇陵-箸墓の直線と恭仁宮跡が直角になりそうにみえましたので、検討します。
しかし、陵と宮と単純に結びつけるのも変かもしれません。
で、もしかすると東大寺大仏殿が箸墓-恭仁宮跡の線上にくるかもしれないと考えました。
ですが、離れています。
















東大寺大仏殿は箸墓や卑弥呼の纒向の宮?跡の真北でしたから、離れていて当たり前でした。
そこで、箸墓-恭仁宮跡の直線に近寄ってみると、若草山をとおるようです。
そこに鶯塚古墳があります。
以前見たように、その鶯塚古墳はもともと磐之媛命陵とされていたものです。

http://inoues.net/ruins/uguisuduka.html
鶯 塚 古 墳】(うぐいすづかこふん)
《若草山三重目頂上にあり、南側を向いた前方後円墳。清少納言が「枕草子」第17段で、「みささぎは うぐひすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ。 」と書いている「うぐいすのみささぎ」がここだとされている。
16代仁徳天皇の皇后、磐之姫命の墓は、宮内庁によって現在、佐紀路にある古墳が比定されているが、今の位置に比定されたのは明治になってからで、その佐紀路のヒシャゲ古墳は、それまで「平城(なら)天皇陵」とされていたようである。そして磐之媛墓=平城坂上墓(ならのさかのうえのはか)は、「大和若艸山之頂字鶯陵」と記録される、若草山の山頂にある前方後円墳のことだというのである。鶯陵(うぐひすのみささぎ)は、標高300m以上の山頂にあり、全国的に見てもこんな山頂にある古墳はなかなか無い。》

ですから驚いたことに、仁徳天皇陵-箸墓の直線と現在の磐之媛命陵がつくる三角形は二等辺三角形で、磐之媛命陵とされていた鶯塚古墳とは直角三角形になるのです。
となってきますと、仁徳天皇陵(大仙陵古墳・だいせんりょうこふん)はスサノヲと関係がなくては変です。
磐之媛(いわのひめ)は卑弥呼臺与(トヨ)に嫉妬したスサノヲの正妻と考えているからです。
しかし、仁徳天皇陵はウィキペディア(Wikipedia)によると5世紀前半から半ばのものとされているようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
《築造時期・被葬者 [編集]採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から半ばに築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。》

しかし、スサノヲの墓ならば3世紀後半でなければおかしいのです。
そこで考えました。
そんなのズルイ、インチキだ、と思われましょうが、
論理的な整合性を持たせるには、
5世紀前半にはスサノヲと磐之媛命の子孫の列島支配も安定し、祖先スサノヲの偉業を讃えるために、新たに巨大な前方後円墳を造るという事業を、100年~120年後に始めた、と考える以外ないのです。
(ただし、磐之媛命陵は違うと思います。箸墓-仁徳天皇陵と直角三角形、二等辺三角形になるところが選ばれたと考えます。磐之媛命は仁徳天皇とは別のところで亡くなっているかのようにされていますが、実は一緒のところにいてもおかしくありません。卑弥呼の子孫は嫌でしょうけれども。)

仮説というのも恥ずかしい空想ですから、流し読みしてください。
自分ではつじつまが合っているようにみえるのが怖いです。

陵は大きいので、秒の部分は採る地点で結構違ってきます。
面倒なので簡便な方だけでやりました。

仁徳天皇陵
 北緯34度33分49秒、東経135度29分14秒
鶯塚古墳
 北緯34度41分28秒、東経135度51分16秒
恭仁宮跡
 北緯34度45分56秒、東経135度51分46秒
箸墓
 北緯34度32分21秒、東経135度50分28秒

箸墓→仁徳天皇陵
 ①274.894度 ②94.6935度 ③32.50552km
箸墓→恭仁宮跡
 ①4.49543度 ②184.507度 ③25.23711km
箸墓→鶯塚古墳
 ①4.12690度 ②184.134度 ③16.93001km

仁徳天皇陵→恭仁宮跡
 ①56.7179度 ②236.931度 ③41.01332km
仁徳天皇陵→鶯塚古墳
 ①67.0188度 ②247.227度 ③36.44845km


△恭仁宮跡-仁徳天皇陵-箸墓・・・辺の比が5:4:3に近い。
箸墓での角度
 360-274.894+4.49543=89.60143度
仁徳天皇陵での角度
 94.6935-56.7179=37.9756度
恭仁宮跡での角度
 236.931-184.507=52.424度

△鶯塚古墳-仁徳天皇陵-箸墓・・・
箸墓での角度
 360-274.894+4.12690=89.2329度
仁徳天皇陵での角度
 94.6935-67.0188=27.6747度
鶯塚古墳での角度
 247.227-184.134=63.093度

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 紀年からうかがえる用明天皇... | トップ | 高松塚古墳-用明陵-元明陵... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事