古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

都農神社の「都農」は「角」ではないでしょうか。

2016年03月06日 13時05分35秒 | Weblog
日向の国一宮の「都農神社」の「都農」は「角」ではないか、と思いつきました。
「都農」ではピンときませんでしたが、「角」ならば関係が見つけられるかもしれません。

まず神武東征を表す三角形
⊿出雲大社-立磐神社-熊野速玉大社・・・二等辺三角形
⊿出雲大社-立磐神社-難波宮跡・・・・・直角三角形
そして出雲大社-難波宮跡
   出雲大社-博多湾(白肩津・ハㇰカタ・博多)はほぼ同一距離


神武東征の出発地点・立磐神社と最初の上陸地(ナガスネビコと戦う)は出雲大社と結ぶと直角三角形になり、二度目の上陸地の熊野速玉大社とは二等辺三角形になっていました。
また、出雲大社-平城宮跡-伊勢神宮・内宮は一直線上になり、これが天孫降臨を表しているとすると、これは平城京遷都710年以降に考案されたことになるはずです。
ところで、出雲大社-瀧原宮の線上に三輪山・箸墓が存在していました。
これが、最初の天孫降臨の創案を表していると考えられます。
三輪山に降臨したと考えるのが自然ではないでしょうか。

⊿立磐神社-出雲大社-三輪山・瀧原宮も直角二等辺三角形といっていいものでしたが、
⊿都農神社-出雲大社-三輪山・瀧原宮の方がもっと直角二等辺三角形に近いものでした。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/04d3fd1f2e2c631f9eff4543fcea78c7
A出雲大社-平城宮-伊勢神宮・内宮、B出雲大社-三輪山-瀧原宮
2015年07月05日
⊿都農神社-出雲大社-瀧原宮
出雲大社での角度
 196°59′38.60″-107°30′08.29″=89°29′30.31”≒89.4918度
都農神社での角度
 61°26′50.49″-16°21′59.13″=45°04′51.36”≒45.0809度
瀧原宮での角度
 289°38′31.25″-244°07′19.59″=45°31′11.66”≒45.5199度

ところで、大国主命の国譲りは出雲でしたが、天孫は日向に降り立ちます。
何度もいっていますように、これは「魏志倭人伝」の直角の間違いを利用したもので、日向-出雲-飛鳥は直角になるように設定されなければなりません。

出雲大社-平城宮跡-伊勢神宮・内宮の直線に対し、鵜戸神宮がギリギリ直角になっていました。これはそれでもいいと思えますが、
出雲大社-三輪山-瀧原宮の直線に対し直角となるのは
《都農神社、都萬神社、立磐神社、西都原古墳群(鬼の窟古墳)》辺りですが、
都農神社が直角二等辺三角形にふさわしいと思えます。













そして、都農神社に注目したのですが、日向の国一宮でありながら、なんとなくピンときませんでした。
しかし、この「都農」は「角」だったのではないでしょうか。
すると、
下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭神は玉依姫命 (たまよりひめのみこと)と「賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)」でした。
八咫烏は賀茂建角身命 の化身で、神武東征の再上陸からの困難な道の案内でした。
また、「角」で思い出すのが「都怒我阿羅斯等」で「角鹿(つぬが)」の語源で「敦賀」に変化しました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%80%92%E6%88%91%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%AD%89
氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする[9]。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている[9]。

「都農」がこれらの「角」と同じ意味合いとすると、「天孫降臨」の最初の設定は、賀茂氏の協力があったことは否定できないでしょう。
賀茂氏も渡来系になるのでしょうか。

まだ理解できていませんので「鵜呑み」にしないでください。


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