古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

公山城-高千穂峰と直角となるのは藤原京全体

2009年06月20日 14時31分19秒 | Weblog






前回、白頭山-公山城(コンサンソン)と直角になるのは皇大神社(元伊勢・内宮)-熱田神宮-焼津神社・・(また安土も)となることをみました。
以前から気がつくべきでしたが、百済と高句麗が日本では結びついている時代があったのです。
(また、焼津-熱田-伊勢神宮・内宮(及び元伊勢・内宮)は草薙の剣がついて回っていることに加え、火もついて回っているはずです。
焼津の地名は火で焼かれたことからきているとされていますし、熱田の「熱」も火がらみのはずです。卑弥呼トヨは火事による一酸化炭素中毒で亡くなっているはずですから、この三つは火関連でも結びついています)

ヤマトタケルの新治、碓氷、酒折、彌彦神社、気比神宮が白頭山と結びつくことをやろうとしていたのですが、予定が狂いました。

私自身混乱したのは高句麗と百済の融和と分離が解釈しにくいからです。
高千穂峰を今までは百済と日本を結びつける象徴と考えてきました。
ただし、高千穂峰のもともとの名前は「高市(穂)峰」ではないかと考えていました。
「たけち(ほ)のみね」「たかち(ほ)のみね」のどちらで読むのがいいのかわかりませんが、高市皇子(天皇)に由来するものと思われます。
本来は高市山が「高千穂峰」になるはずです。
そして、高市山も太白山こと諸塚山も消されたと考えました。
高千穂峰の位置は、白頭山と高市山と同一距離で、出雲大社-諸塚山の延長線上にあるからです。
(念のためいいますと、白頭山・諸塚山・高市山は直角三角形になっています。)
というわけで、今まで、この現在の高千穂峰は「高市天皇」を消すものだと考えてきました。ただ、名前の名残を消すことができなかった、としました。

ところが、百済の王宮のあった公山城(コンサンソン)と高千穂峰の直線と直角になる地は、藤原京とその南の高松塚古墳などの墓域も含むものになるのです。
高千穂峰→公山城(コンサンソン)
 ①326.605度 ②144.472度 ③616.4621km
 Ⅰ326°28′56.71″ Ⅱ144°20′58.55″ Ⅲ616,221.015(m)

360-326.605=33.395度、90-33.395=56.605度
360°-326°28′56.71″=33°31′3.29″ですから
90°-33°31′3.29″=56°28′56.71″
ですから、高千穂峰からの角度が56.605度、56°28′56.71″になる地点を見つければいいのです。
とはいえ、ぴったり90度というわけにはいかないでしょう。
そこで、89度~91度なら許容範囲でしょうか。
とすると、高千穂峰から55.605度~57.605度、55°28′56.71″~57°28′56.71″の範囲

高千穂峰→箸墓
 ①55.8782度 ②238.576度 ③544.2991km・・・・89.267度
 Ⅰ56°00′03.18″Ⅱ238°41′56.08″Ⅲ545,010.638(m)・89°31′6.47″
高千穂峰→耳成山
 ①55.9427度 ②238.620度 ③540.0834km・・・・89.3377度
高千穂峰→藤原宮跡
 ①56.0801度 ②238.758度 ③539.4758km・・・・89.4751度
Ⅰ56°12′08.58″Ⅱ238°52′49.15″Ⅲ540,187.925(m)・89°43′11.87″
高千穂峰→天武・持統陵
 ①56.4222度 ②239.099度 ③537.6293km・・・・89.8172度
 Ⅰ56°32′38.07″ Ⅱ239°13′15.94″Ⅲ538,351.912(m)・90°3′3.29″
高千穂峰→高松塚古墳
 ①56.4789度 ②239.155度 ③537.1339km・・・・89.8739度
 Ⅰ56°36′01.77 Ⅱ239°16′35.51″Ⅲ537,857.934(m)・90°7′5.06″
高千穂峰→岡寺跡
 ①56.4857度 ②239.173度 ③539.3486km・・・・89.8807度
高千穂峰→キトラ古墳
 ①56.5895度 ②239.264度 ③536.3986km・・・・89.9845度
高千穂峰→談山神社
 ①56.7195度 ②239.422度 ③541.7311km・・・・90.1145度

地球を完全球体としても、楕円球体としても、合わせ技にすると天武・持統陵が公山城(コンサンソン)と高千穂峰の線と直角に近いようです。
しかし、やっぱり藤原京全体が直角に入るのでしょう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC
藤原京・・・・・ウィキペディア(Wikipedia)
《690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。完成は遷都後10年経過の704年(景雲元)と言われ、着工時期は676年(天武5)に始められていた。
『日本書紀』には、持統天皇四年十月条に「壬申に、高市皇子(たけちのみこ)、藤原(ふぢはら)の宮地(みやどころ)を観(みそなほ)す。公卿百寮(まへつきみつかさつかさおほみ)従(とも)なり」とあり、同十二月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同八年十二月の条に「藤原宮(ふじわらのみや)に遷(うつ)り居(おは)します」とある。》


高市皇子(天皇)の崩年は696年とされていますから、高市皇子(天皇)は納得して、藤原京に遷ったことになります。

高市皇子(天皇)は藤原不比等の意見を多く取り入れた、と考えるしかありません。
仲が良かったんでしょう。
ひさしを貸して母屋をのっとられた、ということになるんでしょうか。
(逆でしたので、恥ずかしながら訂正しました。6/21)

以下参照してください
再度、高句麗系が残したと思われる位置関係について
2009・4/29
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/50b2686a1f0aee42a47a80a0a1cb0bbf

訂正と追加・(阿武山古墳・恭仁宮跡・紫香楽宮跡)と朝鮮の位置関係。
2009・2/17
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/b548b9d5d5b1c037f60a28768582840f
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 白頭山と公山城と元伊勢・熱... | トップ | 武寧王は本当に加唐島生まれ... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事