扶余(プヨ)Ⅱ・高千穂峰・(阿武山古墳・恭仁宮跡・紫香楽宮跡)の位置関係の一部訂正です。
A・高千穂峰→扶余(プヨ)Ⅱ
①324.068度 ②141.824度 ③611.259km
B・高千穂峰→恭仁宮跡(山城国分寺跡)
①53.7751度 ②236.492度 ③559.4304km
C・高千穂峰→紫香楽宮跡
①53.4707度 ②236.315度 ③585.5989km
D・高千穂峰→阿武山古墳
①51.2641度 ②233.824度 ③543.7133km
E・扶余(プヨ)Ⅱ→恭仁宮跡(山城国分寺跡)
①99.1081度 ②284.312度 ③825.9144km
扶余(プヨ)Ⅱと高千穂峰の直線(測地線)と高千穂峰が直角となる地点は
恭仁宮跡・・(360-324.068)+53.7751=89.7071度
紫香楽宮跡・(360-324.068)+53.4707=89.4027度
阿武山古墳・(360-324.068)+51.2641=87.1961度
というわけで、阿武山古墳では直角には小さすぎました。
白頭山と扶余(プヨ)と恭仁宮跡の位置関係は前回やっています。
扶余(プヨ)での角度は、90.49678度になっています。
白頭山、扶余(プヨ)、紫香楽宮跡の場合は
扶余(プヨ)Ⅱ→紫香楽宮跡
①97.6417度 ②282.984度 ③841.451km
扶余(プヨ)Ⅱ→白頭山
①8.61132度 ②189.347度 ③643.7912km
97.6417-8.61132=89.03038度ということになります。
ですから、扶余(プヨ)からみれば、阿武山古墳は恭仁宮跡と紫香楽宮跡の間になりますから
扶余(プヨ)→阿武山古墳
①98.8240度 ②283.863度 ③797.3917km
白頭山-扶余(プヨ)-(阿武山古墳・恭仁宮跡・紫香楽宮跡)の三角形は
98.8240-8.61132=90.21268度で、阿武山古墳の場合が一番直角に近くなります
しかし、阿武山古墳が造られた当時は、朝鮮半島と結び付けようとしたときには、まだ現在の高千穂峰は想定されていなかった、と考えられます。
諸塚山が『天孫降臨』の地点とされていたはずです。
ただし、その場合、その朝鮮半島の地は扶余(プヨ)ではなく、平壌(ピョンヤン)となります。
諸塚山→平壌(ピョンヤン)
①326.546度 ②143.300度 ③867.9176km
諸塚山→阿武山古墳
①56.7773度 ②239.157度 ③466.7601km
平壌(ピョンヤン)→阿武山古墳
①114.964度 ②300.877度 ③986.4344km
諸塚山での角度
(360-326.546)+56.7773=90.2313度
阿武山古墳での角度
300.877-239.157=61.72度
平壌(ピョンヤン)での角度
143.300-114.964=28.336度
角度で見ると、90度・60度・30度の直角三角形に近そうに見えます。
諸塚山
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=323804&l=1311714
阿武山古墳が造られたときには、王権は高句麗系であり、百済系は遠慮をしたのではないでしょうか。
諸塚山は、以前みたように、太白山とされていたはずです。
しかし、聖武天皇の時代には完全に百済系に変わっていたために、諸塚山を外して、紫香楽宮と恭仁宮は百済との関連を創ることができたのではないか、と考えます。
《ただし、伊勢神宮・内宮-平城京・朱雀門-出雲大社の直線は、朝鮮半島では公州(コンジュ)に行きつきます。
公州(コンジュ)は百済の扶余(プヨ)以前の首都ですから、考え方が違っているかもしれません。
伊勢神宮・内宮の位置にしても、斎宮跡にしても、どうも変な気がします。
全体的に考えてみたいのですが、まだまだのようです。
(ただし、何度もいいますが、高句麗系、百済系といっても、もともとは卑弥呼・スサノヲの系列と考えています)》
阿武山古墳・紫香楽宮跡・熊野本宮大社の位置関係もみたかったのですが、本当の紫香楽宮跡の位置が、地図に出ている紫香楽宮跡よりも少し北になりそうです。
研究者の人たちはそう考えているようです。