古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

なぜ天武天皇は大海人皇子なのでしょうか

2011年08月26日 23時56分00秒 | Weblog
大海人皇子の「海人」は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
《名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている[2]。》

大海人皇子の「海人」は「幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。」とされています。

《朱鳥元年(六八六)九月甲子【二十七】》◆甲子。平旦。諸僧尼発哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%A3%AC%E7%94%9F
概要
「壬」の字は十干の一つ「みずのえ(水の兄)」であり、壬生は「水辺」の意味を持つ言葉という説が一般的である。また、古代の職業部に壬生部があり、これはもともと「御乳(みぶ)」で皇族皇子の養育を司っていたものとされる。壬生部の居住地に壬生という地名が付けられたともされ、諸説ある。

天武天皇の殯(もがり)に大海宿禰蒭蒲が壬生のことを誄(しのびごと)していることから、大海(凡海)氏が皇子を養育したとされているようです。そして、そのために大海人皇子の名前に「海人」が入っていると推測されているようです。

これが正しいのならば、それでいいのですが、なんとなくですが、納得しにくいのです。
「海人」という言葉が、貴人にふさわしいのかどうか。
(我々が知っているのは、他には聖徳太子の厩戸皇子ですが、これだって厩戸では、おかしなはずです。)
もしかすると、これは他の言葉の言い換え、または皮肉も込められているのかと想像してしまいました。
「アマ」は「甘い」の「甘」、または「天」ではないかと考えました。
「大・天・皇子」で「オオアメノミコト」→「オオアマノミコト」
「大・天・皇子」では舌足らずですから、「大・天若・皇子」とでもしますか。
とすると天若日子を思い出してしまいます。

これでは収集がつきませんので、今回は「海人」で考えます。
最初、大海人皇子の「海人」は、甘いの「甘」ではないかと考えました。
「甘」は「あま(し)」とも「うま(し)」とも読むようです。
古語辞典をみますと、
甘し・・①甘い ②おいしい ③言葉が巧みである ④しっかりしていない。あさはかだ(p31・・例解古語辞典・三省堂)

うまし ㈠旨し・甘し・・味が良い、うまい。㈡美し・・じゅうぶんに満ち足りて美しい(p104)

大海人皇子の「海人」はこの「甘し」の④《しっかりしていない。あさはかだ》
ではないかと考えました。
(この古語辞典によると「海人の子」は漁師の子。また身分が低く素性のいやしい者のたとえ、とありました。
用例では・・・漁(あさり)する海人どもと人は言えど見るに知らえぬ(=見ただけでわかった)貴人(うまひと)の子と・・万葉五・853・旅人

やっぱり、天武天皇・大海人皇子に「海人」が入るのはおかしいはずです。

しかし、一般的に天武天皇のイメージは《勇敢・たくましい》といったようなものでしょう。
書紀では、天武天皇を天智天皇の病床からすんなり帰したことを、『虎著翼放之』
(虎に翼を着けて放したようなものだ)と天智天皇の臣下は地団駄を踏んでいます。

また、古事記の序文の勇ましさは血沸き肉踊るといった感じです。
《人事共給(じんじそなわりて)、虎歩(こほ)於東國(東国に)。皇輿忽駕、浚渡山川、六師雷震(りくしいかづちのごとくふるひ)、三軍電逝(いなづまのごとく)。杖矛擧威(いきおいをあげて)、猛士烟起、絳旗(こうき)耀兵(つわものをかがやかして)、凶徒瓦解(凶徒瓦のごとく解けき。》(訳は古事記上・講談社)

ですが、天智天皇は実在しませんから「大化の改新」も「壬申の乱」もなかったはずです。
(天智天皇=中臣鎌足)の部分があります。郭務悰の来日は二度記述されていますが、中臣鎌足が亡くなった時と天智天皇崩御のときです。郭務悰の来日が一度だけだったとしたら、両者が同一人物だったことになります。そして、百済王・豊璋がその第一のモデルです。(不比等の場合もありました)

さて、しかし、天武天皇をどんなに勇ましい人物に仕立て上げても、隠し切れない汚点が残ります。
白村江の戦いです。

天智天皇、中臣鎌足が存在しなかったならば、白村江の戦いの指揮者は天武天皇になるはずです。そして、百済王豊璋との共同でもあったでしょう。
しかし、白村江の戦いは日本・百済にとって無残なものです。
船の舳先を変えることのできない潮流にのってしまい、唐・新羅の連合軍が待ち受ける船団の間に吸い込まれ、戦う前に壊滅してしまったのですから。

戦争なんてまるで知りませんから、全くの空想なのですが、書紀の描きっぷりからして、おそらく豊璋は先に上陸していて、天武天皇軍の上陸を待ち、唐・新羅の連合軍を挟み撃ちにする作戦だったと推測しています。
その作戦がうまくいったかどうかはわかりませんが、それ以前の段階で作戦は失敗したのです。

そのように推測した場合、百済側からすると、大海人皇子の「海人」は「甘い」〈浅はか〉と「卑しい」〈さげすみ〉と「海の人」という皮肉の混じった表現になりえます。
もともとは「海人」ではなく「天」の意味だったと思いますが・・。
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