古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

十市皇女の崩年と被葬地・赤穂

2012年04月06日 11時40分24秒 | Weblog
話がすぐ飛んで取り留めもなくやっているようにみえるでしょうが、根っこの方ではつながっています。・・と、いうことにしてください。

多神社の所在地は、十市郡といったようです。
http://www.genbu.net/data/yamato/oo_title.htm
式内社 大和國十市郡 多坐弥志理都比古神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗
式内社 大和國十市郡 皇子神命神社
式内社 大和國十市郡 姫皇子神社

で、確か、十市皇女(とおちのひめみこ)という方がいたはずでした。
大津皇子の妃だったかな、と思いましたら、大友皇子の正妃でした。
十市郡にあるのは多神社だけではありませんし、十市郡は(といちのこおり・といちぐん)と読むようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B8%82%E9%83%A1
十市郡(といちのこおり・といちぐん)は大和国の郡。現在の橿原市、桜井市、田原本町境界付近。
『延喜式神名帳』には、大和国十市郡に以下の大社11座・小社8座の計19座が記載されている。

ですから、十市郡・多神社で十市皇女を思い起こすのは、理にかなわないことかもしれませんが、思い起こしてしまったものは仕方ありません。
で、検索したわけです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%B8%82%E7%9A%87%E5%A5%B3
十市皇女(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) - 天武天皇7年4月7日(678年5月3日))は天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。
十市皇女の被葬地 [編集]
日本書紀によれば、十市皇女のなきがらは天武天皇7年(678年)4月14日に赤穂に葬られたとあるが、赤穂という地名が奈良県内のどこにあたるかという解釈には諸説あり、いまだ定説は明らかになっていない。

で、ここで注目したのが、十市(とおち)と崩年678年と被葬地・赤穂です。
まず、十市(とおち)は大市(おおち)に通じると考えます。
大市(おおち)は、間違いないとは思いますが、おろち(大蛇)で、蛇神である卑弥呼を指しています。
ですから十市(とおち)も卑弥呼に関係するはずです。
そして、崩年678年は聖徳太子の母は《欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女》の崩年621年の57(19×3)年後に設定されています。
621+57=678
しかし、穴穂部間人皇女の崩年は阿閇皇女(あへのひめみこ・元明)の崩年721年の100年前に設定されていました。
721-100=621
そして、十市皇女の被葬地とされる赤穂です。
穴穂部(あなほべ)は(あ・なほ・べ)に分解され、阿閇(あへ・阿倍)と元明天皇陵のある〈奈保〉になり、阿閇皇女(元明)と関連付けられたことは、何度もやっています。
で、十市皇女の被葬地とされる赤穂ですが、検索してみると、どうもどなたも、大和に赤穂という地があるとされているようです。
我々一般人は兵庫県の赤穂をすぐ思い浮かべますが、そんな馬鹿な、そんな遠くのはずがない、ということなのでしょう。
しかし、原文には赤穂とあるだけで、大和の赤穂なんて書いてありゃしません。

《天武天皇七年(六七八)四月庚子【十四】》◆庚子。葬十市皇女於赤穂。天皇臨之降恩以発哀。

赤穂(あこう)ですが、赤穂(あかほ)とも読めます。
すると赤穂(AK・AHO)で奈保(N・AHO)に通じてしまいます。
そして、赤穂市は元明天皇陵の真西といっていい地になります。(だいぶ、大雑把です。元正天皇陵でもいいわけです。)






また、十市皇女が亡くなった時に高市皇子が歌を詠んでいることになっています。

・・・・・・・・・・・
昨日4/5.まだ満開ではありません。


種類の違う桜。花が咲くのと葉が一緒に出ていました
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