さくらの花びらさんのブログで、「学校で教えない歴史」というシリーズ物の記事を書かれていますが、昨日も2話目を紹介しましたが、ぜひさくらの花びらさんのブログまで行って、全シリーズを読んでいただきたいと思います。
戦後、GHQによる戦勝国の歴史観が押し付けられて以来、私たちの歴史はほとんどが、日本を自虐的に見る歴史観になってしまい、さらには上面の事件の羅列に過ぎないものになってしまいました。歴史の事件には、そこに至る因果関係がありますが、そうしたものを語らず、事件の事象のみを語れば、それはまったく印象の違うものになりかねません。
さくらの花びらさんもおっしゃっていました。忠臣蔵で、浅野内匠頭が吉良上野介にいろいろと意地悪され、ついに松の廊下の事件が起こり切腹させられ、お家は断絶し、そして四十七士の仇討となりますが、これは昔から日本人の一番人気の芝居でした。
これが、吉良上野介の屋敷に討入りする場面だけしかないならば、芝居にもならず、かわいそうな年寄りを殺害する事件でしかありません。
日本の歴史は、ほとんどこのような書き方に変わってしまいました。特に戦争に至る過程はことさらに、日本軍の行動の理由や動機は消されて、戦勝国の都合のいい歴史に変えられてしまいました。
この「学校で教えない歴史」シリーズは今も更新中で、最新の5話を紹介したいと思います。
日本の教科書、マスコミ、政治家はじめ多くの国民は「日本は侵略国家」だと思っている。
特に教科書には「侵略」という言葉がよく使われいます。
1ページに「侵略」の言葉が6か所も使われている中学校歴史教科書もありました(中教出版)。
その教科書の「挿絵」もチャイナのものを使用していました。
どこの国の教科書か、と思ってしまうほどです。
「他国に軍隊を進駐すれば侵略だ」と思っている日本人がいる。
しかし、「侵略戦争」という言葉の国際的定義の承認は、
1974年の国連決議「侵略の定義に関する決議」第一条までなかったのです。
侵略したというなら、戦後、アジア諸国から日本が感謝されているのはどういうわけだ。・・・
・・・・・
戦争中、上野動物園では米軍の爆撃で檻が壊され、
猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう薬殺などの処分が行われました。
象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。
では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのかご存知ですか?
実はインドのネルー首相が、上野動物園がある台東区の子供たちの熱望に応え、
昭和24年に自分の娘の名前を付けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
それは、独立間もないインドが、イギリスの植民地から解放するために、
命をかけて貢献してくれた日本に対しての深い好意を持ち、
「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思ったからでした。
この時、ネルー首相から子供たちに次のような文書を贈りました。
・・・・・・
日本の子供たちへおくる言葉
皆さん
私は皆さんのお望みによって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。
この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、
そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしるしをすっかりそなえているとの事です。
皆さん、この象は、私からのではなく、
インドの子供達から日本の子供達への贈物であるとご承知下さい。
世界中の子供達は多くの点で似かよっています。
ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。
私達はこの様な大人達の喧嘩を止めさせなければなりません。
そして私の願いはインドの子供達や日本の子供達が成長した時には、
おのおの自分達の立派な祖国のためばかりにではなく、
アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。
ですから、このインディラという名を持った象を、
インドの子供達からの愛情と好意の使者として考えて下さい。
インディラは東京でたったひとりぽっちで、
あるいは少しさびしがって遊び友達を欲しがるかも知れません。
もし皆さんのお望みならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で、
幸福になるように、お友達の象を一頭送るようにすることも出来ます。
象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、
しかもインドの特に代表的なものです。
象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。
私達も皆、象の持つこれらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。
おわりに皆さんに私の愛情と好意とを贈ります
ジャワハルラル ネルー 1949年9月1日 ニューデリー
・・・・・・
このインドの好意はその後も続いていて、四頭目の象には「スーリア」が贈られました。
「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、
これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されたのです。
インドの独立記念日は8月15日で、イギリスからの独立を祈念する日です。
このような国の特別の祝日には、どこの国の在外公館でもお祝いのパーティーを開きますが、
在日インド大使館だけは、この日が日本人にとって大東亜戦争の戦没者を追悼する特別の思いが
こもった日であることに配慮してパーティーをやりません。
代わりに日本の国花である桜が満開の春の時期を選んでパーティーを開くことにしています。
昭和40年から41年、
インドでは大飢饉に襲われ多くの国民が食糧難で困っていました。
これを受けて、昭和41年3月に台東区町会連合会定例会において
「インド飢餓救援の募金」を決めました。
これは、かつて台東区の子どもたちが中心となって象の招致運動をした際に、
ネルー首相から象のインディラが贈られ、その恩をお返ししようと募金を計画したものです。
早速、その翌月の4、5月の2か月を募金の期間としました。
動物園のある上野地区は4月10日に80万円を集めて台東区へ届けてきました。
集まった救援募金は当時の額で総額343万1403円にもなり、
インド大使館アイ・エス・メーター書記官に手渡されました。
当時、昭和41年6月5日の台東区民新聞には
「江戸っ子の人情でかたい友好の絆が結ばれた」と書かれていました。・・・
ネルー首相と娘さん、そして象のインディラ
さくらの花びらさんも仰っているように、東アジアと違って、東南アジアや南アジア諸国は親日感情を持っている国が多いです。それはやはり戦後に独立できたのは、日本が大東亜戦争を戦ったからだと思っているからです。そんなアジア諸国の現在の日本への感情を書いておられるJJ太郎さんのブログ「かつて日本は美しかった」の記事を合わせて紹介したいと思います。
歴史で謝罪することはアジアへの侮辱だった
アジア解放に命を捧げた先人の思いを無にしてはなりません。
「村山談話」というのをご存知でしょうか。平成7年(1995年)8月15日に村山首相(当時)が発表した談話です。以下、その一部です。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
こう言って謝罪しているのです。「遠くない過去」というのは大東亜戦争のことを指しています。大東亜戦争は自存自衛、アジア解放の戦争でした。特ア3国以外は日本の功績を高く評価しています。それなのに謝罪するとは「アジア解放」が間違いだった、と言っているのです。
実は村山談話より前、平成3年に海部俊樹首相(当時)がASEAN諸国を訪問し、シンガポールで同様の演説を行っています。
「今年は太平洋戦争の開始から50年の節目に当たり、私はあらためて今世紀前半の歴史を振り返り、多くのアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたわが国の行為を厳しく反省する」
もちろん戦争には苦しみ悲しみがあり、それを直視することは必要ですが、戦争というものはさまざまな原因があり、さまざまな結果があります。大東亜戦争によってアジア解放が実現したのは誰の目にも明らかであり、全否定するようなことを言えば当然、反発もあります。この海部演説に対してASEAN諸国で幻滅した声を中島慎三郎という人が現地レポート「海部首相の人気がASEANで失墜」を書いています。
「日本はあれだけの大戦争を勇敢に戦いながら、その国の首相が、先輩の業績を否定するような発言するのは無責任だ」
ASEANの人たちは日本人はサムライ精神を持っている、と思っており、お詫びする日本人は歴史を否定するものとして軽蔑するのです。威張るのもダメだし、ペコペコするのもダメなんです。
「ヨーロッパは500年にわたってアジア・アフリカを搾取した。しかし彼らは決して謝罪しないし、賠償金も払わない。もしこれがイギリスや中国だったら『海部首相は利敵行為をした。彼は売国奴である』と罵倒されるに決まっている。英・蘭・仏等はなぜ謝罪も賠償金も払わないのか、研究しなさい」(オランダ系混血児、元新聞記者。ヤン・ビルダ夫人)
「私と同じ早大出身の海部首相が、大東亜戦争を理解しないのは遺憾である。あれでは戦死者は犬死になってしまう。アジアの大部分は親日なのに、なぜ少数派の反日派に迎合するのか」(早稲田出身のインドネシアのオマール・トシン博士)
こうしたアジアの声を象徴しているのが昭和30年(1955年)のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)での出来事がわかりやすいでしょう。日本の初代国連大使となった加瀬俊一氏がこの会議に参加して、このときの様子を語っています。以下一部を記します。日本人はしっかり記憶すべきです。
「アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれど、ご承知のように悪いことをしなかったわけじゃない。それでね、『(会議に)行ったら白い目でみられるんじゃないか』と思ってあまり気が進まなかった。
しかし、その会議に行くとね、あちらこちらから、アフリカの代表、アジアの代表が出てきてね、『よく来たね』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が、大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。
この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。(中略)
こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やあ、こっちへ来て下さい』『いやあ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなあ』とそう思いました」
参考文献
転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
桜の花出版「アジアが今あるのは 日本のお陰です」桜の花出版編集部
参考サイト
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html
添付画像
バンドンの風景(PD)
大東亜戦争の真実.flv http://www.youtube.com/watch?v=aoaHZOQGBig
戦後、GHQによる戦勝国の歴史観が押し付けられて以来、私たちの歴史はほとんどが、日本を自虐的に見る歴史観になってしまい、さらには上面の事件の羅列に過ぎないものになってしまいました。歴史の事件には、そこに至る因果関係がありますが、そうしたものを語らず、事件の事象のみを語れば、それはまったく印象の違うものになりかねません。
さくらの花びらさんもおっしゃっていました。忠臣蔵で、浅野内匠頭が吉良上野介にいろいろと意地悪され、ついに松の廊下の事件が起こり切腹させられ、お家は断絶し、そして四十七士の仇討となりますが、これは昔から日本人の一番人気の芝居でした。
これが、吉良上野介の屋敷に討入りする場面だけしかないならば、芝居にもならず、かわいそうな年寄りを殺害する事件でしかありません。
日本の歴史は、ほとんどこのような書き方に変わってしまいました。特に戦争に至る過程はことさらに、日本軍の行動の理由や動機は消されて、戦勝国の都合のいい歴史に変えられてしまいました。
この「学校で教えない歴史」シリーズは今も更新中で、最新の5話を紹介したいと思います。
日本の教科書、マスコミ、政治家はじめ多くの国民は「日本は侵略国家」だと思っている。
特に教科書には「侵略」という言葉がよく使われいます。
1ページに「侵略」の言葉が6か所も使われている中学校歴史教科書もありました(中教出版)。
その教科書の「挿絵」もチャイナのものを使用していました。
どこの国の教科書か、と思ってしまうほどです。
「他国に軍隊を進駐すれば侵略だ」と思っている日本人がいる。
しかし、「侵略戦争」という言葉の国際的定義の承認は、
1974年の国連決議「侵略の定義に関する決議」第一条までなかったのです。
侵略したというなら、戦後、アジア諸国から日本が感謝されているのはどういうわけだ。・・・
・・・・・
戦争中、上野動物園では米軍の爆撃で檻が壊され、
猛獣や大型動物が逃げ出して市民に危害を加えないよう薬殺などの処分が行われました。
象が殺された悲劇は後に物語にもなりました。
では、戦後どうやって再び上野動物園に象が飼われるようになったのかご存知ですか?
実はインドのネルー首相が、上野動物園がある台東区の子供たちの熱望に応え、
昭和24年に自分の娘の名前を付けた「インディラ」を贈ってくれたことによるのです。
それは、独立間もないインドが、イギリスの植民地から解放するために、
命をかけて貢献してくれた日本に対しての深い好意を持ち、
「敗戦で打ちひしがれていた日本を元気づけたい」と思ったからでした。
この時、ネルー首相から子供たちに次のような文書を贈りました。
・・・・・・
日本の子供たちへおくる言葉
皆さん
私は皆さんのお望みによって、インドの象を一頭皆さんへお贈りすることを大変嬉しく思います。
この象は見事な象で、大変にお行儀が良く、
そして聞く所によりますと、体に縁起の良いしるしをすっかりそなえているとの事です。
皆さん、この象は、私からのではなく、
インドの子供達から日本の子供達への贈物であるとご承知下さい。
世界中の子供達は多くの点で似かよっています。
ところが大人になると変わり出して、そして不幸な事には、時々喧嘩をしたりします。
私達はこの様な大人達の喧嘩を止めさせなければなりません。
そして私の願いはインドの子供達や日本の子供達が成長した時には、
おのおの自分達の立派な祖国のためばかりにではなく、
アジアと世界全体の平和と協力のためにも尽くして欲しいということです。
ですから、このインディラという名を持った象を、
インドの子供達からの愛情と好意の使者として考えて下さい。
インディラは東京でたったひとりぽっちで、
あるいは少しさびしがって遊び友達を欲しがるかも知れません。
もし皆さんのお望みならば、インディラがこれから自分の住家としてゆく新しい国で、
幸福になるように、お友達の象を一頭送るようにすることも出来ます。
象というものは立派な動物で、インドでは大変に可愛がられ、
しかもインドの特に代表的なものです。
象は賢くて、しんぼう強く、力が強く、しかも優しいものです。
私達も皆、象の持つこれらの良いところを、身につけるようにしてゆきたいものです。
おわりに皆さんに私の愛情と好意とを贈ります
ジャワハルラル ネルー 1949年9月1日 ニューデリー
・・・・・・
このインドの好意はその後も続いていて、四頭目の象には「スーリア」が贈られました。
「スーリア」とはヒンズー語で「昇る太陽」という意味で、
これは「日出ずる国」である日本にちなんで命名されたのです。
インドの独立記念日は8月15日で、イギリスからの独立を祈念する日です。
このような国の特別の祝日には、どこの国の在外公館でもお祝いのパーティーを開きますが、
在日インド大使館だけは、この日が日本人にとって大東亜戦争の戦没者を追悼する特別の思いが
こもった日であることに配慮してパーティーをやりません。
代わりに日本の国花である桜が満開の春の時期を選んでパーティーを開くことにしています。
昭和40年から41年、
インドでは大飢饉に襲われ多くの国民が食糧難で困っていました。
これを受けて、昭和41年3月に台東区町会連合会定例会において
「インド飢餓救援の募金」を決めました。
これは、かつて台東区の子どもたちが中心となって象の招致運動をした際に、
ネルー首相から象のインディラが贈られ、その恩をお返ししようと募金を計画したものです。
早速、その翌月の4、5月の2か月を募金の期間としました。
動物園のある上野地区は4月10日に80万円を集めて台東区へ届けてきました。
集まった救援募金は当時の額で総額343万1403円にもなり、
インド大使館アイ・エス・メーター書記官に手渡されました。
当時、昭和41年6月5日の台東区民新聞には
「江戸っ子の人情でかたい友好の絆が結ばれた」と書かれていました。・・・
ネルー首相と娘さん、そして象のインディラ
さくらの花びらさんも仰っているように、東アジアと違って、東南アジアや南アジア諸国は親日感情を持っている国が多いです。それはやはり戦後に独立できたのは、日本が大東亜戦争を戦ったからだと思っているからです。そんなアジア諸国の現在の日本への感情を書いておられるJJ太郎さんのブログ「かつて日本は美しかった」の記事を合わせて紹介したいと思います。
歴史で謝罪することはアジアへの侮辱だった
アジア解放に命を捧げた先人の思いを無にしてはなりません。
「村山談話」というのをご存知でしょうか。平成7年(1995年)8月15日に村山首相(当時)が発表した談話です。以下、その一部です。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
こう言って謝罪しているのです。「遠くない過去」というのは大東亜戦争のことを指しています。大東亜戦争は自存自衛、アジア解放の戦争でした。特ア3国以外は日本の功績を高く評価しています。それなのに謝罪するとは「アジア解放」が間違いだった、と言っているのです。
実は村山談話より前、平成3年に海部俊樹首相(当時)がASEAN諸国を訪問し、シンガポールで同様の演説を行っています。
「今年は太平洋戦争の開始から50年の節目に当たり、私はあらためて今世紀前半の歴史を振り返り、多くのアジア・太平洋地域の人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたわが国の行為を厳しく反省する」
もちろん戦争には苦しみ悲しみがあり、それを直視することは必要ですが、戦争というものはさまざまな原因があり、さまざまな結果があります。大東亜戦争によってアジア解放が実現したのは誰の目にも明らかであり、全否定するようなことを言えば当然、反発もあります。この海部演説に対してASEAN諸国で幻滅した声を中島慎三郎という人が現地レポート「海部首相の人気がASEANで失墜」を書いています。
「日本はあれだけの大戦争を勇敢に戦いながら、その国の首相が、先輩の業績を否定するような発言するのは無責任だ」
ASEANの人たちは日本人はサムライ精神を持っている、と思っており、お詫びする日本人は歴史を否定するものとして軽蔑するのです。威張るのもダメだし、ペコペコするのもダメなんです。
「ヨーロッパは500年にわたってアジア・アフリカを搾取した。しかし彼らは決して謝罪しないし、賠償金も払わない。もしこれがイギリスや中国だったら『海部首相は利敵行為をした。彼は売国奴である』と罵倒されるに決まっている。英・蘭・仏等はなぜ謝罪も賠償金も払わないのか、研究しなさい」(オランダ系混血児、元新聞記者。ヤン・ビルダ夫人)
「私と同じ早大出身の海部首相が、大東亜戦争を理解しないのは遺憾である。あれでは戦死者は犬死になってしまう。アジアの大部分は親日なのに、なぜ少数派の反日派に迎合するのか」(早稲田出身のインドネシアのオマール・トシン博士)
こうしたアジアの声を象徴しているのが昭和30年(1955年)のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)での出来事がわかりやすいでしょう。日本の初代国連大使となった加瀬俊一氏がこの会議に参加して、このときの様子を語っています。以下一部を記します。日本人はしっかり記憶すべきです。
「アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれど、ご承知のように悪いことをしなかったわけじゃない。それでね、『(会議に)行ったら白い目でみられるんじゃないか』と思ってあまり気が進まなかった。
しかし、その会議に行くとね、あちらこちらから、アフリカの代表、アジアの代表が出てきてね、『よく来たね』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が、大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした、その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然として、イギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある』ということだった。
この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。(中略)
こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やあ、こっちへ来て下さい』『いやあ、今度は私のところへ来て下さい』といってね、大変なもて方だった。『やっぱり来てよかったなあ』とそう思いました」
参考文献
転展社「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
桜の花出版「アジアが今あるのは 日本のお陰です」桜の花出版編集部
参考サイト
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html
添付画像
バンドンの風景(PD)
大東亜戦争の真実.flv http://www.youtube.com/watch?v=aoaHZOQGBig