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家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

福田新政権の住宅政策に期待?

2007年09月26日 | 家について思ったことなど
新首相となった福田氏は、自民党総裁選の立候補表明演説のとき、「政策としては200年住宅を進めていきたい。資源の無駄遣いをしないことと景観を守る上にも大切なことである」と明言している。
弊ブログで何回か紹介した与党の「200年住宅ビジョン」の推進者(当時の自民党・住宅土地調査会会長)なのであった。

私は与党びいきでもなんでもないが、この住宅政策の方向性は評価している。実現に向けてこの部分だけでも応援はしたい。

この機会に、何回も主張していることをまた書かせてもらう。

「200年住宅を現実化するためには、耐震強度や省エネ構造、スケルトンインフィルといった物理的要件を満たし、税制や住宅ローンなど経済的要件での後押しをするだけではだめ。古いものへの価値観、例えば築100年の家を『すばらしい』『カッコイイ』と思える価値観・文化を社会的に醸成するべきである。そして、たぶん、それに一番時間がかかる」

前回のエントリ「『ビンテージ』をめぐる動きに期待」はまさにそういうことを伝えようとしたものだ。



しかし……


新政権って短命に終わりそう。100年どころか1年先のことで手一杯になりそうなんだよなぁ(笑)。



「ビンテージ」をめぐる動きに期待

2007年09月21日 | 家について思ったことなど
興味深い記事があった。

本日(9/21)付の日本経済新聞一面コラム「春秋」より
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20070920AS1K2000320092007.html
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 「古いからダメ」ではなく、古さが良さにつながるのが「ビンテージ」品。ワインや楽器などの解説に使われる言葉だ。集合住宅にもビンテージ品があるのではないか。そんな問題意識から若手の建築家らがホームページを立ち上げた。
(後略)
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記事中紹介された"ホームページ"は↓
ヴィンテージ・マンション・カタログ
弊blogでも紹介したことがある「東京R不動産」の仕掛けだった。

以前私は、「ビンテージ住宅」というエントリを立てた(2006年2月)。
古い住宅の、古さによってもたらされる価値を評価するようにしたいとするそのエントリの中に、
「『何でも鑑定団』 ではないが、ビンテージ的な価値を鑑定する権威のような人間がいてもいい」
というようなことを書いた。
その時点では自ら「妄想にすぎないアイディア」などと、実現性に関して冷めた見方をしていたものの、実際このような形で動き出していることを素直に喜びたい。

東京R不動産では以前から個別住宅もとりあつかっている。集合住宅もあわせて今のところ市場に出た物件だけがビンテージものとして紹介されるにとどまるが、住人が希望すればビンテージ的価値を鑑定してくれるような仕組みがあるといい。
ビンテージ品としていい鑑定が付くことで、それが市場価格に反映できるようになれば、古い家に住む住人がTVの「何でも鑑定団」よろしく「いっちょう、鑑定してもらおうか」という行動に出てくるかもしれない。築30年も過ぎた家に「資産価値はほぼ無い」とする、現代日本のあまりに乱暴な資産評価(関連エントリ→LINK1 LINK2)に変化をもたらす可能性も出てくる。

住人の売却する意思の有無はともかく、第三者に価値があると認定されただけで古い家の寿命を延ばす効果があると思う。
家の寿命を延ばすのは、ゴミを減らすエコの観点からも、文化を守る観点からも、丁寧な暮らしを促す観点からも大きな意味がある。
我が新居も、数十年後に古い家としての価値が生じるように使っていきたい。

政府・当局にしてみれば、耐震に関する基準が緩い時代の家を早期に建て直させたいという思惑はあるだろうが、将来200年住宅を目指すのであれば、古い家の価値を尊重する風潮を今のうちに醸成し始めておくべきだと思う。それがなければ、いくら頑丈な家を作っても「新しいもの好き」の論理に負けて本来の耐用年数に達するはるか前に乱暴に解体されることだろう。

「春秋」では、紹介されている物件について「不便な立地の物件もあるが、空き待ちは数百人を超すそうだ」とあった。ビンテージの価値が分かる人はちゃんと分かっている。この動きは応援したい。


イキオイでその他古い家に関連するエントリを列挙↓

いい古い家
住めば住むほど得する住宅
古い家の価値
家の寿命
1年あたり坪単価
共感――それぞれの「いい家」
施主が選ぶ建築賞、施主が望む建築賞
長持ちさせることがエコ
築年数検索で思ったこと
古い家の修飾語を検討してみる
「中古」と「Existing」



<余談>
古い家がしっかり評価されるようになると↓のような「お得な話」は残念ながら成り立たなくなる。
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/f016faf4e2d7a2efb70ca940653f6a08
もし将来にわたって古い家を評価する仕組みが出来上がらないのであれば、我が一族はこの「お得さ」をちゃっかり相伝して満足することにする(笑)。いずれにしろ子孫に損はない。


高高高高…住宅

2007年09月11日 | 家について思ったことなど
高気密・高断熱住宅を略して「高高住宅」などと呼ばれている。
で、我が家の古屋のようなのは低気密・低断熱なので「低低住宅」なんて勝手に呼ばれてしまう。
「高」「低」なんて表現されれば素人にはおのずと「高」がいいように思えてくる。このイメージをうまく利用して、「高高住宅」がセールスされているようだ。
しかし、「高高住宅」であるための言葉のうえでの十分条件は「高」が表す気密と断熱の性能が優れているということだけ。
高高住宅とすれば売りやすいといって、C値、Q値を高めるのを目的に窓を小さくしたり、はめごろしにしたりして、低通風、悪眺望になっている、なんていうばかばかしい状況だって目にし、耳にしている。
そうなると、「高高住宅」というだけでは優れた住宅とはいいがたい。
まっとうな「高高住宅」の造り手は、その他の性能も水準以上のレベルになるようにするだろう。しかし一方で、気密と断熱性能以外の性能をあまり重視しない設計・施工者がいて、そういう人たちが造った家も「高高住宅」となってしまうわけで、こういうキーワードでビジネスする弊害を感じる。

新しい概念としての高高をアピールするのはいいとしても、他の基本性能への評価だって大事だ。売り手側が「高」とか「低」とかで差別化するというならば、買い手側は住宅を構成する様々な条件をできるだけ列挙するよう要請したい。
そうなると
「ウチは『高高高住宅』だ」「いや、ウチは『高高高高住宅』だ」、なんて世界になりそう。


余談だが、もし、そんな状況になったら、言ってみたいことがある。
「へへん、ウチの古屋は『高』築年数住宅だゾ」って(笑)。


ちなみにあきらかに低いほうがいいこともある。
例えば「価格」。
(大金持ちを除き)誰しもできるだけ安く建てたい。
それから考えると、価格が低い住宅を「低価格住宅」といわずに「ローコスト住宅」というのも、語感を考えた営業戦略だろう。「低価格」とすると安普請的ニュアンスが感じられるから…。
語感を利用するという面で「高高」のセールス手法とあまり変わらない。

いずれにしろ、住宅の一断面だけをクローズアップしたキーワードに振り回されないように注意したほうがいいということである。素人ほどその部分ばかりに目を奪われ、他の大事なことに気が回らなくなる恐れがある。

「いい家」は本当は後から決まる

2007年08月31日 | 家について思ったことなど
「いい家とは何か」というのは一律に決められない。
それなのに「いい家」を、一定の考え方を元に条件付けしようとする人達が結構いる。
それはその考え方において「いい家」であるのは間違いないだろうが、条件を一般化・標準化しようとし、それからはずれる家を「いい家」にはなりえない、とする考え方に私は批判的姿勢でいる。

一方で、私が文句なく「いい家」だろうと思える「状況」というものはある。

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伝統ある民家 壊さず直す(asahi.comより)
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000000708240005
 伝統ある民家をあわてて壊さないで――。古い木造家屋に被害が出た中越沖地震で、NPOの啓発活動が続いている。余震対策の応急危険度判定で「危険」の赤紙をはられたり、罹災(りさい)証明で全壊とされたりしても、修理や耐震補強をすれば使える家も少なくない。建て直しより負担が少ない利点もある。3年前の中越地震の実例を示しつつ、説明に回っている。
                 ◆
 柏崎市別山地区の木造平屋建て住宅。瓦ぶきの玄関はブルーシートで覆われ、応急危険度判定の赤紙が。地盤が陥没し、広間が沈んでいた。
 「この造りなら、ばらせば生かせますよ」
 新潟市の建築家長谷川順一さん(46)は住人の男性(47)に説明した。家は築約150年。木で木を組む柔軟な「伝統構法」で、組み直せば「再生は可能」という。「壊してはもったいない」

(中略)

 長岡市村松町の農業吉井昌(まさし)さん(66)宅は築約50年の木造2階建て。主要な柱の1本の土台が崩れ、大きく傾いた。応急危険度判定で赤紙をはられ、罹災証明でも全壊扱い。建て替えれば1500万円はかかる。同協会に「直せる」と言われ、希望を抱いた。
 柱をジャッキアップして土台を補強。家屋のゆがみをワイヤをはって矯正し、壁を増やして強度を高めた。工事費は約700万円。配布された義援金と保険金、貯金で何とかまかなえた。「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」と喜ぶ。

(後略)
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建築家長谷川さん達の行動は尊い(長谷川さんのブログ→「たてもの修復支援ネットワーク」)。
なぜなら、正真正銘の「いい家」を救っているのだから。

記事中、吉井さんの「生きている間はここに住める。思い出いっぱいのうちだからのう」という言葉こそ「いい家」である証明ともいえる。
取り壊したくないという思いの強さは家に対する愛情の強さと同じだ。これだけの愛情を持たれている家は、第三者がどう思うとも「いい家」でないわけがない。

そう、「いい家」というのは当の住人が決めるものであって、けっして第三者が決めるものではない。
そしてそれが決まるのは竣工した時点ではなく、もっと後になってからだ(関連エントリ)。

家づくりをするにあたっては、いろいろなことを検討する。
広さ、間取り、素材、性能、コスト、デザイン…
それらが思い通りになったからといって、その時点ではまだ「いい家」とはいいきれない。
その時点でいえるのは、「いい広さ」「いい間取り」「いい素材」「いい性能」…というくらいであろう。
家を使って家に対する愛情が深まってはじめて「いい家」になっていくのだと思う。
思い通りに出来たのにいくら使っても愛着がわかなかったら、それは「いい家」ではないのかもしれない。
出来上がった時点で家にほれ込んだとしても、その後愛情が薄れてなくなってしまうのなら「いい家」ではないのかもしれない。

家づくりの依頼先探しは伴侶・パートナー選びに似ているとよく言われるが、依頼先に限らず、家づくりそのものもパートナー選びと似ているのではないだろうか。
恋愛関係において、カップルになったばかりのアツアツの時期は誰でも「いい人を見つけられた」と思う。
しかし「正真正銘いいパートナーだ」と断言できるのは結ばれた瞬間ではない。年を経ていいパートナーとして成就できたときだ。
ルックス、性格、学歴、収入等、自分が考える条件にあったパートナーを見つけたのに、結果的にいい夫婦になれなかった、そんなことだってある。それは結果的にいいパートナーではなかったことになる。逆に自分の理想とは少々違う人と一緒になったけれども、いい夫婦としてまっとうできたのならばいいパートナーだったといえる。
家も同じだと思う。

我が家は築60年ほど経った古屋と、築2年の新居がくっついてできている。
古屋については「いいパートナー」だと胸を張れる。新居については「いい関係を築きはじめた」といったところだろうか。

ファスト風土と住宅

2007年08月29日 | 家について思ったことなど
三浦展という人は「下流社会」(光文社新書)で有名になったが、それ以前にも面白い切り口で社会分析をした著書がある。
ファスト風土化する日本――郊外化とその病理」(洋泉社新書)がそれ。
「ファスト風土」とは三浦氏の造語で、ファストフードのように全国均質な大量生産された風土のこと。多少コジツケ感はあるものの、わかりやすいネーミングだと感心したものである。

わが地域を眺めてみても幹線道路には郊外型量販店が幅を利かせ、大規模ショッピングセンターが進出していて、ファスト風土化が進んでいるのが良く分かる。
駅前に並ぶのは、大手「サラ金」(←私はこの言葉を復活させたいのであえて使う。「高利貸し」でもいい)、カラオケボックス、駅前留学、ハンバーガー屋、チェーン居酒屋、コンビニ…。
没個性そのものである。
地場産業をもっと前面に押し出せば外部の関心を集めるだろうに、どこにでもあるものをどこにでもあるように配置しているだけ。狭い地域で自己完結し、外から人が訪問しない。これじゃあ地域が活性化するわけがない。
街並みを眺めていると、そんなオヤジの小言をこぼしたくなる。

「ファスト風土化する日本」では、地方で均質な「郊外化」が急速に進行して地域社会・文化にゆがみが生じ犯罪が増加している、というような説が述べられている。犯罪増加の主因かどうかについてはあくまで仮説として聞いておくが、地域特性が薄れてきていることは実感できる。

私は、個々の住宅でもファスト風土化が進んでいるのではないかと思っている。
全国一律で規格を定めて大量生産したパーツを組み立ててできあがる住宅、土地の特性や環境を活かさずとも「閉じる」だけで身体に負荷なく暮らすことが可能な超高性能住宅…、どんな土地柄に建てても同じような家になる傾向は強まっているように思える。
裏を返せば「ファスト風土にマッチした住宅」が開発されてきているということになりはしないだろうか。
大量生産でコストが下がるのも、住宅性能が向上するのも、経済的にはプラス面があるので、そういう住宅が供給されることを否定するつもりはない。だが、そればかりになるのはいただけない。地方が都会の亜流になる構図が強まるだけになるから。
地方の工務店・ビルダーは、現在売りやすいからといって、むやみなローコスト化とか特色のない高性能化に動くと、自ら「ファスト風土住宅化」に力を貸すことになり、やがて全国展開する競合社とのパワーゲームに巻き込まれていくのは必定だ。性能でも、素材でも、コストでも、デザインでも地域特性を加味していることを強みにできる住宅に力を入れたほうがきっといい。

「ファストフード店がどこにでもあるのが普通」であるかのごとく、「どんな土地柄に建ててもかまわない家が普通」と認識されるようになれば、地方の特性はどんどんなくなっていくことだろう。
「普通」は細かな地域ごとに違っていてもいい、と私は思う。

そんなこともあって「普通の家」と安易に語ることにちょっとした問題意識を持っている。

どんな形の「普通」であれ、「普通」と称することが出来るレベルならば、たぶん住宅個体としては特段の問題があるわけではないだろう。ただ、全国が均質化することを推進するような「普通」であったなら、それは風景や文化の面から特に推奨したいことでもない。

商業施設も、住宅も、全国どこへいっても同じ、「それが普通だ」なんていうようなつまらない世の中になってほしくないものだ。

先日、夏休みをとって家族と鎌倉に行った。
鎌倉は神社仏閣の多い街でそれが観光資源になっているが、個人住宅もなかなかどうして観光資源といっていいような価値がある。魅力的な家がたくさんあって決してデザインが統一されているわけではないが、落ち着いた調和が感じられた。
よくよく考えると、ファストフード店もコンビニも量販店も極端に少なかった。商店も住宅もファスト風土化していないことが鎌倉という街の魅力を維持していると実感できた。

処暑に思ったこと

2007年08月23日 | 家について思ったことなど
きょう8月23日は、二十四節気でいうところの「処暑」である。
暑さが峠を越す節目の日に、まさに暑さが和らいだ感があった。
これですぐに暑さがおさまるのかどうかは分からないが、前日までのあの暑さも、終わってしまうとすればちょっとさみしかったりするから不思議だ。あれだけ暑さと格闘していたというのに、人間というのは勝手なものなのである。
あの暑さがあったからこそ、和らいだことがうれしく感じられるということもしみじみ思う。

今年の夏を無理やりポジティブに表現するとすれば、「季節を満喫した」ということになろうか。

季節は時に優しく、時にきつい。
「優しさ」も「きつさ」も家の性能・機能によってどの程度緩和するかということを考えたい。
「きつさ」への対処はとても重要だが、あまりに完璧に回避を期すと「優しさ」にも気づかなかったりして、いい意味でも悪い意味でも「季節を満喫」しにくくなる。このあたりの調節が難しいところだ。
老人になったら季節と格闘するのは酷だが、子供には季節と少々格闘させて、格闘すること自体の面白さも教えたい。
私は貧乏性的発想から、「子供のころから寒暖に神経質なのは損」と思っている。
「暑いなあ」といいつつも顔は笑っている、そういうたくましい人間に育てたい。
きっとその方が楽しく生きられるから。


「マッチョメマン」の塔――ハウスメーカーもなかなかやる

2007年08月07日 | 家について思ったことなど
先日のエントリの楳図かずお邸に関連して、テレビの報道バラエティ番組を見ていたら、いくつかの事実がわかった。
まず訂正しておくべきことは、「まことちゃん」像が建つかどうかはわからない、ということ。計画では屋根の上に、「まことちゃん」に出てくるキャラクターの「マッチョメマン」の顔をモチーフにした塔のようなものができるらしい。
訴えた住民にとってはどっちでも同じかもしれないけれど(笑)。

さて、興味を引いた事実は、施工者がハウスメーカーの住友林業であること。
住友林業はハウスメーカーの中でも、いろいろな注文に器用に対応するほうであるとは知っていたが、まさか「マッチョメマン」の塔まで手がけるとは…。なかなかやるものである。
同時に、ハウスメーカーは総じて「規格外」になると値段が跳ね上がることを考えると、この場合、コストはどうなっているのかということも気になった。
稼いでいる楳図かずおにとってはたいした問題ではないのだろうが、もしさほど金額を上積みしていなかったとしたら、住友林業はそのことを宣伝に使ったらどうだろうか。

竣工できなかったら、元も子もないか(笑)。

あなたは楳図かずお邸の存在が許せるか

2007年08月02日 | 家について思ったことなど
奇抜すぎる建物が近隣に出来る → 地域の景観が損なわれるので反対
もし私の家の近所に趣味の悪い金色のラブホテルとか、わけのわからないデザインの宗教施設なんて建てられたならば嘆き悲しむことになるので、その心情はよく分かる。
奇抜さも程度問題という議論もあるだろうし、そもそも守るほどの景観をかもし出している地域か否かという視点もあるだろうが、こうした問題は「どこかに建ててもいいが、場所柄はちゃんとわきまえよ」というあたりが一般論的な落ち着きどころと考える。

ただこういった(↓)の場合、

外壁は赤白の横じま「奇っ怪」楳図かずお邸工事待った!
http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200708/sha2007080207.html
赤白塗装、巨大『まことちゃん』 楳図さん宅『景観壊す』
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007080202037921.html

単に奇抜な建物が出来るという以外に考慮してみたい要素が付随している。その要素をちょっと客観的に考えてみる。

まず施主が著名人であること。
例えば、社会的に高評価を受けているアーティストが隣人だとしたらどうだろう。その人に好意的心情を持っているのなら、住んでいることがすぐに分かる家があるのは必ずしも悪くはない。

その点、楳図かずおは微妙である(笑)。
推理小説作家の綾辻行人とかアイドルの中川翔子あたりは楳図かずおを「神」とあがめるほどの信者だが、決して一般ウケする人物ではない。「奇人」の範疇に入ると思う。
奇人でも、周囲の人が「あの人なんだからしょうがないか」という心情になれる愛すべき性格かどうかということもある。
本件の場合、反対運動が起きてしまった時点で特段愛していない住民がいるということになる(当然、好意的な人々もいるのだろうが)。全国にファンが数多くいるとしても、立地場所周辺はそのことはあまり理解していない状況といえる。

ここでいったん話は変えて・・・
注目選挙のたびに立候補する羽柴誠三秀吉氏の建てたホテル(施設)もかなりスゴイ。
シンボルの天守閣などはさほどめずらしくもないが、なんと国会議事堂やミサイル基地(!)まであるのである。
参考リンク↓
http://algolium.farewell.jp/report/odagawa.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/mrkusayakyu/19071885.html
もっと知りたい人は「日本インディーズ候補列伝」(大川豊著、扶桑社刊)を読むべし。上記サイトより写真が豊富である。改造戦車まで保持していることもわかる。
この人物の場合は、全国的にはあきれられているものの、周辺住民には意外と愛されているのかもしれない。

本題に戻って・・・
モニュメントが愛すべきキャラクターかどうかというのも問題である。
例えば東京・世田谷にある円谷プロダクションは住宅街にあり、ウルトラマンとミラーマンが立っていたが(参考リンク→http://members.jcom.home.ne.jp/qqq7/puro.htm)、周辺住民は好意的に見守っていたのではないだろうか。

その点、「まことちゃん」は微妙である(笑)。あれだけヒットした漫画なのだから、あのキャラクターのファンはそこそこいると思われるが、なにせ下品さが際立つキャラクターなので生理的に受け付けない人も少なくない。
行政も後押しした、「ゲゲゲの鬼太郎」はじめ水木しげるキャラクターせいぞろいの街「水木しげるロード」なんてところもあるので、地元商店街とタイアップするという手もあったろう。しかし、そもそも吉祥寺住民のセンスとはマッチしそうもない。それに「まことちゃん」はまだしも「へび少女」はちと扱いに困りそうだ(笑)。

周囲から浮いた建物というのは場合によって地域のシンボルにもなりうる。
建てられた背景も絡んでくるが、将来をにらんで、文化財になりうるか、風景になりうるかという視点でも考えてみるべきだろう。
本件はそういう点でも分が悪そうだけど(笑)。

ついでにリンク CRぱちんこまことちゃん↓(←全部ひらがななのもなんとも…)
http://www.kyoraku.co.jp/public/products/2007/makotochan/index.html


古い家の修飾語を検討してみる

2007年07月27日 | 家について思ったことなど
古屋を残した私は、古い家全般の世間的評判を高めたいと思っている酔狂な人間だ。
関連エントリ↓
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/1b32f46490b6f79071cd03bf4a71c91b
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/169987f170d79c941d60662277846ff6
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/8b0bbc9ab07e5f4aa8fa615910fa1592

先日、そんな目論見に役立ちそうなヒントを得た。
仕事関係で取引先と会食した折、イギリス事情に詳しい人物が笑いながら発したのが、次のような言葉。
「あの国では、自分の家を『ビクトリア朝時代(1837-1901)の建物なのでまだそんなに古くはない』とか謙遜(?)したりしている」

「ビクトリア朝時代の建物」――歴史的風格を感じさせる表現だ。
これだ。このような表現が出来れば古い家を卑下しないですむ、と思った。

で、日本においてはどう表現したらいいのだろう。

「江戸時代の建物」くらい古ければ、風格が漂ってくるが、そんな個人住宅はめったにないし、あれば黙っていても地域の文化財としての呼称がつけられるだろう。

近代だと言葉の響きがイマイチである。
「明治時代の建物」「大正時代の建物」――悪くはないのだが、「時代遅れ」のようなムードも付随してくる。それに江戸時代の建物よりは数があるものの、やはり極少なく既に文化財化していることが多い。
「昭和」になると、近すぎて「時代」と呼ぶのに抵抗があるし、言葉のイメージにたいした風格はない。だけど、このあたりの真っ当な古い家になんとかスポットを当てたい。
「昭和の建物」――多少のレトロ感は付随するものの、時代遅れ感とか煤けた感じが強い。だいたい対象数が多すぎて希少性が感じられない。
もう少し細分化してみる。
「昭和初期の建物」「戦前の建物」――古いというより、古臭い感じがしてしまう(笑)。

「歴史」を意識させる言葉、そうだ、「世紀」を使ったらどうだろう。
「20世紀前半の建物」―― 思わず、「19世紀ならよかったのに」とつぶやいてしまった。19世紀と20世紀では数字の大台が異なり、言葉の響きのうえでも大きな断絶を感じる。そして、ちょっと前まで「21世紀」は未来を指し、「20世紀」は現代を表していた。

少し昔の文化をクローズアップして評価するとき使われる「’s」はどうか。
「1940’s住宅」「1950’s住宅」――カルさがあって、古さを評価するムードは感じられない。だいたい人に紹介するときどう発言するのだ。「フィフティーズ住宅」だなんて口に出したとたん「欧米か」ってツッコミが入りそうだ(笑)。

思いつきはよかったと思ったが、難しいものである。

カッコいい「古い家の修飾語」求ム。

家づくりにおけるサイバーカスケードな空間

2007年07月26日 | 家について思ったことなど
Wikipedia 「サイバーカスケード」↓より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%89
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インターネットには、同じ考えや感想を持つ者同士を結びつけることをきわめて簡易にする特徴がある。つまり人々は、インターネット上の記事や掲示板等を通じて、特定のニュースや論点に関する考えや、特定の人物・作品等に関する反発や賛美等の感想を同じくする者を発見することができるようになる。加えて、インターネットは不特定多数の人々が同時的にコミュニケートすることを可能にする媒体でもあるので、きわめて短期間かつ大規模に、同様の意見・感想を持つ者同士が結びつけられることになる。その一方で、同種の人々ばかり集結する場所においては、異質な者を排除する傾向を持ちやすく、それぞれの場所は排他的な傾向を持つようになる。
(中略)
こうしてインターネットは、極端化し閉鎖化してしまったグループ(「エンクレーブ enclave(「飛び地」の意)」と呼ばれる)が無数に散らばり、相互に不干渉あるいは誹謗中傷を繰り返す、きわめて流動的で不安定な状態となってしまう可能性がある。サイバーカスケードとは、こうした一連の現象に与えられた比喩的な呼称である。
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ネットサーフィン(※)しているとサイバーカスケード化している場面や状況を見かけることがある。

家づくり関連では、自分たちとは異質の意見を持つ集団のテリトリーにまで攻撃に向かう例はさほど多くはないが、自分たちのテリトリーで言いたい放題で「敵」を貶めていたりするところはある。
彼らは必ずしも悪人ではない。むしろ善人だったりする。ある意味まじめであるがゆえに自分たちが正しいと思っていることを理解しない人間に憤り、先鋭化しているのである。
例えばそういうものの周辺で「おかしな争い」が生まれたりもする。
おかしな争いをしているうちはまだいい。仲間しか訪問していないその場所での意見が住宅業界の良識を決定しているかのごとく認識するようになったらちと引く。非寛容な選民思想を持つカルトな新興宗教の性質と似かよってくる。

こんなことを書きながら、実は私はそうした場所の利用方法はあると考えている。その場所では余計なノイズ(罵倒語)が付随していたりもするものの、彼らの「敵」のネガティブ情報がいろいろと出てくることがあるからだ。彼らの「敵」とは、私達施主連にとってはいくつかある依頼先候補の一つの業態ないし会社である。彼ら自体も候補の業態・会社だったりもする。
いろいろな対象についてプラス面マイナス面の双方の情報を集めること、それが情報収集で心がけるべきことである。自分を見失わなければそういう場所を覗いてみてもいい。ただし玉石混交のうえ、「敵」に関する情報は「玉」(知らなかった事実)より「石」(無責任なうわさ、ノイズ)の方がかなり多いので、効率的な情報収集手段でもない。
また、特に先鋭化が激しい場所では、そーっと見るだけ、それが肝要である。それでも「毒」にあてられて気分が悪くなったりするリスクがあるのでご注意を。

弊ブログではブログ主自ら多様性を認めたいと意識しているし、気の合う仲間が集まっても、社会的には単に「同好の士」の一集団にすぎないと認識する客観性は持っているつもりだし、自身のバイアスだって警告しているし、他者を批評・批判・分析はしても積極的にバカにしたりするつもりはないし、「多神教」だし(笑)、そんな先鋭化した地点にまで到達しようもないだろうと自負(?)している。
それでも、もしかしたら…。



※このネットサーフィンという言葉、当初から違和感がある。サーフィンというよりダイビングだと思う。スキューバダイビングを体験してみれば実感がわくと思う。

「新しさ」の陳腐化

2007年07月24日 | 家について思ったことなど
新製品はその「新しさ」においてまもなく陳腐化する。
これまでにない機能、これまでにないデザインのモノが世に出たとして、その「新しさ」が評価される時間は短い。PCなどハイテク機器の周辺を眺めてみればすぐ分かる。
ハイテク機器はともかく、家のように長い期間使うものは、その時点での新しさにあんまりとらわれすぎない方がいいと思う。「新しい機能」「新しいデザイン」が気に入っていたとしても、その新しいこと自体に満足できる期間はすぐに終わるからだ。
機能にしろ、デザインにしろ、それが新しくとも、新しさという点ばかりに目を向けず、「確かさ」とか「普遍性」というような観点で見つめた方がいい。機能やデザインが長い期間にわたって評価され続ける場合、それは「新しさ」という評価軸から離れてみてもなおかつ価値があるときだ。

新しさに価値判断のウエートを置きすぎると、計画的陳腐化戦略の罠にはまりやすくなるということもある。

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「計画的陳腐化」 (「Marketing Square」の「ワードファイル」より)

プロダクト・ライフサイクルを短縮し、主に新製品の購買促進を目的として企業が行なう戦略のこと。
物理的陳腐化,心理的陳腐化,機能的陳腐化の3種類がある。
物理的陳腐化は、製品の部品ないしは製品全体を一定の時期が来ると老朽化するように意図的に組み立てるものである。
心理的陳腐化とは、製品またはパッケージのデザインを変えることで、消費者にそれを所有することが「新鮮である」と感じさせることで購買を促すものである。最近ではソニー「プレイステイション2」や日産「フェアレディZ」がその代表例となる。高価格の製品でよく用いられる。
機能的陳腐化とは、製品の機能をグレードアップすることで、新製品への買い換え需要を促進するものである。マイクロソフトの「Windows」「Office」やインテルの「pentium」などPC関連機器でよく用いられる
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住宅において、もし上記3種のうちの物理的陳腐化策をとっていたらそれは欠陥住宅に近しいと判断すべきであろう。 さすがにそこまでの愚劣な商品戦略をとる住宅業者は少ないだろうが、水準の高い住宅を作る業者でも、新しい機軸の住宅を売り出そうとすれば自然に「心理的」ないし「機能的」な計画的陳腐化策に似た行動をすることになる。
そう考えると、「新製品」を次々と打ち出すハウスメーカーの存在が日本の住宅の短命さに少なからず影響しているようにも見えてくる。
施主としてはこうした業界の動きにまどわされるのは損だ。だから「新しさ」を観点とした評価はほどほどにしておいたほうがいい。
新しいものを評価するなということではない。新技術がその後の本流となることは少なくないからだ。新しいものを「新しい」ことばかりに着目して選択すると、遠くない将来その価値にありがたみを感じられなくなり、別の新しいものの方がよく見えてしまうことに気をつけたいということ。それは、まだ使えるものをゴミ化する方向に働く。
貧乏性の私の発想としては、現在新しいものが将来新しくなくなったらどうなるのかということに想像をめぐらすこと、そして「古い」ことの良さが分かって「古さ」を満足できる価値観を持つこと、が長い目で見て得なことだと思うのだ。


「学習に集中できる子ども部屋」への大きな疑問

2007年07月17日 | 家について思ったことなど
前エントリの「トクホ住宅」の記事には、他に気になる一文があった。
ネット上ではその文は省略されているが日本経済新聞17日朝刊には全文が載っている。

曰く
「快眠しやすい寝室の照明やデザイン、学習に集中できる子ども部屋、……などが研究課題になる見込みだ」

子ども部屋の議論には大抵、勉強の問題が関わってくる。それは自然な流れではあるが、こと勉強に関しては、そもそも子ども部屋でやるべきものなのか、というところから議論を展開して欲しいと思う。
「勉強部屋」の発想は、一人で誰にも邪魔されない環境を作って集中しやすくする、というものだが、その発想は勉強自体が趣味となった超優等生か、せっぱつまって真に心を入れ替えた受験生くらいしか通用しない。人間というものはたしかに一人になって集中することもあるが、それ以上にサボるものである。自分が一人になったら何をするか想像してみればいい、自分の子どもも同じようなものと考えるべきだ。

我が家では、勉強はみんなで使う作業机兼勉強机でやることになっている。あるものはそこで勉強しているが、あるものは工作していて、あるものはPCをいじっている、そんな環境である。
「それでは集中できないではないか」というようなことを言われるかもしれないが、逆に「そんなことで集中できないというのは困る」というのがこちらの言い分になる。

子どもが、密室でしか集中できないまま社会人になったことを考えてみてほしい。
会社に入れば机がずらりと並んでいて、社員が仕事をしている。学校の教室も同じではないかというかもしれないが、教室の場合は皆同じ勉強を同じペースでしているのに対し、会社の場合は、それぞれ違う仕事を違うペースでやるし、時には机のうえを片付けたり、電話したりしているのだ。隣に人間がいることで仕事ができない、などという言い分が通用するような世界ではない。
最近、社会でメンタル面が弱い人材が増えているのは、もしかしたら一人じゃないと集中できないまま成長してしまったせいかもしれない、などと思い始めている。一人でない場所でも勉強できるように意識的に育てておかないといけないとすら思う。
それに、勉強で分からないことがあったら隣のお母さんに聞けるという利点もあるし、工作に熱中する私のようなお父さん(笑)がうるさいと思ったら、「ちょっと静かにしてよ」って言えばいいのだ。それはコミュニケーション能力を鍛える機会にもなるはずだ。親子の断絶の予防効果も期待できる。

私は「快適な環境」というものに対し、問題意識を持っている。抵抗力の衰えた老人にはできるだけインパクトが小さい環境を用意するべきだと思うが、子供たちは別だ。子供たちには順応力・適応能力を身につけさせねばならない。負荷のある環境下でも行動できる人間に育てなければならない。快適な環境でないと勉強できないなどという性質はハンディキャップになってしまう可能性すらある。
そういうことは外部で鍛えろという人もいるけれど、勉強などというものは習慣であり、日常生活で身につけるのが適していると考える。

なお、記事にあった「快眠しやすい寝室」というのは魅力的ではあるが、やはり子供のことを考えると全面的には受け入れがたい。私は大抵の場所で眠ることができるという自分の能力に少々誇りを持っている。快適な環境でないと眠れないようなヤワな子供には育てたくはないのである。それこそ日常生活で身につける能力でもある。
ただし、何と言っても家は休息する場所である。老人もいるし、快眠しやすいのはいいことに違いない。子供にも時にはそうしてやりたいし。
運用次第でどうにでも使える家というのがいいかもしれない。

そうだ。ひとつ思いついた。今年の夏休みは古屋で蚊帳をつって子供を寝かせてみるか。仏壇もあるし、先祖も喜びそうだ。さて蚊帳はどこにしまってあるのだろう。

関連エントリ
勉強部屋?子供部屋?
http://blog.goo.ne.jp/garaika/e/c640e30f6cb732fa11a0ba6aaf4d9a29


「より健康になる家」の認定に反対したい

2007年07月17日 | 家について思ったことなど
Nikkei.netより
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20070717AT3S1301Q16072007.html
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「トクホ住宅」産学官で研究・国交省が認定制度めざす
 国土交通省は「健康増進につながる住宅」の認定制度の導入に向けて、産学官による研究を始める。国が健康に役立つ食品にお墨付きを与える特定保健用食品(通称「トクホ」)は、「脂肪がつきにくい」とうたう飲料などで、普及が進んでいる。同じような枠組みを住宅に設けて、「より健康になる家」の普及を目指す。
 18日に建築学や医学などの研究者や、住宅や設備のメーカー、厚生労働省など関係省庁で構成する研究委員会を立ち上げる。
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上記記事に思いっきり疑問符をつけたい。
「脂肪がつきにくい」食品だって、「健康になる」とはうたってない。
脂肪分の多い食品をガンガン摂ったら「脂肪のつきにくいお茶」を飲んでも、そもそも脂肪分の少ない食品を心がけている人より不健康になりやすい。
それから考えれば「より健康になる家」は言いすぎである。
「健康になる」のではなくて、せいぜい「健康を維持しやすい」くらいの表現にとどめるべきだ。「健康になる」というのは本人の自助努力こそが最大の効果を発揮するもののはずだ。以前も言ったが、こういうことをやると「仏作って魂入れず」になりかねない。

いかにも「箱物」が好きな行政の考えそうなことである。
こういうことをやる前に子供達に「健康教育」をやるべきだろう。そちらのほうが健康増進に「より有効になる」だろう。

「いい家」のストライクゾーン

2007年07月14日 | 家について思ったことなど
「いい」という言葉は情報としてあいまいだ。
使う人によってニュアンスがまったく異なる。
「いい」と思えるもののバリエーションが多い人と、「いい」ものの姿がかっちり決まっている人がいて、両者の「いい」は同じではない。
身近な例で言えば、女性(男性)の好みについてのストライクゾーンがかなり広い男性(女性)がいる一方、ストライクゾーンがかなり限定されている男性(女性)もいる。そして両極にいる人の発する「いい女(男)」という言葉は相当に意味合いが異なっている。

「いい家」も当然そうである。いろいろなバリエーションの「いい家」があると思っている人と、「いい家」は厳密に定義付けした条件に合致するものだけと思っている人がいて、「いい家」という言葉の使われ方が違う。
「いい家」を一般論的に論評するとしたら、両者の意見は噛み合わないだろう。
どちらの姿勢が良い悪いということに言及しても意味はない。情報の受け手としては、「いい家」という情報に触れた時、それが「いい家」かどうかを判定するのは他人ではなくあくまで自分だということが重要である。

私は「いい家」にはいろいろなバリエーションがあると思っている人間である。家族ごとにそれぞれ「いい家」の形態があるとも思っているから、他人の家を見せてもらって「自分とはちょっと志向が違う」と思った場合でも「『いい家』だなあ」と思うことはよくある。
自分の家は自分のストライクゾーンの真ん中にできるだけ近づけるよう建てたつもりだが、ストライクゾーンが広いせいか、他人の家も「いい家」と思うことが少なくないということかもしれない。
ここではそんな感じで「いい家」のことを語っているので、「いい家」の姿・性能は物理的条件としては一定していないと思う。

言葉の使い方、使われ方は人によって異なる。あいまいさのある言葉ほどその差は大きい。
他人が発する「いい」という言葉の背景を知らないとミスリードされる恐れがある。そんなことを常々思っている。

関連エントリ
それって「すごい家」ではないのか
普通の家

家の履歴書・血統書――情報の重要性

2007年07月12日 | 家について思ったことなど
ある人から中古住宅を購入することについて相談を受け、素人意見を述べた。
そのとき、「その家を施工したのは何者か」という情報はできれば聞いたほうがいい、というようなことを示唆した。施工者が信頼できる腕と信用できる人格を持っているかということは中古住宅を買ううえでも有用な情報だと思うからだ。
以前から将来のリフォームのことなどを考えて、図面や施工途中の写真など家の情報(設計事務所と建てるとそういう情報はプロによって整備されて手元に残る)は保持し続けたほうがいいと思っていたものの、これをきっかけに住宅の流通という面からも家の情報はできるだけ多くあったほうがいいと気づいた。
「そうか『家の履歴書』とか『家の血統書』とかあるといいかも」とひざをたたいたが、すぐにそんな考えは提案されているだろうと思い至り、グーグル君に尋ねたら、やっぱりあった。

昨年の9月に、与党の200年住宅構想の記事を紹介したが、今年5月になって自民党政務調査会が「200年住宅ビジョン」というレポートを発表、そのなかに「家暦書の整備」という提言がしっかりあったのだった。「家暦書」とは、すなわち家の履歴書である。
やっぱり素人が思いつくようなことは、すでに考えられているのである。
そのほかにも福岡県では提言のかなり前から「家暦書」の普及を進めていたようで、福岡県住宅課のサイト「家暦書」がダウンロードできるようになっていた。

中古家電の売買でも取扱説明書の有無で値段が違う。中古住宅の売買も家暦書の有無で十万円以上の差をつけてもいいのではないだろうか。それを支援するために、家暦書がある場合、不動産取得税を軽減するなどという施策を導入したらどうだろう。
オープンになっている「200年住宅ビジョン」は概要なので、もしかしたらすでにそんな詳細な検討もされているかもしれない。今後に期待したい。

「施工者情報」は別の付加価値を生む可能性があると思う。腕のいい工務店が施工したという事実はブランド価値的な無形資産になるかもしれない。
良いものが高く評価される健全な市場にするためには、情報の蓄積とその開示は必然なのである。
不動産業者には情報をできるだけ集めて開示することをオススメしたい。それは差別化戦略となりうるはずだ。「あの不動産屋さんの情報が一番充実していて確かだ」という評判が広がれば、ほっといてもお客さんは寄ってくるだろう。