monologue
夜明けに向けて
 



 ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。土地の持つ音というものがあってそれが出せないとうまくゆかない。アルバム『コールド・スプリング・ハーバー〜ピアノの詩人』で1971年にレコードデビューしたビリー・ジョエルはニューヨークからロサンジジェルスに移住してビル・マーティンという名前でクラブのエンターティナーをしていたことがある。しかし、かれのもつ音楽性がカリフォルニアの気候に合わず夢破れ、ニューヨークに帰って再出発して成功した。かれには東海岸の都会性が似合っていたのである。

 ロサンジェルス、リトルトーキョーのはずれに「インペリアル・ドラゴン」という台湾系のかなり広いレストランがあった。夜9時を過ぎるとクラブになって酒類を提供しエンターティナーが入る。ディック・ミネの子息が昔、エンターティナーをしていたこともあった。その店でわたしたちは週に何日か演奏していた。ディスコブームが訪れたとき、オーナーの娘がディスコパーティを計画してディスコのバンド演奏してほしいとオファーしてきた。普段の仕事では打楽器はドラムマシンですませていたがディスコバンドで本格的に人々を踊らせるならドラマーが絶対必要である。すると中島茂男が宮下文夫に頼もう、と言い出した。わたしはかれがドラムを叩くことをそのとき、まだ知らなかった。
fumio

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