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monologue
夜明けに向けて
 



《アリオン語録》

   抑圧について
                     
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 あなたがたは抑圧という言葉からどんな状態を思い浮かべるのだろうか?
身動きできない感じ…自分の思い通りにならない状態…きつく縛られている状態…
上記の状態は、恐らく誰もが嫌がる好きになれない状態だろう。つまり人は心地好い、自分の好きな状態に居る時は<抑圧>を感じないことが多い訳だ。こういった<抑圧>とは私から見れば、自己中心的な幼児的なワガママに見える。私の話したいことは、本当の意味での<抑圧>なのだ。本当の意味の<抑圧>とは自己確認行為の過剰からくるものだ。
それは、いつも『自分が…』とか『私は…』に始まる一人称の世界での遊戯が過ぎた結果だとも言えるだろう。

 つまり、あなたがたが感じている<抑圧>は自分の思い通りにならない時に感じると言った具合の非常にシンプルなものだということだ。しかし、本当にあなたがたを<抑圧>しているのは過剰な自己確認遊戯に明け暮れた結果、異常に増殖してしまった『自我』だということに気付いて欲しい。『こうありたい自分』から『こうあらねばならない自分』という風に転換してゆくモノサシを持った自分。その異常増殖した自我を満足させる為に『こうあらねばならない自分』用の肥大したモノサシを使おうとする。

 一体、いつから『あるがままの自分』を見ようとしなくなったのだろうか?あるがままの自分とは、見るに耐えないほど酷いものか?
しかし、あなたがたの成長とは『真実の映し絵としての事実を見る』ことから始まるのでは無かったのだろうか?あなたがたの<抑圧>とは肥大化し異常増殖してしまった自我を満足させることの出来ない、本当の自分を見ようとしないところから始まる。まず、本当の自分を見ること、これを始めたなら多くの<抑圧>は抑圧では無かったことが判明するだろう。本当の自分を見ること、それがたとえ『こうありたい自分』から遠く離れていてもそれを認めること。認めることは恥、にならないことだ。好きになれとは言わない。認めるということは嫌いにならないこと…そして好きになることでもない。ただ、ありのままに『それを、そこに在ると知る』ことなのだ。この行為を通して、あなたがたは多くのことを見つけるだろう。それは『自分とはこういうものだ』Jという枠を壊すことに繋がってゆくだろう。つまり、自分を何にも規定したりしないこと、自分を自分として見つけることが出来るようになる道へ繋がる行為になるからだ。

 その道こそ<抑圧>の無い道、この道こそ真の理解への道、この道こそ愛の道だ。
<抑圧>には外的なものと内的なものとがあるが、大切なのは内的な<抑圧>なのだ。
自我によって押し潰された、本来の自分を認めることが<抑圧>からの解放に繋がる。
そしてそれが『自由・自分の在る故を知る』ことへの道なのだ。

                      ---ARION,O∴O---


JULY.11.1990
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《アリオン語録》

「場」の崩壊と「私」意識の存続について  
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 何もかも移り変わってゆく中で、『自分』という意識だけは置き去りにされてゆく、と思っている人は多いが、この意識自体が本当は移り変わっていることに気付かない。万物流転の法則に逆行するものは、何一つ無い。「私」という意識は、本当に不変なのか?
5歳の「私」と20歳の「私」、30歳、40歳の「私」の共通項は何か?
人間の五感すら変化してゆく、育ってゆく。そういった万物流転の法則の中で不変なものはあるのだろうか?人は、「私」という意識が不変であるという事を信じたい、と思っている。「私」すら変化してしまうのであっては、どこに基準をおいて良いのか分からないと思っているからだ。

こうして人は自分自身の存在に思いを馳せ、その思いの中の普遍的な部分を論理体系化し哲学、或いは宗教という名前で分類してきた。こうした普遍化された「思い」の体系も、この90年代に入って見直しが迫られている。それは、何故だろうか?論理化、体系化されてきた「思い」の基盤となる人間の生活基盤自体が崩壊し、普遍化という名前が陳腐なものになろうとしているからだ。

人は、そろそろ気付かねばならないだろう。人、と呼ぶ自分達の仲間である生物自体の生活基盤というものが、既に個化され共通基盤となり得る生活と呼ばれる「場」が崩壊してしまったことを。
特に日本という国の文化は、「場」と呼ばれる共通磁場形態を介しての成立を持つ文化だっただけに、その「場」の崩壊は文化の崩壊を意味する。特殊な「場」の文化形態が崩壊してしまった時に、人の取る行動は何か?「群れる」という代替行為にも、文化の崩壊後の人の混乱が映しだされる。

こういった生活基盤や文化の崩壊の中で、「私」意識を保つ為に人が進んで行おうとすることは何だろうか?
 「私」を構成する要因となる『自分』の特色を映しだすモノの認識、そしてそれらのモノが確実に自分自身の存在理由を示すかどうかの確認…
その上、それらのモノに関連する者や物を探す、探して仲間になり仲間同志で結束してゆこうとするだろう。
 何故、結束しようとするか?
それは、『自分』の存在理由を映しだすモノの正当性と確実性を高める為だ。不安や自己の脆弱性を「群れ」になることで補おうとするのは、弱小生物の基本的な生活本能だからだ。イワシや蚊も群れになって行動する。

 日本の「場」を介する文化や習慣は、人々の意識によって支えられ、そしてその文化形態としての家屋や通りの様式などにも支えられて来たが、戦後の欧米化の波をまともに受けて、それらの家屋や通りの様式は崩壊した。それらの形態の変化と共に、家族のあり方や人間関係のあり方も変化した。いままで「お国(という場)の為」や「社会(という場)の為」に働いた人々は「自分と呼ぶ認定範囲の中だけの為」に働くようになった。
そして、欧米化の波を受けた家屋形態は、閉じる方向へ閉じる方向へと進路を変えていった。家族も核家族化して、益々「自分と呼ぶ認定範囲」は狭くなった。地域の場は崩壊し家庭の場も崩壊している今、人の「場」は自分の立つ40~50cmの小さいものとなり、既に「場」と呼ばれ得ないシロモノと化した。元々、人々が働いて築いてきた「場」の文化は終焉を飾ろうとしている。それと共に、稲作民族として栄えた日本のアジア的なルーツのもたらす安心感も揺らいで来ている。

 狩猟民族である欧米人の社会は、元々「場」というものを可変なモノとして認識し、その「場」の構成員である「個」に帰属させるという考え方であったので、アジア的な稲作民族の「場」の意識と、欧米的な「場」の意識とでは雲泥の差がある。その雲泥の差のある欧米意識が練り上げた人間関係のノウハウと、そもそもアジア的な意識の日本人の人間関係のノウハウは、基盤となる人間関係の「場」意識が異なる。現在、この欧米的なノウハウが持て囃されるようになった一つの根拠には、この現代 日本の抱える「アジア的稲作民族意識の崩壊」が大いに関与している。

 しかし、ここで私は問題提起をしたい。「アジア的稲作民族意識の崩壊」はイコール「欧米式狩猟民族意識」への、帰属であるのだろうか?
生活様式や論理形態を欧米化の波が洗ったからとて、真に欧米と等しくなった訳ではあるまい。表面的な形を幾ら変えても、そして幾星霜の年月が過ぎようとも、日本人の心と体の中には「アジア的稲作民族意識」の片鱗が舞っているのでは無いだろうか?

 「私」という意識が不変であることを願う人々こそ、自らの心と体を養うルーツがどこにあるのかを識るべきだ。何故ならば、あなたがたが望む「私」とは、無数の他の「私」達に支えられた「場」に立ってこそ、安心することが出来るからだ。
この「場」は、我が身と我が欲の為にだけ働こうとする人には無縁なものだ。人は「場」と「自分」の両方に働いてこそ、安心して生活出来るのだ。これは欧米ではなく、この日本の人々の為の話だ。
 自分の存在意味の映し絵であるモノの共有ではなく、自分の心と体を養うという目的の共有という意味での「場」を作らねば、本当の結束はあり得ないだろう。単に「群れる」だけでは、本当の意味での安心感は得られない。自分の都合や自分の欲を先行させた「群れ」は、結束力は無い。単体でいるよりは、群れの方が大きく見える、とそれだけのことだ。

 「アジア的稲作民族意識」からの脱落が、アジアの人々の意識からの脱落を意味するとしたら、これは日本の存続という観点から見ると、たいへんに危険な事だと言える。どんなに姿形が欧米化しても、日本人の成り立ちを構成している素因はアジアからのものなのだから。そして如何に欧米の思想や哲学、そしてそれらに関連するノウハウを身に付けても、日本という場の記憶素子は、脈々と受け継がれてゆくだろう。この記憶素子に抵抗すればする程に、日本人の不安感や焦煉感は増すだろう。現代日本社会は、この不安感や焦燥感を欧米式ノウハウのセミナーや、教科書でテクニカルに処理しようとして、益々それらを煽るという悪循環を操り返している。自分の帰属するペき「場」を持たない人々は、形だけでも「群れ」を目指して数々のカルチャー・センターや新興宗教に集まる。しかし、これらの「仮の場」は本物の「場」の持つ、深い安心感を与えることは出来ない。右往左往する人々の目の前に、これでもかこれでもか、と新しい「お題目」が提示され、人々は飢えた魚のように新しい餌に群がる。人々の求める深い安心感は、人々の意識と献身によって支えられる「場」であり、そしてそれは、新興宗教やセミナーといった「考え」のもたらす「場」では無い。あなたの帰属する「ツチ」とその恵みである「コメ」、そしてそれらを「ヒト」との契約の証として置かれた「カミ」という名の、大いなる大自然の全てに対しての感謝と敬虔な思い、そしてその思いを形として継承してゆくべき「ムラ」という名の集合体、それら全てに関与し働くことで得られる「場」なのだ。

 私は、ここで国粋主義をうたうつもりは毛頭無く、欧米思想の排斥を願うという訳でもない。日本人であるあなたがたの奥底を流れる、アジアの血脈を無視していては、これからの世界に生きてゆくことが困難になってゆくと、言っているのだ。今、ひとたび日本の「カミ」「コメ」「ツチ」「ヒト」と、それらと関わる人々の共通の安心の「場」であった「ムラ」という形態を思い起こし、考慮して欲しいと願っている。「ツチ」という共有意識も単に金銭で売買する単位では無かった筈だ。「カミ」も単に「御利益」の為では無かった筈だ。「コメ」は単に食料を成すものでは無かった筈だ、稲作という農業形態が多くの文化や思考形態、そして人間関係をも成してきた筈だ。「ヒト」は単に人間と呼ばれる、生き物だったのだろうか?「ムラ」は単に人が群れているところでは無かった筈だ。
終戦後、能率と開発、そして収縮を忘れた拡大に命を削り続けた日本人が、プラスやポジティブの為に裏庭に埋めてしまったモノ。清潔さや明るい光の当たるところを優先することだけを考え、暗いところにあるものを排除してゆく道すがら、忘れてしまったもの…。
今、ひとたび、思い起こして貰いたい。何故ならば、思い起こしてゆく上でこそ、あなたがたの存在の「場」や価値についての暗喩を見いだすからだ。



1991/10/17 0:22
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《アリオン語録》

 シュミレーション社会はどこまでいっても模倣でしかない。今後、ますます実体験をともなわないシュミレーション・システムが増加するだろう。人はますます実体験を避けるだろう。
この傾向は都市の無機質化を推進するだろう。
 
 現在の東京の無機的な姿はそっくりそのままそこで住む人々の心象風景だ。人はいつも自分達の心の中にあるものを外部世界に存在させる。相似形をいつも作ろうとする。

 そしてこれは、一部の建築家に代表される「ものを作る側」の人々の心象風景だ。
その他大多数の人々は、彼らの心象風景を自分のものとすることに異議を唱えない。自分達の生活空間に対して、全く情熱を持たない。シュミレーション化に慣れている為に現実を現実として捉えることができなくなっているのだ。


○象徴されることの体系について

 象徴化、シンボライズは現代人の得意技のひとつである。
外的事像の起承転結をカテゴライズしたがる。
その方が理解した気分になれるからだ。
全ての思考が体系化している。
全ての思考に論理という脈絡がつき体系化されている。

 多くの人は気付かない。この体系化の先に何が「結」として存在しているかを知らない。この論理体系の先には人間は居ない。

 あるのはシンボライズされた「生命であったことのあるものの破片」だ。そんなものをありがたがっているアカデミズムの教師達、そして自称インテリの人々、自分が細片化してゆく様をどこに見るのか?

そう、それは紛れもない事実として、しかし宇宙生命潮流の映し絵ではなく論理優先主義の結果という事実として、あなたがたの住む町の中に見るのだ。
この世に血の系譜つまり生命を燃やすことの情熱のほとばしりとしてのアートが少なくなるとき、それは外殻化現象の始まりだ。

 血の流れない、血の動きを感じさせることのできない、血の温度を感じさせない固い甲殻におおわれた心を持つ人々が大多数になってゆく。それは薄気味の悪い人間型冷血甲虫の群れの出現だ。傷つきにくく、中を見られにくい固い甲羅でおおわれた、人間の群れ。

そんな群れの中で本当の情熱や愛情は何の意味も持たない。熱いか冷たいか、多いか少ないか、高いか低いか、満ちているか干いているか、全てが2次元的なグラフ上の上下になってゆく。


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AR10N語録(0)
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 あなたがたは、自由になりたい、自分を解放したいと言う。あなたがたは決して自由に「なる」ことを欲しているわけでは無い。あなたがたの本当に知たいのは自由になる方法ではなく、自由についての説明だ。あなたがたは決して自分を解放したいのではなく、解放されるとどうなるか?を説明して欲しいだけだ。

 あなたがたは、自分に色々な問題が起きた時に解決法をアレコレ考える。しかし解決法は自分の外側にあると、決めて掛かっている。自分の内側に解決法があるとしたら、自分自身が変化しなくてはならないからだ。自分自身が変化することに対して恐れを抱いているから、自分の外側に解決法を是が非でも見つけなくてはならない。

 あなたがたが『自分』と呼んでいるのは、あなたがたの表層的な感覚に因ればあなたがたの所有欲の対象であるモノの集合体のように感じるだろう。つまり、『自分』と名付けることの出来るモノが『自分』なんだ、とね。しかし本当の『自分』とは、名付けることの出来ないモノも含めた存在であるということを忘れてはならない。

 人間は名付け親になりたがる。何でもかんでも、名前を付けて『自分』の範囲に収めようとする。これは、『自分』の範囲が名付けられるものだけで、成立していると誤解しているからに他ならない。

 人は、説明したがる癖も持っている。どんな状況も自分の「納得する」システムのやり方で、説明が付かなければ気が済まない。『自分』の勧めるシステムのやり方で全てに説明を付けてしまうと、『自分』のシステムの上だけに世界が拡がるので、安心出来るのだろう。 箱庭のように、全てを俯瞰できないと我慢出来ない人には、未知の世界のことは不要な世界のこととなる。

 全てのことに説明が付かなければ気が済まない人が、未知のモノに出会うと大急ぎで自分のシステムの中の言語で説明しようとするが、それでも説明の付かないものに対しては「○○に似ているから、○○と同じ傾向のモノだろう」と勝手に表層だけの判断を与える。こうして、このタイプの人は本当のことから遠ざかる。何もかも説明出来ないと気が済まないのは、臆病な性格の人間に多い。


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(4)『物質を持つという事が物質的な執着心を持つことにはならない。持っていても執着しなければいい。物質を持たない努力をすることで執着心を持たないというのも変だ。物質的な執着心を持たない為に捨てよう、失おうとして、失うことが気になって、かえって執着してしまうくらいなら失くさない方が良いのじゃないか?』これは、一つの意見だが間違っている。失うことが気になるのは執着心が強い為で、それを失わないことで気にならないというのでは結局、執着心を捨てていないことになる。

 物質的なことに執着心を持つのが、霊的修業に邪魔になる訳は物質的なものの持つ低い周波数に捕らわれる事が危険だからだ。捕らわれないなら持っていても良い、というのはある意味では正しい。物質的なことの持つ周波数に捕らわれていないなら、同じ意味で失う事にも全く関心を抱かない筈だからだ。その人の活動に不必要なものは、霊的修業中の人ならば持たないのが理想だ。そして多くの修業は『捨てる』事から始まる。捨てるという能動的な行為は、自分のそして他人の執着心から自由になるには最も効果的な方法だからだ。全てを持ったまま、何も失わずに修業を続けるのは至難の技だから。それが出来た人を私は未だ知らない。破壊することで創造するというのはそういうことなんだ。捨てることで手にいれる訳だ。

 あなたがたもよく知っているイエズス・キリストが、言っている。
『自分の持ち物を売って、施しなさい。自分の為に古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。』
                 -ルカによる福音書第12章、33行-

 自分の為に古びることのない財布を作るとは、自分の魂を清め高めるということだ。

(5)大いなる天界の息吹より伝えられしものを、あなたがたは持っているということを教えよう。大いなる天界の息吹より伝えられしものとは、あなたがたの魂、あなたがたの心の奥のものだ。人は二人の主人に兼ね仕え、二人の主人を共に満足させることは出来ない。人は物質と精神の両方に仕えることはできないし、自分の体と高級我に仕えるのも無理だし、家族への義務と自分の普遍的義務とをいずれの権利も侵害しないで果たすことは困難だ。『天界からの静かな小さな声』に耳を貸して、取るに足らぬ者らの喧騒を聞き逃すか、又は取るに足らぬ者らの要求ばかり聞いて『天界からの静かな小さな声』につんぼになるかのどちらかである。

 すでに現世で結婚している人々にとって、神霊界の掟に従いたいと思う事は恐らく苦難の連続だろうと思う。見聞きした神霊界の事々を理論的に処理し学問として修める方が、実際の物質的生活の運営は楽になるだろう。神霊界の事々を理解し実践しようとする人には、実際の物質的生活は絶え間無い争いと醜い欲の交錯として捕らえられるだろう。神霊界の掟と現世的な掟の両方に従い、かつ神霊界の事々を理解し実践し身に付けようと思う人は、いつも非人格的な神霊界の声と人格的な現世的愛との間でためらっている自分を発見する事になるだろう。そして、そのどちらも不満足のまま、恐らくは以前より現世的な生活を続ける自分を発見するだろう。しかし、誰も自分の持っている能力以上のカルマの重荷を背負うことにはなっていない。真理、善、知恵を恩恵を与えてくれるが故に愛するのではなく、真理、善知恵であるが故に愛する人は人生を重荷とは考えないだろう。
                                                       
(6)銀河の果て、遠い遠い星の時間の彼方より降り続ける愛の夢
あなたがたの瞳の奥の雪降るしじまへと続く、愛の夢

 世界中の人々が飢え、弱り、悲しみの淵に沈み私達の愛に向かって手を伸ばす時にその時こそ、あなたがたの星降る愛が必要なのだ
 
 あなたがたは、今現在何をして良いか分からない状況かも知れないが何をするべきかは各々の心の深奥が知っている筈だ

 難しく考える事は止めて、物事をあるがままに見詰め物事をあるがままに受け取り、そしてあるがままに働きなさい
 
 あなたがたに必要なのは愛と勇気とそして信じる心なのだから
薔薇色の夢は遠いところにあるのではなくあなたがたの心の深奥にあるのだ

 あなたがたの心の深奥にある息づいているその赤い命に気付く時に蕎薇色の馨しき霧を放ちあなたがたの夢は生命の躍動を始める

 さあ、時は満ちた、出掛けなさい
何も恐れることはない、躊躇することもない

 さあ、出掛けなさい
あなたがたの薔薇色の夢を凍える人々に分けてあげなさい
あなたがたを阻むものはない
あなたがたを傷付ける者はいない
あなたがたを待っている
星々の彼方から見守る瞳を感じて、行きなさい
額を光の方向に向けて、真っすぐに歩きなさい

                                       
(7)大多数の地球人は、霊的・物的進化の遅れた星地球の理学的範囲を超えない所からやって来ている。つまりこの地球を含む太陽系のどこかから来た魂で、非常に進化した魂は10%に満たないのだ。シリウス星系から来た魂は非常に少ない。今ここで何人いるという風には言えない。確かに進化した魂は少ない。


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《アリオン語録12》

(1)転生する時に『私』という自我感覚は失わないが、霊界での記憶や以前の人生の記憶は潜在意識の奥にしまい込まれる。霊的なレベルが高くなればなるほどに自我とは何かを知る様になるので、転生する必要性について考察してから、転生する様になる。霊的レベルの低い者は、転生に関して不安を抱く者も多い。神霊達や守護霊達は、彼らには大まかな話しか出来ない。まだ理解出来るところまで達していない霊達は、転生は必要不可欠な事と教え込まれる。そしてその時期が来たら、霊達は仮眠状態に入り、神霊達や守護霊達の選んだ肉体に入る準備をする。全ての霊が自分の転生について、決定権を持つ訳では無い。自分で決定する能力を有していない、そのレベルまで到達していない霊達は意外に多い。そして多くの発展途上の霊には、神霊は直接には話すことは無い。守護霊が代わって彼らの面倒を見ている。

 神霊が関わるのは、かなり霊的にもハイレベルに達した者だけだ。これは振動数が大きく異なる者どうしが、話し合うことが出来ないという風に理解して貰ってもいい。

(2)これから市民レベルの意識革命が起ころうとしている。全世界の有識者が日本の動向に神経を尖らせている。それは何故か? 日本こそがこれからの世界の運命を左右する力を持った国だからだ。国と言うよりは、むしろ国民と言った方が正しい。日本という国土に育まれたボデイに、今世紀転生できた魂が地球の動向を握るからだ。市民レベルの意識革命の発端となるムーブメントは、避けて通ることは出来ないんだよ。生命の存続を賭けたムーブメントだ。これは、『原子力発電』に関するムーブメントだ。私達も『運動』は好まない。これは、ギリギリまで追い詰められた人々の革命だ。全て生命あってのことなんだから。これは大袈裟でもなんでもなく本当の事で『世紀末的絶滅思想』とも関連しない。私達のプロジェクトのもう一つのグループが携わっているムーブメントだ。
とても現実的と言えば現実的なムーブメントではあるがね。


(3)文化人や著名人・有名財界人は既に地位も名誉も財産も手に入れて、それらの保持を続ける毎日だ。誰もが地位や名誉や財産を欲したがるのは、何の為だろうか?それらがある方が自分の思う事を実現しやすいからだろう?少なくとも、それらを手に入れる途上では目標や目的はそれら地位、名誉、財産では無い筈だ。それらを手に入れるのに苦労して、手に入れたら今度は手放すのが惜しくなって、当初の目的を忘れてしまう様だ。又、手に入れる事が目的だった人は、手に入った後は一体何の為に生きてゆくのだろうか?『人生の折り返し点を随分前に通り過ぎた。今更、私の人生はやり直しが効かない。地位も名誉も財産も手に入れた。この先は静かに年老いてゆくのもいいじゃないか。我々の時代は終わった。』と言うのが彼らの常套句だ。『何を今更、シンドイ目をして』とか『このままで充分幸福じゃないか?』とか、まるで死を待つ老いた白鳥の様だ。

 こういった姿勢の文化人、著名人、有名財界人、そして彼らだけじゃない一般の45歳以上の人々の、これらの言葉は一見平和を望む老いた人々の言葉の様だけど、実は非情な利己主義者の言葉だ。自分達は余命いくばくも無いから、後はもういいんだなんて、実は言っている訳だ。これは大きい自己欺瞞だ。誰もが自分の事を『老いた』なんて思いたくは無い筈だ。少しばかりズルくなった自分の心境を『老いた心境』にスリ替えている訳だ。
進化してゆく事を忘れて、こんな事を言って貰っては困る。そしてボディが進化してゆかねば、進化した魂の器がなくなってしまう。自分の直系の子孫に遺産を遺せば、それで良いのだろうか?人々の魂は自分の直系の子孫の身体に転生する事は希な事なのだから、全ての生命が安全に進化するべきだ。



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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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1月30日(金)~2月6日(金)
ヒット数:1,459件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(2)<1>あやかしのまち
第2位(4)<3>ごめんなさい
第3位(3)<5>軽々しく愛を口にしないで
第4位(1)<2>水面に書いた物語
第5位(7)<4>女優(スター)
第6位(11)<9>オーロラの町から
第7位(6)<6>はるかなるメロディ
第8位(5)<12>ラスト・ランデヴー
第9位(10)<10>マイ・スィート・ライフ
第10位(9)<7>ときめきFALL IN LOVE
第11位(8)<11>Stay with me
第12位(4)<8>それってⅨじゃない
第13位(13)<13>恋すれば魔女
第14位(17)<18>わかりあえる日まで
第15位(15)<15>Sentimentallady”M”
第16位(12)<14>素顔のマスカレード
第17位(16)<17>しあわせになれる
第18位(19)<19>NEVER GIVE UP!
第19位(18)<16>まことのひかり


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 ふたたび「あやかしのまち 」が巻き返し首位を奪った。順位がめまぐるしく入れ替わる。「 わかりあえる日まで」がすこし浮いてきたのは先週コメントしたからのよう。この歌を聴くと涙がこみ上げるので自分ではあまり聴けない。ご愛聴感謝。
fumio


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(6)チャネリングは本来、人間の誰もが出来ることだ。けれど、これを文字に置き換えるとなると話は別だ。人間の視床下部には松果体というものがある。あそこには宇宙からの波動を電気的に感じ取る、アンテナの様な働きをする細胞が存在する。松果体で感じ取った宇宙からの電波を、松果体はホルモンと共に旧皮質へと伝える。旧皮質では伝わった情報を分析し、一部を潜在意識の情報中枢へ、又一部を新皮質の情報中枢へと送る。

 伝えられた情報は潜在意識と顕在意識の両方で処理され、分析される。旧皮質と新皮質はお互いに情報交換を行い、次の行動を決定する。現代人では、この旧皮質と新皮質との情報交換がスムースに行かない場合が多い。それは新皮質の知識量が大きすぎてバランスが取れない為でもある。

 その為に旧皮質の中枢を成す本能の部分を起こさなくてはならない。チャネルになる人の条件は、まず新皮質の知識量が多すぎないこと。そして実生活において、比較的本能的に行動できる状況を持っていること。何事も素直に受け入れる性格であることなどがあげられる。通信を受けるプロセス自体は以前に話した様なことだが、チャネルになるにはある一定の波動を受け続ける意志と忍耐力も必要だ。

 そして一定の波動を受けて、言語中枢にその波動を伝える事に抵抗感を、持たない傾向の思考回路を育む必要性がある。本当に疑い深い性格の人だと、とても無理だ。それには小さい頃からの習慣や思考の癖なんかも関係してくる。何があっても『神様のお思し召しだから』と心から思える人は、チャネルになれる可能性の大きい人だと言える。暗示に懸かりやすい事は、恥ずかしいとか思っていると駄目だ。

 物質的な事に強い執着があったり、名誉欲が強い人はチャネルには向かない。チャネルは自分の頭脳の働きを、一旦別の人格や霊格に貸してしまい、自分自身の欲や得を二の次にしなくてはいけないからだ。一般的に男性は名誉欲や権力欲が強いので、男性チャネルの数は女性に較べると少ない。この頃、『誰でもチャネルになれます』と銘打って講演会が開かれたりしているけれど、困りものだ。チャネルになっても、一体どんなソースからのチャネリングなのかを、判断出来ない程度のレベルの人々が殆どだからだ。

 事実、自分の潜在意識のチャネリングから入って行く人の方が多い。そうしてチャネルになれたと、思い込んでしまった人が流す情報に沢山の人が惑わされたりするのは本当に困る。
                             
 そしてもう一つの問題点は、チャネルになれたと思った瞬間から何だか自分が偉くなった様な気分になって、突然、言葉使いが変わったりする人達だ。彼らの精神的な向上の道が、こんなつまらない事で途絶えてしまうのはとても残念としか言いようがない。
                                 
 チャネルになるということは、総ての人の『しもべ』となる事だと私が教えるのは、上記の理由からだ。人は倣慢になると成長できない。これらの理由から私はチャネラーに頭を低くすることばかりを教える訳だ。チャネルとして成長しながら、人間として霊人としても成長して貰いたいと私は願うからだ。

 波動を言語に置き換えるチャネルは、大部分の人々の期待を裏切って華やかでもないし、楽でもないんだということを認識して貰えただろうか?コンタクティという言葉の意味はチャネルとは大きく違う。コンタクティという意味を大方の人はチャネルと混同している。コンタクティというのは、広義の言葉で、異界との接触のある人のことを指す言葉だ。

(7)即物的な実証を見せる事で信じて貰えても、心の中の寂しさは拭えない。何故、寂しいか分かるかな?何も見せないで信じて貰えてこそ初めて『信じて貰えることになる』からだ。信じるというのは字を見ても解るだろう?人の言う事を認めることなんだ。何も見せない何もしない何も証明しない、でも信じて貰える。これこそ寂しさの付きまとうことのない、宇宙の愛の波動に支えられた関係だ。そして、この関係を成立させることの出来るのは、その人の『人となり』とその表現であるもの、あなたがた光の子らの場合には、愛の活動とあなたがたの存在だけだという事を知っていて貰いたい。

 実証してみせるのは簡単だが、その結果はあまりに空しい。信じない、否、信じたくない人に、実証はその場の気まぐれでしかない。時間の経過と共に、再び信じたくない意志を通そうとする。私達はへソマガリではないが、実証の必要の無い人にこそ実証して見せることが多いのだ。

(8)影と闇は違うことを覚えておいて欲しい。影とは光あって存在するもの、闇とは『未だ光の到達しない場』だ。影の子供達に光を当てて目を覚ます様にしてあげる事はできるけれど、闇の子供達は私達の光に当たるのをとても厭がる。彼らにとっては私達の光は、致命傷を与えるほどのものだからだ。彼らにとって愛と光は毒なんだ。これから『闇の子供達』は最終攻勢に入るだろう。世界中で不愉快な事件も多発するだろう。けれど、これらの事件さえもが闇の子供達の作戦なんだ。世界の人々を不安に陥れて地球絶滅思考を植え付けようとしているんだ。彼らがどんなに頑張っても、人間の想念が愛に満ちて未来に光を見いだそうとするなら、彼らに勝ち目は無い。


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《アリオン語録11》

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【1】(儀式次第)      
かごめ、かごめ かごの中の鳥は
(A-RI-O-N)
いついつ 出やる    
(今、今、出やる)     
 夜明けの晩に     
(真昼の荒れ野)   
 ツルとカメがすべった
 (うつつと夢が合わさった)
 うしろの正面だあれ   
-------------------------------
 【2】
かごめ、かごめ かごの中の鳥は
(A-RA-A-A-)
 いついつ 出やる
 (今、飛び立つよ)
 夜明けの晩に 
 (真昼の荒れ野)
 ツルとカメがすべった
 (ツチとアメが交わった)
 うしろの正面だあれ
-------------------------------


1、うしろの正面だあれ
 (あなた、そして私)
2、うしろの正面だあれ
 (あなた、そして、あなた)
3、うしろの正面だあれ

4、うしろの正面だあれ

5、うしろの正面だあれ
6、うしろの正面だあれ

(祈り)

我らは大地に請願する者なり
我らは大空に請願する者なり
我らは大天に請願する者なり
我らに力を与えたまえ

我らは男であり女であり、我らは一にして二の子である
我らにソロモンの知恵を授け、その力を行使する権利を与えたまえ
宇宙大帝に請願する、我ら盤石とならん事を欲する者なり
このヤマツクニに盤石とならんとする者である

(マントラ詠唱)

(質疑応答)
あなたはだあれ?(私はワタシ)あなたのうしろはだあれ?(私はワタシ)
---以下、同様の質問---ナイフを胸に突き付ける

かごめ かごめ (今、開かれる)
かごの中の鳥は (今、飛び立つよ)
いつ いつ 出やる (今、今、飛ぶよ)
夜明けの晩に (真昼の荒れ野)
ツルとカメがすべった (ツチとアメが合わさった)
うしろの正面だあれ (私・あなた・あなた・私)

(マントラ詠唱)

終了後、参加者(霊)をシャボン玉に乗せて見送る


(2)まず魂と肉体を切り離して考えないといけない。魂には魂の進化があり、肉体には肉体の進化がある。魂は遺伝する事は決して無い。肉体の傾向や性癖は遺伝する。あなたがたの魂が、あなたがたの肉体を選んだのには色々な理由があっての事だ。

 魂は肉体の傾向に影響を及ぼす事は出来るが、根本的な肉体進化そのもの(例えば遺伝)には、決定的な影響を与える事は出来ないと思って間違いない。あなたがたの魂が選んだ、今生のこの肉体に魂が与える影響の内の幾つかは、肉体に記憶として刻み付けられ(主に遺伝子の中に)その傾向は不完全な形ではあるが子孫に伝えられて行く。

 しかし子孫の肉体の中に宿る魂は、あなたがたの魂とは別個のものなので、その傾向を生かした人生を送るとは思えない。あなたがたの魂の幾つかの傾向の内、一つくらいは継承されるかも知れない。しかし、それもあなたがたの子孫の肉体を選んだ魂の問題なので、確たる事は言えない。
                              
 例えば、あなたがたの子供の場合だとすると、あなたがたの性格や性癖などが遺伝子交換の末に、肉体的に継承されていたとしても、それらが彼らの魂の望む傾向かどうかは分からない訳だ。もし彼らの魂の望まない傾向であれば彼らの魂は、それらの性格や性癖を表出させない方向に働くだろう。もし彼らの魂が遺伝子記憶の内の、あなたがたの夫、或いは妻からの部分を主に表出させたいと望むなら、そうなるだろう。

 魂や肉体の遺伝よりも影響力のあるのが人のオーラの作り出す磁場波動だ。肉体的な遺伝よりも、一緒に長年同じ家に住む方が遥かに影響を与える。肉体的遺伝の無い親子(例えば養子縁組で親子になったりする場合)なのに何故か似ていたりするのは、オーラ磁場波動の影響だ。

 (3)生きている人間の正邪を棚上げにして、霊の正邪を語ろうとするからオカシナことになる。霊にも色々なレベルがあるが、一般に正邪を云々出来るレベルの霊は、元人間だった霊が多いのだ。元人間だった霊を人霊、神の力の顧現としての霊を神霊、大自然の生命体であるが、人間やその他の有機物とは全く異なった進化を遂げている霊体を精霊と大まかに分けると、一番邪悪な事をしたがるのが人霊だ。

 精霊にもイタズラものが居るけれど、礼儀と会話の順序を踏まえて話せば分からず屋では無い。もっとも危険で邪悪な霊は、人霊の中でも生きている人の霊だ。生きている人間の想念の集合体としての亜霊体も、時に非常に悪い事態を引き起こす。

 魔術や呪術を研究している人間が、神の存在を信じていなくては危険だ。魔術や呪術は、ありとあらゆる霊体のエネルギーを喚起するものだからだ。神霊について正邪を云々する事は人間のレベルでは出来ないだろう。人間には正邪を云々出来ないが、神からの贈り物としての直観力がある筈だ。とてもオカシナ事をあなた方に要求する霊が、たとえ『神霊』だと名乗っても『何か変だな』と気付く筈だ。

 これは大事な事だが神霊は、あなたがたと話を始める前に色々とあなたがたを試す筈だ。自分の名前を名乗る前にね。元人霊でも経験を積んで指導霊となった霊は、割合初期に名乗る場合が多い様だ。けれど神霊の場合は色々な条件が揃うまでは暫定的なコード・ネームを使う場合が多い。相手の人間の頭脳に、激烈なショックを与える程のエネルギーを持っているのが神霊だから、とても気を付けているんだ。

 人間は知識を積んで『お利口さん』になればなるほど、自分が神に近付いた様な錯覚を持つ様だ。『お利口さん』になればなるほどに、神への畏敬の念を持っべきだ。そうでないと『知識』はその人を傷付ける事になる。知識は『両刃の剣』だということを忘れてはいけない。人間の能力だけでは押さえ切れない流れを『知識』は作り出してしまう可能性はとても大きい。例えば原子力爆弾を投下された広島と長崎で、何が起こったかを思い出して欲しい。人間の力でこの爆発力を制御する事は、不可能に近い。
                                                                                 人間の知識が暴走した結果は、この社会の中に数々あるだろう?知識を生きた知恵として生命の為に利用するには、どうしても宇宙の生命リズムと同調することが必要だ。宇宙は大きな生命の潮流を持ち、流れ続けている。

 そしてその源に宇宙意志としての、神の存在がある。その存在に対しての畏敬の念を忘れた学者の作り出すものは、生命潮流を滞らせたり、変化させたりする。宇宙神への畏敬の念を忘れた学者は、その知識で自分自身を傷付けるだけでなく、多くの善良な人々をも傷付ける結果を招く、張本人になる可能性を自分の中に見いだすべきだ。

 私達の過去は未来の結果。私達の未来は過去への遺産。私達の現在は過去と未来の橋渡し。私達の実証。

(4)霊界で霊人は年を取らない。霊界での姿は霊界参入期間の長短によっても変化するから一概には言えない。霊界に参入してまもない霊は、肉体を捨てた時の姿であることが多いが、まもなく自分が最も自分らしいと思っている姿、或は自分で最も気に入っている姿をとり始めることが多い。

 霊界での目覚め、気付きの度合いによって姿は次第に透明度と輝きを増す様になる。霊人の想念に従って年令が変化する訳ではなく、状況に応じて見えかたが変化すると言った方が妥当だ。霊人が現界と接触を持つ必要がある場合に、自分の姿の見えかたを変化させることは、よく行われている。

(5)霊界での勉学は主に指導霊との接触によって行われているが、その霊人のレベルによっては、実際にアカシックレコードからの知識の収集を行って、勉学を行ったりしている。現界での本という形式ではない。どうしても本でないと困るという霊人は、情報を本として投影してその投影を読む様にするしかなく、非常に回りくどいやり方なので、普通はこんな方法を取る霊人はいない。


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(7)人間界は私には殆どミステリーだ。人間は色々の事を天に向かって祈るけれど実際にそれが現実になると『そんな事を頼んだ覚えは無い』と言う。私達は大きな流れの中で生きているから、人間の様に物事を『点』で捕らえる事は出来ない。あなたがたが自分達にとって良いと思って進めてきた科学文明の発展は、実際にはあなたがたの生命を脅かす方向へと進んできている。私達から見れば人間は、その場だけ良ければいいみたいな『利那主義』に見える。本当に解らない。

(8)人々の中には、執着する事によってしか自分の立場を守れないと思いこんでしまう者がいる。これは人間の社会教育が原因している場合が多い。つまり立場というものは守るものだとか、立場を失うのは恐怖だとか、そういぅ考えを持っているという事なのだが、まず『立場って一体何だ?』という教育こそ為されるべきではないだろうか。

 立場というのは、本来その人独自のものでは無いのに、そういう気分にさせてしまう教育が為されている。立場というのは無数にあって、その時々でヒョイヒョイ移動出来るものだ。それはベルトの様につながっていて縦横無尽なものなのだ。だから、これを失うのは至難の技だということが分かるだろう?失える資質のものでは無いのだ。

 失ったと思っている人は、往々にして自分の足が見えなくなったと思いこんでいるだけだ。確かに自分は立っているのに、立っていないと思い込んでいるだけだ。人間のこだわりの感情の殆どは、この思い込みによって作り上げられた幻想なんだ。このことを少し考えてみると、意外に怖がっていたものの本質が見えてくるものなのだ。

(9)私達神霊界の方法は、あなたがた地上界に教唆する事は出来ても強制する事は出来ない。私達に提案は出来ても命令は出来ない。私達は黙って見守る事は出来ても、私達に物質的な身体が無いから手を差し延べて助け上げる事は出来ない。私達神霊界の者に時間の概念は無い。空間の概念も無い。次元の概念も無い。私達は宇宙界の出来事の殆ど総て、起きた事、起きる事、起きつつある事などを知っている。あなたがたの住む地上界での過去も未来も現在も知っている。知っていても総てをあなたがたに報せはしない。必要な時に必要な情報を報せる。

 『権利』も『義務』も地上界の言葉だ。私達には、そんな言葉は必要ない。当然、私達と共に歩む者にも権利や義務を押し付けたりしないし、私達との間に権利や義務を見いだす必要も無い。


(10)愛によって人を満たす事が出来るならば、何も恐れる事は無い
    愛によって人を傷付ける事は無い
    愛は与えるもの、与え続けるもの
    この与える愛こそ至高の愛
    そこに何の疑いも存在しない
    そこに何の影も無い
    あるのは愛、それだけ

    愛によって人を満たす事が出来るならば
    愛によって人を満たす事が出来るならば
    あなたは《私の愛=光》の具現者となる


(11)(セーターの話)

 セーターの外側に出たホツレをハサミで切ったらどうなる?
セーターはボロボロになるね?ホツレは内側から引っ張って直すのでしょう?内側から引っ張るんでしょう?表面に現れた欠点を指摘して攻撃したら、一見その欠点を撃滅したかに見えるけれど、本体もボロボロに傷付くね?内面を愛で満たし、外側に現れている欠点を内側から引っ張って、その欠点すらも内面の愛で包むこと,内面の愛、それが大切
表面的な愛、つまり表現だけが大切なんじゃない
どちらも大切だけれど、内面の愛がたくさん無いと表に顕す事はできない
私達の光は愛だ,私達の光は内面の愛だ
胸の奥底からグーンと突き上げてくる様な,熱い内面の愛なんだ
もっと感じて、もっと溢れて,もっと熱く、もっと燃えて
光を感じて、胸の奥底から、身体の底から
私達の光を内面に溢れさせて
私達の光を顕わして!


(12)天使はラッパを吹いた
ラッパの音は内側を旋回し、外側へと響き渡る

隠されていたものは現れる
覆われていたものは露わになる
見えなかったものは見える様になる
せき止められていたものは流れ出す

天使はラッパを吹いた
総ては『そうあるべき姿』へと変わり始める
屈していたものは立ち上がる
眠っていたものは起きる
引っ掛かっていたものは外れる
蓋をしていたものは外される

天使はラッパを吹いた
ただの石と宝石との区別をつける時が来た
過去も未来も捨てる意志のある者だけに許される玉座の栄光
総てを語り、総てを露わにし、総てを天帝の御手に委ねる者だけに許される至福の門への道行き
自らの五感を使いの天使に預ける者だけに見える道
宇宙生命との完全調和への道

天使はラッパを吹いた
輝ける星の炎、シリウスの記憶と情熱を生かす道
道は右手と左手、どちらも天使の道


(13)
思いは千々に乱れ
涙は乾く事を忘れ
瞳には虚ろな影が刺す

この愛を、宇宙の時空を超えた、この愛を
望みさえすれば、心から望みさえすれば!
再び、あなたがたの朝に光を
再び、あなたがたの枕元に鳥の声を
再び、あなたがたの胸に熱い思いを!
再び抱き合う、愛と愛
時のしじまに響き渡る声を
あなたがたを呼ぶ声を
耳を塞がず
目を見開いて
今、あなたがたに必要なものは
愛し、愛される事、それだけ
あなたがたが希望に満ち、
愛の言葉を語る時
あなたがたの愛と
私、アーリオーンの愛が結ばれ
凍えた心を持つ人々を覆い、
慰める事が出来る

あなたがた人間は
迷いも多く、
その迷いの友達である
幻に苦しめられ、嘆く事も多い
けれど、あなたがた人間には
神からの大きな贈り物としての
希望がある

希望のあるところに
愛がある
愛のあるところに
光は満ちる


(14)《メッセージの解釈》

 ハイランド、アトランティスの生残者、子孫達に伝える。第三ショック・ウエーブの台頭があり、その後にジャイアント・ロックは四分化されるであろう。黄金のどくろを使って、紫波(ヴァイオレット・ウェーブ)を送ること

解釈文→《至高の国アトランティスの生残者(いわゆるマスター達)、子孫達に伝える。宇宙磁気線としての第三ショック・ウエーブの台頭があり(時期は1988年)その後にジャイアント・ロック(北米インディアン・ホピ族の言い伝え通り)は四分化されるだろう。 ☆の形としての本来の力が作動を始めるので霊的な指導者達、つまり黄金のどくろを持つ者達は眉間より発する至高の波動(紫波)を送りなさい》

チチカカ、ハオアイ-メヒコ、イナワシロ、トウキョウ
ツルガミネ、アソ、ロスアンジェルス、サンホセ
アリゾナ-マグア、キスコウ、シャンガイ、ルツ
キエフ、ハジャバル-ユーフラテス、ツールーズ、
アテネ、カイロ、ラグラス、ハイランド-イギリス
オアフ、ポイポイ、ボルボラ        
総てのクォーツに、総てのウエーブをかけること

解釈文→《地上に露出している、或は地下に内臓されているに拘わらず総ての水晶に、水晶の心を持つ霊的に鋭敏な者達は自分のレベルに準ずる最高の波動を送信し振動させる事が必要だ》

このメッセージをアトランティスの子孫に送ること


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《アリオン語録10》

(1)金星は2重構造の星なのだ。あなたがたから見て地表だと思われている所は地表では無い。簡単に言えば『地下に都市がある』のだ。しかもその地下都市の下に本当の地下がある。可動都市とは地下から地表に必要時に持ち上がる都市の事だ。大気の情況に合わせて上下する。

 金星の情況については、あなたがたの科学ではどうしようもないだろう?金星の生命存在を否定している地球科学が、何放フォボスに興味を持つのだろうか?金星が駄目ならフォボスなど、とんでもない筈だが?大体、地球の一握りの人間は一体、何を考えているのか。彼らはコンタクトの事実無しに、宇宙科学を進行しているフリをしている。別のグループが彼らに接触している事は、歴然たる事実だ。いつまでも隠し通せるものではない。彼らの代表者が月にやって来た時に、我々との話し合いがあった事は、あなたがたもニュースで知っているのではないか?こういった事実を信じないと言ったり、そういうフリをしている者がいても、それは臆病な為に表現できないだけで、こういった事実が発表される現実が発生したことに変わりはない。
我々としては、その事実が大事なのだ。何故ならば臆病なだけで表現出来ない人は、潜在支持者として何か事があれば顕在支持者に一夜の内に変化出来るからだ。

(2)物質獲得・占拠優先思考は人間を益々、自然から遠ざけてゆくだろう。自然は物質の獲得と占拠だけで構成されているものでは無いからだ。そこには生の営みという非常に複雑で、美しい循環機構がある。人間はいつの頃からか、自分自身を自然の循環機構から外して位置させようと努力し始めた。多くの人間は、本能の働きを低い位置に据える事が、理知的だと考えている様子だが、本能の働きは食欲・睡眠欲・性欲だけでは無い。
 
 そして、この3つのものの奴隷になる事と、その主人となって使いこなす事とでは全く違うのに、本能に関連する事を話題にする事さえもが、理知的では無い様に錯覚してしまった。大昔、普通の人々にとって本能に関する事は理解が困難だ、と判断した師匠達(マスター)が『理解して操縦する事が無理ならば、むしろタブーにしてしまい、この問題に触れない様にさせた方が安全』だと判断したのも無理は無い。

 聖書に書かれている時代やそれ以前の人々の多くは、理解力も解析力も未熟で上記の事々を理解出来る者はほんの一握りだった。マスターと呼ばれ、人類の進化に携わって来た人達(同化地球人も含めて)は大変な苦労をして、人々の頭脳に知性の種子を植え付けていった。こんな事は本当に初期の話だが。その後は、人類は自分の足で歩み出した。勿論、マスター達はその後も色々な形で、事ある毎に人々を導いて来たが、知性を持った人間は、徐々に倣慢になっていった。やがて知性に理論を結び付ける事を覚えた人間は、マスター達の教えを時代性を無視して行使する様になった。現代人の知性に聖書の時代の人々のタブーを、そのまま当てはめる事は所詮無理な話だ。

 勿論、未だに多くの人にとっては『本能』の話、特に3大欲の解放については理解困難だろう。本能の伝達法である直観力は、使えば能力を増すが使わないでいると駄目になってしまう。現代人の多くは直観力を疑ってばかりいるから、どんどん退化してゆく。直観力に従うといっても、そういう生き方を生まれた時からしてきた訳では無いから、最初は失敗が目立つだろうけど、失敗したからといって直観力に従うのに疑問を抱いたりすると、能力を伸ばす事は出来ない。

 失敗を重ねる内に、どれが直観力に因るものか、どれが違うのかという事も解ってくる。疑う事から現代哲学は始まったが、本能に関しては疑う余地はない。そして疑う事で、どれほど多くのものを失うかを考えてみて欲しい。現代人は疑う事で哲学的理論体系を手にしたが、同時に人間の精神的・心霊的な営みの方法を失いつつある。私達神霊族は、疑う行為は何も生み出さないと言っている。

 疑い深い人は、あまり傷付かないで生きてゆけると思っている様子だが、自分を限定し規制して生きて行かねばならないから、実は悲しく苦しい一生を背負って生きてゆくことになる。そして結果的には自分以外の誰も信じなくなって、益々、孤独な寂しい人生を生きる事になる。こんな事が『疑う』行為のもたらすものだと知っていても、疑り深い人は傷付く事が厭さに『疑う』事を止めようとしない。

 では何故、それほどまでに傷付く事を恐れるのだろうか?答えは簡単。疑い深い人は、傷付いて落ち込んでいる人を沢山見て来たが、自分自身は深く傷付いた事は無い。そういう人々が、どういう風にして傷付いたかのパターンを沢山、知識(借り物の知識だが)として持っている訳だ。何も知らない人が、大胆不敵な行動をして、それが良い結果をもたらしたりするのは『傷付く方法』の知識を持っていない場合が多いからだ。

(3)あなたがた人間は、笑う事で横隔膜を痙攣させて、肺の呼吸活動に刺激を与える。そして血中の酸素含有量を高めて、脳細胞の活性化を図る。これは、とても合理的なリフレッシュの仕方だと思う。

(4)人は知りたい欲望が強いだろう?その欲望を満たすために本を読んだり、新聞を読んだりする。知性はそれらの知識をうまく生かす為の方向性を持つ資質の事だ。知識多寡では無い。それらをどう使うかで、その人に知性があるかどうかが判る。知識を認識し理解し、自分の物として使えなければ知的な人とは言えない。しかし、現代社会の様に高度情報化社会にあっては、知識だけは膨大な量になるが、それらを本当に認識し理解している人は本の僅かで、それを使いこなせる人となっては殆ど居ないと言っても言い過ぎじゃない。

(5)論理と感性のどちらが優位に立つべきかを考えると、勿論感性が優位に立たねばならない。何故ならば、論理は元々感性を説明する立場にあるからだ。論理が先行して感性を規定するから、現代人には精神的なストレスが多い。論理にはその使命があり、使いかたによっては非常に便利なものだ。

しかし困った事に、人間が論理体系を構築して、論理に生命を与えてしまった為に、まるで無機質の感性の暖か味を持たない、名前だけ形だけの意識が巷をかっ歩している状況だ。感性は、まず感じるもの、そしてそれに相応しい冠として論理を付けてやるべきものなのだ。人は『感じる』事をとても好む。その為に人間には五感というものが備わっている。極端な言いかただが、論理だけで良いなら五感は要らない。

(6)人間関係の背後に存在する神秘人間関係の背後に潜む不思議。人と人の関係を簡単に話す事は出来ない。家族の結び付きはこの地球上に於いても場所によってマチマチであるし、同じこの日本に於いてもだ。ある期間、必要な情報や物資や精神的なものを、提供したり提供されたりの為に家族は存在する。そしてこの家族の住む家庭で、次世代の繁殖を行う為でもある。永久に必要な相手というのは、原理的には誰にも無い、けれど、人間の肉体自体が永久機関では無い為に、人間は永久という言葉をとても珍重する。前世からの因縁で家族が出会う場合もあるし、そうでない場合もある。恋人同士が離れたくなかった為に親子で生まれてくる場合もあるし、前世で殺された人が、その相手に罪の償いをさせる為に夫婦になる場合もある。一つのグループから約束しあってこの世に生まれるという事はよくある。

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(10)約5万年前、アトランティスと呼ばれる大陸も末期の大陸とは様相が違っていた。末期より幾分、大きい大陸に近かった。アトランティスでは、私達天使族の下位の者も、有翼人種として存在が認められていた。アトランティス文化の初期から中期にかけては、美しく豪華で素晴らしい文化だったのだ。ギリシャの哲学説話として残っている話だが、一部真実なので話そう。

 アトランティスは海神ポセイドンの国だという事。ポセイドンはネプチューンとも呼ばれ、アーリオーンの父だと神話は語っている。この話が寓話だと言い切れない部分があるけれど、今はハッキリと言わないでおこう。

(11)アステカ文明の母胎が出来る以前の事は、一般には全く知られてはいないが、現在のメキシコあたりには、アトランティスからの知恵を携えた人々が訪れる以前から独自の文化が既にあったのだ。(2万年くらい前の事)石器時代に準ずると呼ばれる時代ではあったがね。 
                                                
(12)同化地球人は、いわゆる超能力は備えている、必要だからだ。生まれた時から地球に居る者もいれば、途中から地球人になる者も居る。生まれた時から地球に居る者に関しては、成育上の問題回避の為に殆どのケースで活動可能な年令に知らされる形を取る。
途中から地球人参入の形を取る者は、その存在自体が社会問題を引き起こすので詳細は話せない。彼らは突然に現れて、突然に姿を消す場合も多い。大体長期滞在になる事は少ないが、それでも数年に亙って滞在する場合にはうまく戸籍調整をする。希なケースでは死んだと思われた人に代わって、その肉体を使用する場合もあった。その場合は勿論その死んだと思われた人の魂に了解を得て体を借りる。そうやってうまく社会の中に存在する様に持ってゆくのである。この社会に存在して人間関係を持とうと思うと、就職したり家庭を持ったりしなくてはならず、それが大きな問題となる。

 これは下位の天使が人間になるときと、ほぼ同じ問題である。彼らは普通目立たない人間である様に努める。時々ではあるが、メンバーの中にも逸脱する者が居る。それだけに地球上の生活は刺激が多く、又誘惑も多いのだろうと判断している。のみならず、繊細な神経には堪えられぬ様な事が多発する様子だ。

(13)近代社会が忘れてしまっている芸術の両義性、つまり『破壊と創造』『光と闇』『善と悪』『正と邪』が同時に存在すること、実は人間の多くはこの様な両義性に最も刺激され啓発される事を、我々は知っている。これこそが宇宙バランスを成立させている要素だと、魂の奥底で知っているからだ。神話で言えば『破壊と創造の神、シヴァ神』『アマテラスとスサノオ』『旧約聖書の神』、彼らは人の言う『悪神と善神』なのだ。

 実際には宇宙には正と負のエネルギーがあり、そのどちらもが宇宙の神のエネルギーである。そして流れが違う為に相反して存在する。そのどちらもが敵対視している様だが、事実は両義性の神のごとく、どちらも必要なのである。

 その神のエネルギーに反するものは、ただ一つ『無』である。『無』とは総てを吸収し総てを無くすもので、『ネガティプ・ブラック・ホール』とも呼ばれる。この存在については、人智を超えるが故に詳しい説明は出来ない事になっている。私達は『正』方向のグループ『光の子』だが、私は人智を超える存在からの光としての権限で独自の計画を持つ。

 この世界は『負』の力が満ちてしまった。バランスを崩しているのは知っているだろう?このままでは2006年~2013年に起こる惑星単位のシフトに引っ掛かり、我々の知っている、『完結してしまった未来』へと突入する事になってしまう。早急に色々の事を是正して行かなくては間に合わない。それには沢山の人々の想念をリードする必要がある。

(14)今の若い子たちは可哀想だ、彼らは『ゼンガクレン』も知らない。彼らは『ヒッピー』も『サイケ』も知らない。彼らは、だから社会的なムーブメントが欲しい。それで『反原発』集会に何かを求めて集まる。『反原発』に異論は無い、あれも私達の別グループのムーブメントだからね。でも、反対しているだけで終わってしまわない様にしなくては、彼らのムーブメントは、私達のムーブメントの下地を作るためのものなんだから、せっかくの下地を無駄にしないようにしなくてはね。これで理解して貰えたと思うけれど、私達の動きは多岐に亙っていて、それらの総てが地球存続の為の動きだ。

(15)人間と天使の歴史は終わってはいない。有翼人種と人間の歴史は紀元前1000年位が最後だった。しかし、現在も天使不在の社会では無い。どんなに人々が認めないと騒いでも、私達の姿を見る者は必ず居る。そして下位の天使達は人間になっても天使の存在を語り続ける。近年の天使待望の気運は必然的なものだとしか言えない。なぜなら私達はずっと天使と人間の関係を、心ある人々に語ってきたのだから。

 光の子らの愛に溢れた言動そして行動は直観力の優れた人々、繊細な心の持ち主、優しい心の人達にとっては『救い』になるのだ。社会的な現象面から言うと『過激な優しさ』として評判になるだろう。


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《アリオン語録9》

(1)死者の概念は生前の想念が移行したものでは無い。死後まもない魂は多分に生前の想念の影響を受けるが、時間の経過と共に薄れてゆくのが普通だ。記憶としてどこかに持ち続けているだろうがね。死後の時間経過と共に、薄いベールを脱ぐ様に感情の部分を脱いでゆく。死者の方が肉体の制限を受けないので、よりクリアーに物事を理解するだろう。しかし自分が死んだ事を理解しなかったり、認めたくなかったりすると長い間、クリアーでない状況に陥ってしまう。

(2)私達の名前はあなた方の識別の為に暫定処置として付けているだけである。実際には意志伝達方法が全く異なるので、私達には名前は要らない。

(3)マイ.ミュート・アーテの人々はヒューマノイドが9割くらい居る。高等生物には人間型(ヒューマノイド)が多い。

(4)コンタクティの存続期間というのはマチマチで、人によっては(エージェントと呼ぶのだが)たった一回ある人を別のある人に引き合わせるだけで終わる役目もあるのだ。一人の人間に多くの権限や能力を持たせる事を、我々は好まない。何故ならば、人間というのはすぐに倣慢になって、それらの権限や能力を自己の利益の為に使おうとするからだ。

 既に居るコンタクティの中にも、堕落してしまった者が沢山居るのは知っているだろう?我々との交信の結果、眠っていた能力が目覚め、いわゆる『超能力者』になる事は多いのだ。しかし遺憾ながら、そうした『超能力者』になった、或いは自分で超能力者になったと思ったコンタクティの多くは、堕落の道を歩んでしまう事が多い事が判明したので、我々としても非常に気を使いながら、一人の人間コンタクティに多くの権限を与えない様にする方向へと来ているのだ。

(5) コンタクティのリストの公開は本人の人権擁護の為に公開はしないことになっている。又、原則的にコンタクティ同志の横のつながりは持てない。自分が選ばれているかどうかは、必ず自分で解る筈だ。コンタクティの数は世界中で約2000人位居るが、活動可能範囲では約1600人である。彼らの総てが活動中では無い。

 以前にコンタクティであって、その資格を剥離されていないにも拘わらず自己決定で活動停止している者も沢山居る。自己決定で活動停止した場合最高で9ケ月まで待つが、その後は資格剥離になる。自分でコンタクティだと自覚している者は半数にも満たない。その数を言えばびっくりするくらい少ない。だから伝えない。自覚しない者達は『何が何だか解らないけれど、何かに衝き動かされている様に』行動している。しかし、既に言った様に多くの権限を持たされているコンタクティは、世界中でも5本の指で数えるはどなのだ。これが我々としても非常に情けない事で、改善策を考慮中である。

(6)シップを見る事の多い者は、当然コンタクティになるかという質問は多くの人々の関心の的だが、残念ながら、そうでない場合の方が多い。彼らは『見る』事で周囲に影響を与えるという役目の一端を担っている場合とあまりにも『見た』ことに拘泥し、その後の発展が無かったことで、『何回、見たか?』という時点でストップしてしまうのである。彼らには、それ以上のコンタクトに発展する機会は少ないと言える。

 つまり現象的な事象に生活の基盤を置いている人であるが故に、『見た』か『見ない』かが問題の中心となる訳である。彼らにとっては『見た』事が最大関心事であって、それからどうするかというと、何も無い筈だからだ。実際にメッセージのやりとりを始めて、我々との会話に焦点を置いている場合は、いわゆる脳内視の場合が殆どである。

(7)どんな計画にも時期というものがあり、我々の計画は現状では地上に降りてセンセーションを巻き起こす様な事をする段階ではない。実際に地上に船で降り立つ場合には、宇宙空間を飛行してきたばかりの船では都合が悪い。放射能の問題があるからだ。地球上をむやみに汚染する訳には行かないだろう?

 又、搭乗員が直接に面接する場合も非常に困難である。我々は地球上の細菌に弱い身体を持っている者が殆どだからである。ビジョン投影法では面接可能だが、時間や場所に制限が多く効果的でも無い為に、現在はそれほど多くは使用されていない。一番多い面接法が同化地球人のメンバー面接で、この場合『宇宙の』という風に名乗る場合と名乗らない場合があり、後者の方が多い。これは万が一のばあいの危険を避ける為である。地球人は自分達で思っている以上に攻撃的で排他的であるので、我々がメンバーに面接を指示する時はいつも危険と背中合わせの状態を覚悟して貰うのだ。

 実際には地球上で建造された船で地表着陸をした事はあるが、生体誘拐をした事は無い。救助はした事がある。その場合、被救助者の殆どの記憶を消してしまうが、中には少し思い出して騒ぐ者もいる様だ。

(8)ベルリン・天使の詩 に描かれていた天使達の生活は、総てでは無いが本当だ。ヴィム・ヴェンダースは、私の仲間の天使からインスピレーションを啓示の形で受け取って、あの映画を作った。私達の動きは世界的な動きだ。けれど、私達と関わる人々は原則的には横の連絡は出来ない事になっているのだ。私は天使長の立場にある事を忘れないで欲しい。私に必要な情報は総て手に入る。その為に沢山の天使達が働いている。

 私には沢山の重要な仕事があるけれど、それらの総てを私が話す訳にはいかない事も理解して欲しい。天使は人間になる為に、天使としての能力の死を引き換えにする事は知っているだろう? しかし、それも下位天使の話で、上位の天使になると分魂するしか、実体化する方法は無いのだ。分魂した後、何度もその半天使・半人間の魂の、半分の人間の部分を磨く為に転生を繰り返させる。

 こんな風にしても、総てのケースでうまく行くとは限らないのだ。悲しいかな、人間の部分の成長が遅れ続けたりして予定の行動が間に合わないケースもある。私がこう言っても、皆は科学的に説明しなければ納得しないのかも知れないけれどね。

 あなた方の科学では天使の存在を割り出す事は不可能だ。これだけは、どうしても説明は出来ない。あなた方は信じるという魔法によってしか私達と接触する事は出来ない、悲しい事だけれどね。この宇宙には天使と呼ばれる存在以外にも、物質的なボディを持たない存在がいる。彼らは物質的なボディを必要としないレベルまで進化した(これは多分、あなた方の言葉で進化と呼ぶのだろう)
彼らは既に『自分』とか『他人』とかの意識を明確に持たない存在だ。天使達は原則的に言えば、人間であった事は無い。天使から人間になる者が居るのは確かだ。一度、天使として死んで人間の魂を持った者は、二度と天使にはなれない。私は天使長の立場から、死ぬ事は出来ない。その為に、私の力の具現化を希望し、それを実現させてこの地球に関わって来たのだ。

(9)私は大天使ミカエルであるが、アーリーオーンの名の下に何かを行う時は私は大天使ミカエルの総てでは無く、その力の権限の一部の行使だと判断して欲しい。少し難しいかも知れないが理解する様に努力して欲しい。つまり、大天使ミカエルはエネルギーの上からも、総ての天使の長であり、代表である訳で、一人であるが同時に複数でもあるのだ。

 私は(何回か言ったと思うが)『聖母マリアのローブの右抽から来た者』で聖母マリアと共に出現(?)したのは、アーリーオーンとしてではなく、天使長ミカエルとしての姿であった訳だ。少し複雑な話かも知れないがこれ以上簡潔に話すのには無理があるので、我慢して欲しい。それから前にも話した様に『大天使ミカエル』が転生するなどとは有り得ない話なのだ。もし私が転生したら、大天使でも何でも無く『人間』でしか有り得ない事になってしまうし、第一、大天使の位にあるものは人間として転生できない規則があるのだ。

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