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monologue
夜明けに向けて
 



《アリオン語録》

 尊敬するということと、尊敬できるということとは全く違う。尊敬するというのは、対象の持つ能力や性格などに対して素直に擾等を認める言葉である。尊敬できるというのは、対象の持つ能力や性格に対して高飛車になっている。尊敬できると言う人は、本当は自分が一番だという意識が見え隠れしている。同じ尊敬という言葉があっても、その後に付加される言葉によって、その言葉を発する人間の品性をうかがうことができる。

 『…する』と『できる』には大きな隔たりがある。こんなことは説明するまでもないだろうが、『する』は実行すること。『できる』は実行する段になった時に、実行可能だという意味合いで使われる場合が多い。しかし『できる』は実行することではない。あなたがたは、どうだろうか?言葉の端々に『できる』がチラチラしていないか?『できる』と言うより『する』 と言う人間を信じなさい。そして、あなたがたも『する』と言う人間になりなさい。

 自分が一番興味を持っていることを、他人に報せることや自分自身の姿を他人に報せること、それが自己表現であった。現実には、こういった自己表現は少なくなって来ている。つまり、他人を対象としなくなったのである。では一体、何を対象としてしているのだろうか?自分を対象としての自己表現になってしまっているのだ。自分に自分を報せる、自己表現の対象が自分である、それは鏡の前での独り芝居。大勢の独り芝居の主役たちが、それぞれに何の関係も持たずに生きようとしている。自分が主役であり、自分がたった一人の観客である、この芝居には虚しい拍手の音が聞こえる。何をやっても全て自己満足でしかない世界。何故、他人に対して自己表現をしなくなったのだろうか?

 自立しない人が増えてきた。自立しない人間には自由は遠い夢だ。自分で立つ為に、人間は約1才前後くらいの時に何度も何度も転びながら努力する。何度も頭を打ち、何度も泣きながら、それでも幼い人間は努力する。そう、自分で立つために。ところが、一旦立った人間が精神的には立とうとしないのは何故なのか?精神的に自立する為に必要なものは、何なのだろうか?自分自身に対する周囲の期待は、じつは自分自身が長年培ってきたものであるということを、ここで言っておきたい。自分自身こそが全ての価値判断の要となっているということを知らなければならない。周囲が期待したり希望したりしていると理解するのは、実はあなた自身なのだから。

 自分の心の在り処が分かっている人には、周囲の期待も希望も価値を持たない。自分の心の在り処とは、自分の心のありのままを見ることが出来る…言い換えれば自分の心のありのままを、今ここでテーブルの上に拡げることの出来る人なのだ。ありのままを見つめることの出来る人は、逃げも隠れもしない自分を見ることの出来る人で、そういった人は誰に対しても自分のままで付き合えるし、誰に対しても何も隠す必要はない。自分のありのままを見る事のできる人は、従って嘘をつく必要もない。誰の前でも自分自身をテーブルの上に、拡げて見せることのできる人は自分自身という枠組みを他人の前に拡げてみせることの出来る人だ。テーブルの上に拡げることで、客観的に見ることもできる。自分のこころに響く相手を見つけるのに、これほど簡単な方法は無いと言える。


 尊敬すると~できるについて、どんな場合においても尊敬できるという表現は使うべきではないのだろうか?正確に言えば、好ましい人間関係においては『尊敬できる』という表現法は使うべきではないと言おう。尊敬は『する』『 しない』というどちらかの動詞がつくべきで、『できる』『 できない』ではない。

 心と欲望はどう違うのか? 
心とは魂の前庭の様なものだと以前にも話したが、ここでは眼球のたとえで考えて貰いたい。つまり眼球の体外に表れている部分、つまり瞳の部分が心で、その他の大きな部分が魂の部分だ。そして、欲望とはその瞳の部分に映るありとあらゆる外部の状況だ。人間は瞳に映る数々の事象に一瞬目を奪われるが、次々と新しいものに視点を移動させてゆく。視点を移動させはするが、眼球自体が移動する訳ではない。そして多くの事象の中から、特にある情報をビック・アップして網膜から大脳に伝えてゆく時に、リマーク付で送信する。これは、目の前を過ぎ行く数多くの事象とは異なった扱いを受けている。心と欲望の違いは、たとえればこの目の前を過ぎ行く多くの事象とリマーク付で送信される情報との違いだ。欲望とは目の前を過ぎ行く数々の情報であり、心とはリマーク付で大脳に送信される情報の違いだ。



JULY.13.1990
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