monologue
夜明けに向けて
 



昨夜、つまり八月十五日の夜は有名なかぐや姫が月に帰った夜なので以前書いた「竹取物語」についての考察を載せておく。
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 まず、だれでも知っている梗概を「小学館、大辞泉」より抜き出して記しておく。
『竹取の翁によって竹の中から見いだされ、育てられたかぐや姫が、
五人の貴公子の求婚を退け、帝の召命にも応じず、八月十五夜に月の世界へ帰る』

 とまあ、このような話である。冒頭の部分からじっくりと考察してゆこう。
「いまは昔、竹取の翁といふものありけり、
野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」
 と「いまは昔」で始まるのは後の『平中物語』や『今昔物語』と同じであるが
その嚆矢(こうし)がこの物語であることは興味深い。
その意味については様々な説があるが、今でもあり、昔のことでもある、時間を超越した普遍的な物語、ということ。

 竹取の翁の名は「さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ」である。
「讃岐造」と書くという。
この名前を覚えておいていただきたい。
「新潮古典文学アルバム3竹取物語・大和物語・宇津保物語」における藤井貞和氏の説によれば翁の仕事は籠作りなので根元の光る竹の筒の中から三寸ほどの人を見つけた時
「わたしが朝ごと夕ごとに見る竹の中にあらっしゃるによって、分かったぞ。
子(こ)とおなりになる人であるらしい」と思う。
この「子(こ)とおなりになる人」の子が籠(こ)とかかっているしゃれ、という。
「籠(こ)とおなりになる人」ということである。
この物語には、軽妙なことば遊びがあちこちにしかけてある。
 
 もしそうであれば、タケノコが生長して籠になることのようだ。 導入部ですでにこの竹の精が実は龍であり、最後に竹冠を脱いで天に昇ることを暗示している。見事な書き出しである。
「竹取」ということばに秘められているのは竹鳥であるらしい。この鳥は飛び立って仲秋(穐)八月十五夜に月に帰ることになる。三ヶ月で竹のように成長して一人前の成人女性の儀礼である、髪あげと裳着(もぎ)をして名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」に『なよ竹のかぐや姫』と命名される。
この名は一般には若竹のように輝く姫であるから、と解されているが実は、この名は結末の重要な伏線としてあるのだ。 籠造りの籠屋の姫であるからカゴヤヒメ、とも思える。
 なよ竹は、弱竹や萎竹とも書かれるが、三ヶ月や三室戸斎部にみられるような三の数霊の使い方からから考えるとこれは七世(なよ)竹ではないかと思う。この七は七五三の封印の七で四と三に分かれる。となれば四三、世竹であろう。この世のものではない黄泉の世の竹と四三の桔界の中の竹という意味が考えられる。
姫の名前は「籠八秘め」であった。出雲の数八を籠の中に秘めている。
 さて、この象徴的な名を付けた名付け親「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とはどんな人物であろうか。
ここからは「人文書院、梅山秀幸『かぐや姫の光と影』」を参照しながら論を進めよう。
忌(斎)部氏とは竹取物語の作者と想定されている宗教的な祭祀を司った氏族であるとされる。
平安時代の『古語拾遺』には讃岐の国の忌部氏は毎年朝廷に竹を八百竿献上していた、とある。この八百という数で忌部氏が出雲の霊統であることがさりげなく知らされる。
昔から、嘘の三八(さんぱち)とか嘘八百といって、この数が嘘の代表のように理由(いわれ)なく貶められている。
 江戸時代の国学者、加納諸平は『竹取物語考』において以下に引用するように「三室戸」を三輪山に比定している。
『神南備、三室は、いづれ神地にても有りべけれど、都より遠からず、はた、名も高く聞きたればなり、然らば、三輪大明神は、産土神にて、其社の祝部の中にて、親族なる斎部氏をよびたるにあらん。
抑人生まれて、氏神、産土神に詣づる事は、中古の書にも見え、今も然にて、いと古くよりの例なめれば、其社の祝部して祷言して、名を付けさするも、亦、古例なるべきを、
今はをさをさ聞えず』
 ということは「三室戸斎部(みむろどいんべ)のあきた」とは大神神社の祝部ということになる。「あきた」は穐田とかかれるのであろう。
なんとここでも三輪山の祭神、大物主、饒速日尊が隠していた姿を現した。
この物語はニギハヤヒの霊が忌部氏にチャネルして書かせたらしい。
竹取の翁の名は讃岐造(さかきのみやつこ、さるきのみやつこ、さぬきのみやつこ)であった。「さかきのみやつこ」を「酒鬼(穐)の造」ととれば酒の神、大物主(ニギハヤヒ)である。「さるきのみやつこ」は「去る鬼の三八つこ」でAMATERASUの逆読み「う去れ霊」を思い出さされる。讃岐(さぬき)なら日向の数霊三を抜く宮つ子となる。
どうしてニギハヤヒがこのような物語を忌部氏に書かせたのかと考えるとその時代の為政者たちの愚かな行動を戯画化した風刺であったらしい。
 加納諸平は求婚する五人の皇子を
石つくりの御子-丹比真人島
くらもちの御子-藤原朝臣不比等
右大臣あべのみむらじ-阿部朝臣御主人
大納言大伴のみゆき-大伴宿禰御行
中納言石上のまろたり-石上朝臣麻呂
と比定して、みかどを707年に二十五才で夭折した
繊細で感性豊かな天皇、文武天皇とみている。
かれはそのたよやかな性ゆえにかれらの傀儡にされていた。
この竹取物語の原典らしい民話を百田弥栄子氏が発見して話題になったことがある。それはチベット地方の説話『班竹姑娘(はんちくこじょう)』という求婚難題譚であった。
内容はほとんど変わらないが大きな違いはチベットでは富士山が関わらないことである。
 竹取物語の結末はなぜか唐突に富士語源説話となり、それゆえ、かぐや姫はその神、
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)とみられている。ここで、かぐや姫の正式名が「なよ竹のかぐや姫」であったことを思い出していただきたい。
「なよ竹の」は「よ(節、夜、世」「ふし」にかかる枕詞なのだ。
なよ竹のかぐや姫とは富士(不死)の姫ということを暗示する名前であったのである。
そのことが結末において露(あらわ)にされる。最後に、昇天するかぐや姫は不死の薬をおいてゆくがみかどはかぐや姫がいないこの世で不死の薬をのんで、長生きしてもしかたないので焼かせてしまう。そのことが文武天皇の夭折と重なる。不死の薬を飲んでいれば死ななかったかのようだ。実際は傀儡を必要としなくなった者たちの呪術によって斃(たお)されたらしい。この時代の皇位継承者たちは傀儡を操る者たちの策謀によってつぎつぎに夭折していった。
結末の原文を以下に掲げる。
『逢うことも涙にうかぶ我身には死なぬ薬も何にかはせむ
かの奉る不死の薬に、又、壷具して、御使いに賜わす。
勅使には、つきのいはかさといふ人を召して、
駿河の国にあなる山の頂にもてつくべきよし仰せ給ふ。
嶺にてすべきやう教へさせ給ふ。
御文、不死の薬の壷ならべて、火をつけて燃やすべきよし、仰せ給ふ。
そのよしうけたまはりて、つはものどもあまた具して山へ登りけるよりなん、
その山をふじの山とは名づけゝる。
その煙いまだ雲なかへたち上るとぞ言ひ伝へたる。』
(日本古典文学大系『竹取物語・伊勢物語・大和物語』岩波書店より)

 以上のように最後に富士の語源が語られる。
士(つわもの)に富むからということと不死の二つの意味がかけられている。
その富士山の精、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の名を調べてみよう。「コノハナサクヤヒメ」コはすでにみたように子であり、籠であろう。数霊では五である。
とすれば「五の花咲くや姫」のようだ。かの女はこの世に五の花を咲かせるために地上に降りてきた。みかど(直角三角)の封印の四を不にすれば五の花が開くはずであった。
しかし、みかど(三角)は不死(不四)の薬を拒否した。そのために、四の世が続いた。
竹取物語の時点ではコノハナサクヤヒメは一応成女とはなったが大地の掟を統べることはできなかった。しかし、月に帰った後ついに、大地の掟を統べる様になったのである。
 コノハナサクヤヒメに比定されるシバの女王とは数霊的には「四八の女王」なのだ。
四から八へ末広がりに開く女王である。
 霊峰富士はこの世と霊界にかけて六芒星、ソロモンの封印を形づくっている。そしてその中は士(つわもの)に富んでいる。霊界で修行を積んだ士(さむらい)たちは今、
封印を解かれて出番を迎えた。
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世界からみれば9月2日が終戦の日だが日本では八月十五日がなぜ終戦記念日になったのか。
それは七五三(しめ)を足せば十五になるから。
fumio

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