5月31日。朝早くから、中学校2年生の弟と私(女学校3年生)と、父の安否を訪ねて浦島が丘小学校まで出かけることになったが、伯母たちのご好意で、女学校4年生の従姉も一緒に来てくれることになって、水筒やら、少量の食べ物を持って出かけた。
焼け跡の熱のせいか暑い日であった。焼けて何処も彼処も乾燥しきっているのだったのだろうか、土埃りがすぐに舞い上がった。
何十キロ歩かなければいけないくかもしれないと思いながら、埃っぽい道を父を思いながら、殆どわき目も振らずにもくもくと歩いていった記憶がある。
ところどころに市電の焼けこげた車体が立ち往生していた。焼けた車もあったのだが、当時はまだ荷馬車が車道を走っていたので、その馬が焼け死んでいたのも目にしていた。
父の部隊は浦島が丘小学校から消えていた。一時は途方にくれたが、尋ね尋ねてやっと子安小学校で再開することができた。
そこで、父が、大麦の少し入った大きなおにぎり一個づつと、冷凍のサツマイモやみかんを持ってきてくれた。民間では手に入らないようなものばかりであった。第一冷凍品なんていうものがあることすら知らなかったのだ。どれもびっくりするほどおいしかったが、とりわけ記憶に残ったのは冷凍サツマイモだった。確か太白と言う種類だったのだと思うが、中身が白くて、なめらかで上品な甘みがあった。しばらく口にしていなかったアイスクリームを思い出したのである。これは余談だが、アイスクリームとも違ったおいしさがあって、どうしてもまた、食べてみたいとずっと思っていたのだが、今もってお目に掛かれないでいる。
父の部下の軍曹さんたちがトラックで中央市場まで行くので、そこまで乗って行ったらどうですかと言ってくれたので、大喜びで乗せてもらった。
それから、横浜駅まで歩いていくと、駅前の広場に出た。
駅を背にして見た横浜の風景は当時は数少なかったビルの焼けた残骸と、焼け跡のところどころひょろひょろと立っている焼けぼっくいがずっと続いていた。良く見ると、なんと、その奥の方に垣間見られたのは海であった。それほどみんな焼けてしまっていたのだ。美しかった横浜がこんなになってしまったのかと言う思いで呆然としていたら、”おーい。花園橋まで行く奴はいないか?乗せて行ってやるぞ!”と大声で叫んでいる小父さんたちがいた。困った時は助け合いと言う気持ちがとても嬉しかった。地獄で仏とはこんなことかと思って、心から感謝しながら乗せていただいたのである。
今思えば、本牧の大里町から子安までの往復は栄養失調の私たちにはそう楽ではなかったはずであるが、それよりも、優しい人々の心に触れられてありがたかった思いの方が忘れられずにいるのである。
焼け跡の熱のせいか暑い日であった。焼けて何処も彼処も乾燥しきっているのだったのだろうか、土埃りがすぐに舞い上がった。
何十キロ歩かなければいけないくかもしれないと思いながら、埃っぽい道を父を思いながら、殆どわき目も振らずにもくもくと歩いていった記憶がある。
ところどころに市電の焼けこげた車体が立ち往生していた。焼けた車もあったのだが、当時はまだ荷馬車が車道を走っていたので、その馬が焼け死んでいたのも目にしていた。
父の部隊は浦島が丘小学校から消えていた。一時は途方にくれたが、尋ね尋ねてやっと子安小学校で再開することができた。
そこで、父が、大麦の少し入った大きなおにぎり一個づつと、冷凍のサツマイモやみかんを持ってきてくれた。民間では手に入らないようなものばかりであった。第一冷凍品なんていうものがあることすら知らなかったのだ。どれもびっくりするほどおいしかったが、とりわけ記憶に残ったのは冷凍サツマイモだった。確か太白と言う種類だったのだと思うが、中身が白くて、なめらかで上品な甘みがあった。しばらく口にしていなかったアイスクリームを思い出したのである。これは余談だが、アイスクリームとも違ったおいしさがあって、どうしてもまた、食べてみたいとずっと思っていたのだが、今もってお目に掛かれないでいる。
父の部下の軍曹さんたちがトラックで中央市場まで行くので、そこまで乗って行ったらどうですかと言ってくれたので、大喜びで乗せてもらった。
それから、横浜駅まで歩いていくと、駅前の広場に出た。
駅を背にして見た横浜の風景は当時は数少なかったビルの焼けた残骸と、焼け跡のところどころひょろひょろと立っている焼けぼっくいがずっと続いていた。良く見ると、なんと、その奥の方に垣間見られたのは海であった。それほどみんな焼けてしまっていたのだ。美しかった横浜がこんなになってしまったのかと言う思いで呆然としていたら、”おーい。花園橋まで行く奴はいないか?乗せて行ってやるぞ!”と大声で叫んでいる小父さんたちがいた。困った時は助け合いと言う気持ちがとても嬉しかった。地獄で仏とはこんなことかと思って、心から感謝しながら乗せていただいたのである。
今思えば、本牧の大里町から子安までの往復は栄養失調の私たちにはそう楽ではなかったはずであるが、それよりも、優しい人々の心に触れられてありがたかった思いの方が忘れられずにいるのである。
途中父の転勤で、札幌。
思い出の残る横浜も、色々あったんですね。
街は荒んでも、心は荒まないでいたんですね。
いつも読んでいただいて、コメントまで書いてくださって、とても嬉しく感謝しています。
同じ横浜育ちでいらっしゃったのですね。私も6年生の時8ヶ月大阪へ父の転勤で行きました。
人間の体験って面白いものだと思ったのは、(横浜大空襲の始めに書いたもの)一緒に海の方へ逃げた時に、弟は、隣にいたおばあさんが、赤いか巻きを着た女学生に”あっちへ行けと言ったのが、とてもいやだったと言い、私は隣にいたおじさんが、そんなもの捨ててこっちへ来いと言ってくれたのが人間っていいなあとても印象に残っていたのです。数十年もたってから弟とその話しをした時に、お互いに殆ど隣り合わせにたって居たのにとびっくりしたものです。どうもありがとうございました。お元気で。
大変失礼しました。
この前コメントにお名前入れ忘れておりました。ごめんなさい。また、おじゃまします。