80ばあちゃんの戯言

聞いてほしくて

尖閣諸島問題(4)

2012-10-12 16:16:39 | 戦争体験
  NHK テレビ”日中国交はこうして始まった

よりの抜粋


大平は密かに、古井を中国との交渉に行かせる一方、

外務省に国交回復の準備をさせます。

その中心となった、当時、外務省中国課課長橋本恕

さん

”国交正常化をやっていくタイミングというものが

 あって、これに非常に縛られて、国内情勢との絡

 みに於いても、タイミングというものを考えてい

 た。

 ぐずぐずしないで一氣呵成に、わっとやっていき

 たいと、当時、外務省は国交回復に向かって懸案

 事項の検討を重ねていました。

 そのひとつが尖閣諸島の領有権問題です。

 日本政府が尖閣諸島を日本領土に編入することを

 閣議決定したのは1895年のことです。この年日本

 は日清戦争に勝利しました、以来、日本の領土と

 なった尖閣諸島は、太平洋戦争後、アメリカの

 施政下におかれていました。

 その後、1972年に沖縄返還協定により日本に返還

 されました。 一方60年代後半、周辺に石油が

 埋蔵されている可能性が指摘され、台湾、中国が

 尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。

 
 
 1972年外務省中国課がまとめた尖閣諸島に関する

 日本政府の見解です。

 


 尖閣諸島がわが国の領土であることは、議論の

 余地なき事実である。

 いかなる外国の政府とも話し合う考えはない。



 当時の中国課課長の橋本恕さんは

 ”尖閣諸島が日本領土と言う点に疑念が示され

  たことは知りません。(ない)”



 公明党委員長竹入義勝氏は、8月4日、田中首相

 を訪れた。

 中国での周恩来とのやり取りが報告された。

 (所謂竹入メモ)

 周恩来の発言が克明に示されています。

 ”毛主席は、賠償金の請求権を放棄する。

  尖閣諸島問題についても、触れる必要は

  ありませんと。”

外務省の大平の秘書、森田一も尖閣諸島の問題に

ついてふれる必要はないと、古井さんからもそう

いう風に聞いていた。

訪中の条件が整ったと大平は古井に訪中を促しま

す。

古井に与えられた使命は、首脳会談の内容をつめ

ること。

9月9日、古井は大平の密命を受けて、日本からの

初めての直行便で北京に降り立ちます。

古井さんに同行していた LT 貿易事務所の

金光貞治さんが、手にしていたのは、高碕達之助

さんの遺影でした。

金光さんの話

”高碕さんが本当に難しい時代を切り開いて来ら

れたのだから、せめて、もう、おそらく、国交

回復は大丈夫だろうからと高碕さんの遺影を持っ

て、北京空港に降り立ったわけです。

本当の目的は大平さんの依頼で国交回復の交換

文書のテニオハ、点までの詰め。”


 
 9月12日、古井は周恩来と会談、共同声明の

 内容を協議。

 
 金光さん

 ”古井先生は一生に一度の男の仕事だったん

  でしょうね。

  我々が一緒にいても気迫が違いました。 

  椅子に深くは坐らないんですよ。 

  椅子の前の方に乗り出すようにして 話を

  されるんですね。”

 
この会談で何が決まったのか古井から報告が示

されました。


それによれば、共同声明については基本的に

合意が得られました。但し、戦争状態の終結、

つまり、日中戦争が、何時終結したかについ

ては合意が得られませんでした。

戦争をめぐる認識と言う課題を残したまま、

平達はその日を迎えます。

9月25日北京の空港に降り立ちます。

周恩来が自ら空港に出迎えます。

当時、周恩来の通訳をつとめた林麗韞さん

 ”本当に周恩来総理は、晴れ晴れとした

 お顔で田中さんを迎えられたのです。”

 


 訪中初日の夜、人民大会堂で、田中を歓迎する

 晩餐会が開かれました。

 冒頭、周恩来首相が歓迎の挨拶を行い、田中が

 答えます。


 ”過去数十年にわたって日中問題は遺憾ながら

 不幸な経過を辿ってきました。この間、わが国

 が中国国民に多大なご迷惑をお掛けした事につ

 いて、私は改めて深い反省の意を示すものであ

 ります。

 田中の言葉が中国語に訳されると、会場は異様

 な雰囲気に包まれました。


通訳の林さんの話

 ”田中さんのご迷惑をおかけしましたと言うの

 を "添了麻煩"と訳したのですが、会場はざわ

 めいたんですね。 ”添了麻煩”というのは、

 うっかりして、女の人のスカートにちょっと

 水を掛けたぐらいの時の言葉なんです。 

 軽くて戦争に深刻に反省する気持ちが表れ

 ていないと・・・。”

 

翌日、周恩来は田中の発言は中国人の反感を

呼ぶと主張、日中戦争の被害に触れます。

戦争をめぐる両国の認識の違いがあらわに

なりました。



姫鵬飛外相と会談していた大平は局面を打開

するために一計を案じます。

訪中三日目の朝、9月27日、一行は万里の長城

に出かけます。

 大平は姫外相に車中の会談を持ちかけます。

 中国側の通訳を介して二人だけの会談です。

 この当時の姫外相の通訳周斌さんはただ


 一人の生存者、このときの体験を証言し続

 けておられます。

 周斌さんのお話

 ”車中会談を仕掛けたのは大平先生です

  から、 先ず、大平先生が 

  私の目で見たあの戦争は明白に中国に対

  する侵略戦争である。 深く言えば、私

  たち日本は何も弁解する理由はない。

  ただ、これは私、個人の見解に過ぎない。

  しかし、現在、私は日本の外務大臣の立場

  で問題を見、発言する必要がある。

  完全に中国側の要求を受け入れて表現する

  と、共同声明に書き入れるというのは難し

  過ぎる。 無理である。

  この点は、もし、中国側の意見が得られな

  いならば、 私たちは荷物を片付けて、

  帰るしかない。 

  (大平は戦前中国に赴任していた経験があり

  ました。 1、939年から一年間、大平

  は、大蔵省からの派遣で中国の張家口で働

  きました。このとき大平は中国での日本軍

  の実態を目にしていました。)

  我が方は、私と田中は、最大の譲歩はする

  つもりである。こういった心構えがなけれ

  ば私と彼は中国へは来ません。

  来た上は、私と彼は政治生命をかけて必要

  ならば、肉体生命をかけてこれをやり通す。

  これは是非、周恩来総理に伝えてください。”

  私の言ったことをそれをそのまま報告して

  ください。

  これは、私の印象ですが、大平さんはこう

  言った主旨の言葉を述べる時には、少し涙。 

  聞いていた、私も感動したし、姫鵬飛外相も

  感動したんです。”



  万里の長城を見学を終えた一行は再び首脳

  会談に向かい、この日の夜、交渉は、共同

  声明の最大の山場を迎えます。

  このとき大平外相がかつての戦争に対する

  反省の念を盛り込むことを提案。中国側も

  同意しました。

  最後に残ったのは、古井がつめ切れなかった

  戦争状態の終結の問題でした。

  それまで日本は台湾との間で日華平和条約

  を結んだ際に戦争が終結したと、戦後の

  両国関係は不自然な状態であると主張して

  いたが、これに対し、中国側は、日華平和

  条約は無効であり、日中の戦争状態は続い

  ていたが、日中共同声明が発出された日に

  終ると主張。

  大平と中国側が協議を重ねた結果、次の

  ように纏まりました。



  両国間の不正常な状態は共同声明が発出

  した日に終了する。



  当時、大平外相秘書だった森田一は

  ”日中間に存在した不正常な関係に終止符

   を打つ。 だから、中国側は、日中国交

   正常化によって、戦争は終結したと国内

   に説明するし、日本側は日華平和条約で

   戦争状態は終結しているが、不正常な

   関係がずっと続いていたんで、日中国交

   正常化交渉によって不正常でなくなる。 

   その結果、日華平和条約は存在意義を

   失った。

  (つづく)

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