NHK テレビ”日本は何故戦争に向かったかよりの抜粋”
全面禁輸など覚悟していなかった軍の中枢には忽ち混乱が広がりました。
海軍省軍務局中佐柴勝男証言
”そんな事とは、夢にも思わんものだから、あれをどこか料理屋で飲
んで、そのまま石油が止まっちゃったわけですね。
その夜中に非常召集をうけたと、、、、。”
企画印総裁鈴木貞一証言
”もうあの瞬間から実際戦になってるんですよ。
あの瞬間に若い人たちはね、 戦をやるしか方法はないねと。”
海軍省兵備課長湊慶譲証言
”中堅どころのわれわれぐらいのところではですね、物資がどん
どんジリ貧になっていくのじゃないかと、もう、とにかく絶対に
戦争だけは駄目だっていったってですね、そうもばかり言ってられ
ない時代がきたんですね。”
日本の緊急時、非常時にあたってリーダー達は何一つ具体的にな
方策を決められないでいました。
ああいう意見もある、こういう意見もある、そういう意見もある、
いっぱいある意見を一つに一体化できないうちに、様子を見ている
うちに全面禁輸が現実のものになっていったのでございます。
日本に残されていた石油の備蓄は二年あるかないかでございます。
国家の機能が停止するのは時間の問題でありました。
事ここに至ってはですね、リーダーたちには選択肢が二つしかあり
ませんでした。
一つは中国からの撤兵を飲む対米譲歩、もう一つは南方の資源を
独自調達をする。
この二つしかありません。
しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに
進退窮まれリと言うところでございます。
もうこれ迄のように結論をごまかしたり、先延ばしにしたりはでき
ません。
今度こそは国家の大局に立って決断を思い切らなければならない。
しかし、みなさん、リーダー達にとって決断はこの後、更に困難さを
増していくのであります。
石油停止の現実にリーダーたちは狼狽えました。
”ルーズベルトは戦争を決意したと思われますか?”
”日本はこの朝鮮を受けてたちますか?”
”このままでは日本はジリ貧です。”
記者たちの質問に豊田貞次郎外相は
”君達は本気で日本が米国と戦えると思っているのか?”
と、答えています。
1941年 9月3日開戦まで後96日
第50回連絡会議
リーダーたちは究極の選択と向き合うことになりました。
アメリカへの譲歩か、それとも、戦争か、統帥部は焦りを顕にし
ました。
海軍軍令部総長長野修身の発言
”帝国は各方面において物が減りつつあり、このまま時を経れば
いよいよ痩せて足腰がたたぬようになります。”
杉山元参謀総長の言
”10月上旬には外交のメドをつけてもらわなければなりません。
それ以上ずるずると延ばすことは統帥部としては認められません。”
一日一万トンの備蓄燃料が消えていく中、リーダーたちの決断の時間
は残されていなかった。
突如、現実的な問題としてのしかかってきたアメリカとの戦争。
連絡会議のリーダーたちの煩悶が始まりました。
これまで対米強硬派の中心人物として語られてきた陸軍幹部の遺族が
取材に応じてくれました。
東條英機の腹心、陸軍省軍務課長佐藤賢了は国策を起案するスタッフ
でした。
ご本人のテープより
”東條さんは非常に責任観念の強い人で何かの癖に口癖に責任が
出る人でありました。”
意外にも素顔の佐藤は対米戦争に戸惑っていました。
ご遺族佐藤巌さんのお話
”制服の軍人と言うものは表向きは好戦的な事を言うんですよ。
そりゃ軍人としては当然でしょうが、開戦の前日となっても
”やっぱりやるんでは?”と聞くと、
”馬鹿、負けるとわかってやる奴がいるか。”
本当にアメリカと戦うのかと、先ず、深刻な同様が拡がったのは海軍
でした。
海軍省兵備局長保科善四郎の証言
”海軍の最高首脳部はもう絶対やっちゃいかんと言う考え方で、
そういう力はありませんよ。そんなことを目標に日本の陸海軍
の戦備はできているわけじゃない。”
海軍省調査課長 高木惣吉の証言
”幾度(対米戦の演習をやってみても、あるいは図上で演習を
やってみても勝ち目がないんですよね。実際のところ審判で
ごまかしているんですけれども本当に率直に言えば。”
まもなく陸軍の方でも対米戦に慎重を望む声が出始めます。
日中戦争が終わらない中で、アメリカに挑むことの無謀を現場の
指揮官達か訴えました。
支那派遣軍総司令官畑俊六の言葉
”日米交渉はなんとしても成功させて欲しい。”
支那派遣軍参謀課長後宮淳の言葉
”この際、撤兵の条件を飲むこともたいした問題ではないと考える。”
しかしいざ、戦争回避を決断するとなるとリーダーたちの覚悟は揺れ
ました。
(つづく)
全面禁輸など覚悟していなかった軍の中枢には忽ち混乱が広がりました。
海軍省軍務局中佐柴勝男証言
”そんな事とは、夢にも思わんものだから、あれをどこか料理屋で飲
んで、そのまま石油が止まっちゃったわけですね。
その夜中に非常召集をうけたと、、、、。”
企画印総裁鈴木貞一証言
”もうあの瞬間から実際戦になってるんですよ。
あの瞬間に若い人たちはね、 戦をやるしか方法はないねと。”
海軍省兵備課長湊慶譲証言
”中堅どころのわれわれぐらいのところではですね、物資がどん
どんジリ貧になっていくのじゃないかと、もう、とにかく絶対に
戦争だけは駄目だっていったってですね、そうもばかり言ってられ
ない時代がきたんですね。”
日本の緊急時、非常時にあたってリーダー達は何一つ具体的にな
方策を決められないでいました。
ああいう意見もある、こういう意見もある、そういう意見もある、
いっぱいある意見を一つに一体化できないうちに、様子を見ている
うちに全面禁輸が現実のものになっていったのでございます。
日本に残されていた石油の備蓄は二年あるかないかでございます。
国家の機能が停止するのは時間の問題でありました。
事ここに至ってはですね、リーダーたちには選択肢が二つしかあり
ませんでした。
一つは中国からの撤兵を飲む対米譲歩、もう一つは南方の資源を
独自調達をする。
この二つしかありません。
しかし前者は国内、後者は英米の反発が必至である。まさに
進退窮まれリと言うところでございます。
もうこれ迄のように結論をごまかしたり、先延ばしにしたりはでき
ません。
今度こそは国家の大局に立って決断を思い切らなければならない。
しかし、みなさん、リーダー達にとって決断はこの後、更に困難さを
増していくのであります。
石油停止の現実にリーダーたちは狼狽えました。
”ルーズベルトは戦争を決意したと思われますか?”
”日本はこの朝鮮を受けてたちますか?”
”このままでは日本はジリ貧です。”
記者たちの質問に豊田貞次郎外相は
”君達は本気で日本が米国と戦えると思っているのか?”
と、答えています。
1941年 9月3日開戦まで後96日
第50回連絡会議
リーダーたちは究極の選択と向き合うことになりました。
アメリカへの譲歩か、それとも、戦争か、統帥部は焦りを顕にし
ました。
海軍軍令部総長長野修身の発言
”帝国は各方面において物が減りつつあり、このまま時を経れば
いよいよ痩せて足腰がたたぬようになります。”
杉山元参謀総長の言
”10月上旬には外交のメドをつけてもらわなければなりません。
それ以上ずるずると延ばすことは統帥部としては認められません。”
一日一万トンの備蓄燃料が消えていく中、リーダーたちの決断の時間
は残されていなかった。
突如、現実的な問題としてのしかかってきたアメリカとの戦争。
連絡会議のリーダーたちの煩悶が始まりました。
これまで対米強硬派の中心人物として語られてきた陸軍幹部の遺族が
取材に応じてくれました。
東條英機の腹心、陸軍省軍務課長佐藤賢了は国策を起案するスタッフ
でした。
ご本人のテープより
”東條さんは非常に責任観念の強い人で何かの癖に口癖に責任が
出る人でありました。”
意外にも素顔の佐藤は対米戦争に戸惑っていました。
ご遺族佐藤巌さんのお話
”制服の軍人と言うものは表向きは好戦的な事を言うんですよ。
そりゃ軍人としては当然でしょうが、開戦の前日となっても
”やっぱりやるんでは?”と聞くと、
”馬鹿、負けるとわかってやる奴がいるか。”
本当にアメリカと戦うのかと、先ず、深刻な同様が拡がったのは海軍
でした。
海軍省兵備局長保科善四郎の証言
”海軍の最高首脳部はもう絶対やっちゃいかんと言う考え方で、
そういう力はありませんよ。そんなことを目標に日本の陸海軍
の戦備はできているわけじゃない。”
海軍省調査課長 高木惣吉の証言
”幾度(対米戦の演習をやってみても、あるいは図上で演習を
やってみても勝ち目がないんですよね。実際のところ審判で
ごまかしているんですけれども本当に率直に言えば。”
まもなく陸軍の方でも対米戦に慎重を望む声が出始めます。
日中戦争が終わらない中で、アメリカに挑むことの無謀を現場の
指揮官達か訴えました。
支那派遣軍総司令官畑俊六の言葉
”日米交渉はなんとしても成功させて欲しい。”
支那派遣軍参謀課長後宮淳の言葉
”この際、撤兵の条件を飲むこともたいした問題ではないと考える。”
しかしいざ、戦争回避を決断するとなるとリーダーたちの覚悟は揺れ
ました。
(つづく)
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