haru-155さま今年も掲載してしまいます。お許しを・・・・。
日ごと劣化していく脳細胞とブログというツールを使い、闘いを繰り広げている。
平凡な日常の繰り返しのようではあるが、注意深く見回すと実に多くのことが無造作に転がっているものである。
ただし日々の多忙さというのは、齢を重ねるごとに次第に増幅していて、時にはスケジュールに押しつぶされようとさえする。
では、そんな中で寸暇を惜しんで私は、どうしてブログを書き続けるのだろうか。
「結局ブログを通じて、僕を見てくれーっ!と叫びつつ、早逝した母親の愛を求めているんですよね。」
と分析した友人もいたんであるが、確かにそれも内包されてはいるかも知れないが、どうも言い当ててはいないようだ。
「自己憐憫」を外に向うブログの中で表現するほどナルシストではないし、そんなに精神的に行き詰ってはいないつもりだ。
そんな自己中心の世界では、こんなに長い間ブログを書き連ねることは絶対に出来ない。
とどのつまり自分をゆっくりと内観してみるに、「そんなに深い意味はなし」という結論に至ってしまう。
無理やり意味をこじつけると、それはそれで出来ないこともなさそうであるが、まあ日々感じたことをレアなうちに記することによって、直ちに「過去」という記憶の圏外に葬り去られる事象や出来事を、ひたすら書き連ねているに過ぎないのである。
平凡そうに見える日常も「心の襞」というフィルターを通せば、まるで万華鏡のように様々に変化するものである。
そこかしこ、その時、この時で微妙に視点が違ってくる出来事を、素直に、心に感じるままにキーボードを通じて記録していく。
そんなことで、まずはボケ防止に役立っているに過ぎないのだと思うんである。
花はただ咲いて散るのみなんであるが、それは1ヶ年のスパンの中ではほんの一瞬の出来事に過ぎない。
それでも一番綺麗な瞬間を写真に収めることによって、それは永遠の輝きを放ち続ける。
そして表紙から続けて2枚の写真なのであるが、これは、昨年あまりの美しさに、この世界の掟を破って作者を拝み倒して同意を得て載せた写真。
haru-155さまの「アメジスト色のアジサイ」と「ブルーのカクテルドレスを纏ったアジサイ」の2点。
写真の表題は僕が勝手に付けたもの。
一年後の今、宝箱の中から引っ張り出してきても、「フーッ!」とため息が漏れてしまう名作。
こんな素晴らしい仲間にたくさん出会えたのも、実はブログの効用といえるものである。
これからもひたすら感じるままに、ただ書き続けていきたいと思わされている。