第1章,「蚊帳の中に」
その昔、日本中の家々は夜中も窓を開けて寝ていた。
泥棒も少なかったし、隣近所が助け合い肩寄せ合って暮らすという
美しい文化が生きづいていた、実に平和な時代であったから、
日本人そのものも、今よりずっと優しく、暖かかったんである。
暑苦しく、眠れない夜でさえも、ひとたび蚊帳の中に入れば、
そこには母親が待っていてくれて、
眠りつくまで団扇で優しい風を送り続けてくれたものだ。
眠い目をこすりながら、暗い庭先を眺めては、
闇の中の魑魅魍魎の気配を感じたり、
時には蛍を捕まえてきて、
蚊帳の中での優雅な飛行ショーを愉しんだものだった。
雷が鳴り響くと、昼間でも蚊帳を吊って、
タオルケットを頭から被って、弟とブルブルと震えていたものだ。
思えば蚊帳は夏の間中、母親のいない我が家の守り神であった。
緑色の蚊帳と、ほのかなキンチョウの蚊取り線香の煙、遠い雷鳴
夕立のあとの土のにおい、そして蝉しぐれ
今でも思い出される幼い日々の微かな記憶、
その記憶の先には・・・・
蚊帳の中に、やさしい母が
団扇を持って
いまだに待っていてくれているような、
そんな気がするんである。
第2章,「蚊帳の外」
そしていつしか人々は、密封された箱の中で眠るのに慣れてしまい、
この実に合理的で、
美しく、かつ涼しい自然の風の中で、
深くて穏やかな眠りにつくことをやめてしまった。
そして同時に、大切な人間関係もいつしか疎遠になりつつ、
すべての人としての関わりは、窓を閉め切り
いつのまにか「蚊帳の外」に置かれてしまうようになったのである。
人は戸締りをしっかりしないと、安心して眠れなくなり、
それに比例したかのように、凶悪な犯罪も増えてきたように思う。
もう一度エアコンの無い、天然クーラーの時代に戻れば、
人々の冷たくなった心も
蚊帳の外から、中へと帰ってくるような、
子供じみているかもしれないけれど、
そんな気がしてならないのである。
北海道の北の果てで37度を記録したという日に・・・・・、
この蚊帳の中に平和と安息があった時代に、
帰らなくてはならないのだと、しみじみ思わされたのである・・・・・。