その昔、まだ幼児だった頃
「そんなに言うことを聞かんと、カックンちゃんに連れて行って貰うぞ。」
とばあちゃんから脅かされた記憶があるのだ。
その時は幼心に、カックンちゃんて、とても怖い人だと思い込んでいた。
ヤンボシと呼ばれ
握り飯を貰うと、必ず土に転がして食べていたと聞かされていた。
一本三味線で、歌を唄って廻っていたとも聞いた。
この地域、白石を根城として、武雄・大町・有明・鹿島を流して回り、時には汽車に乗って佐賀市や佐世保市までも出かけたというのである。
いつも褌いっちょうに、重箱三味線に弦が一本でぺペンペンペンとやりながら、頓知や風刺の効いた歌を即興で唄い流して歩いた。
それが白石名物と言われた漂泊の詩人「カックンちゃん」なんである。
門の前で唄って何がしかのものを乞い頂くという、昔の乞食みたいな人であったのだが、歌は抜群に上手かったという。
今で言うところのプロのストリートミュージシャンなんである。
ここに20年以上も前にNNKローカルで特集されたドキュメントが、Youtubeに貼り付けられていた。
私のよく知っている人もたくさん出演されていた。
榊先生、吉川義之さん、松下先生
そして、カックンちゃん役は、何と当時、武雄市の劇団「試行」の花型男優だった武雄商工会議所の光富専務さんなんである。
実は私が2歳の時に、すでに死去されていたカックンちゃんなのだが、小学校高学年になるまで、白石に行けば、そのカックンちゃんに会えると思っていたものである。
そして、心中秘かにその一本三味線を聴いてみたいなと思っていたのだから、
当時からギターに繋がるものに対する興味があったのかも知れない。
還暦過ぎた今でもギターを弾いて歌うのは、カックンちゃんの後を追いかけているだけなのかも知れない。
そのカックンちゃん、 一本三味線の音色に乗せて、町や村の軒先、お祭りの雑踏や辻々で即興の歌を唄っていたというのだが、音楽的な素養は抜群だったらしい。
市原角市さんが本名で、目は盲目に近かったという。
もう、カックンちゃんのことを知っている人も随分と少なくなってきたことと思うが、乞食といいつつも、本人は実に心根の優しい人で、多くの人から愛されていたという。
その証拠に、その死は佐賀新聞に報じられているほどだ。
ばあちゃんから聞かせられた、その奇行と共に幼い私の心の中に、強烈なイメージとして植えつけられたカックンちゃんなんである。
人々を歌で楽しませたというのは、何とも素晴らしい生涯であったと思う。
こんなたのしい人が居た昭和の時代も遠くなるばかり・・・・・。
さて、カックンちゃんにインスパイアを受けて・・・・・
アコースティックギターを中心とした「ほけまくいカックンちゃんバンド」を始めることにした。
乞うご期待。