21世紀航海図;歴史は何も教えてくれない。ただ学ばない者を罰するだけ。

個人の時代だからこそ、個人を活かす「組織」が栄え、個人を伸ばす「組織」が潤う。人を活かす「組織」の時代。

2カ国を比べて

2011年05月12日 22時17分19秒 | Weblog
A国とB国がある。

A国は、
超裕福者層が1500万人いて、新車販売台数は年間1800万台。安い小型車の販売が多く、高級車の市場は成長途上にある。自動車、造船、鉄鋼、テレビ、冷蔵庫、エアコン、パソコンの生産量は世界一。理系の大学院の卒業生数も世界一。自動車製造は、小型・中型の低価格車が中心で、高級車を現地生産している企業は少ない。

B国は、
超裕福者層の数は約300万人、新車販売台数は約400万台。高級車の市場は飽和状態で、燃費の良い小型車の販売が伸びている。世界的な高い技術力を持つ中小企業は多い。高級車を国内生産している企業は5社以上あり、外車の販売店網も整備されている。



もし、自分が「ベンツ」の経営者だとして、新しく年間生産台数15万台規模の工場を建てるとしたら、A/Bのどっちを選ぶか?

俺なら、Aを選ぶ。年間1800万台も自動車が売れているから、15万台ぐらいスキ間に入り込むことで売れそう。そして、Aでの売れ残りを販売店網を利用してBで売る。

小さな市場で過当競争にさらされるよりも、ライバルの少ない大きな市場でビジネスをしたいのは、どの企業にとっても同じだと思う。




ちなみに、Aが中国で、Bが日本。

中国の技術力だと、高品質の自動車は作れないと思うかもしれない。それでも、市場規模が1800万台もあれば、S級の高級車の作りそこないは、別ブランド名を使って、B級自動車として販売できる。そんな綱渡りの経営で、10年も製造を続ければ、熟練工が育ってきて、高品質な自動車も作れるようになる。現地にライバルがいないからこそ、リスクをとって進出すればリターンが大きくなる。

日本の技術力だと、高品質の自動車も簡単に作れる。でも、売れない。自動車会社の仕事は、車を作ることではなく、車を売ること。と言うか、売れる車を作ること。売れない車をどれだけ作っても意味がない。

輸送費を考えると、部品ごとにまとめて送った方が、自動車として組み立てて運ぶよりも、コストを抑えられる。キズがつく心配も少なくて済むしね。体積も小さい。日本の中小企業から、最先端の部品を買い集めて、中国で組み立てるってのが理想かな?






PPP(purchasing power purity)は、購買力平価のこと。
GDPが「製造力」を測る代わりに、PPPは「消費力」を教えてくれる。
日本のPPPはインドと同レベル。中国のはるか下。ちなみに、日本はGDPでも中国以下。

インドの人口は日本の10倍以上ある。つまり、日本人は平均してインド人より10倍ものを消費できる、って意味。「幸せ」とは言えないかもしれないけれど、「贅沢」はできる。

「人口1人当たり」に直すと、日本のPPPは台湾より少し小さいレベル。世界24位だっけ?
台湾人の平均年収は日本人の約半分だけど、台湾は家賃が日本の3分の1だったりして、物価が安い。その分だけ「消費力」が高く計算される。台湾人の方が、日本人よりも贅沢が出来る。ってこと。




日本人の多くは、企業間の商品開発競争を「長距離走」だと思ってる。
過去10年間有利に競争を進めてきた企業は、次の10年間も有利に過ごせる。つまり、前10kmで差をつけた先頭走者は、次の10kmを走るうえで、強みがある。と思いこんでいる。

現実には21世紀の商品開発競争は「短距離走」(詳しくは『フラット化する世界』を読むべし)。
予選会で世界記録を出したとしても、「短距離走」では、決勝戦のスタートラインはみんな一緒。そして、1位で走り抜かないと、金メダルはもらえない。予選会の記録が良くても、決勝戦には有利に働かない。


ウォークマンを発売した老舗ソニーよりも、iPodを販売した若手アップルの業績がいい。
パソコンを発売した老舗・東芝よりも、bookを発売したフォンファイの方が業績が良い。
みたいな例があげられる。

老舗フェラーリよりも、現代自動車とか。











人間って生き物は、自分達が失敗から学ぶことが出来ない、ってことを学ぶことが出来ない、ってことを学ぶことが出来ない、ってことを学ぶことが出来ない、ってことを学ぶことが出来ない、ってことを学ぶことが出来ないね。

市場原理主義

2011年05月12日 19時55分48秒 | Weblog
「市場」がすることは全て正しいと思う。

その考え方は怖い。

人口が増える →総需要が増える →資源価格が上がる →食料価格が上がる →貧困層が餓死する →人口が減る
→総需要が減る →・・・・。

見たいな考え方を当たり前にする人は、頭がおかしい。

「論理的」かもしれないけど、人間として間違ってる。



電力の自由化は進むべきだと思う。
しかし、電力の供給力が不足している状態で、自由化を進めれば電気料金は確実に上昇する。
もちろん電気料金が上昇すれば、民間企業が発電所の建設に乗り出すから、「数年後」には電気料金は下がるかもしれない。

問題は、ここに「数年間」とタイムラグがあること。
年金生活をしている高齢者は、電気代が上がれば、熱帯夜でもエアコンを付けずに眠るかもしれない。昼間でもエアコンを利用しない(できない)高齢者が増えるだろう。熱中症で死亡する人が出てくる。
「市場原理主義者」の考えでは、高齢者が熱中症で死ねば、電力の総需要が減って、電気代が下がる。って良い話なのかもしれない。でも、その考えば間違っている。って、俺は信じたい。

学校や病院の運営も厳しくなる。
資金力に余裕のある私立の学校(の一部)は、電気代が上昇しても、エアコンを付けたまま授業が出来る。成金が多く訪れる大学病院(の一部)も、電力を大量に消費する医療機器を惜しみなく使えるだろう。
問題は、貧しい公立学校や、ボランティアで医療を提供している診療所だ。子供たちはサウナのような教室で勉強することになる。(俺が小学生の時は、それが普通だったけど)親の資金力が子供の学力へ与える影響が大きくなる。

電気代が上がれば、人工呼吸器の使用に問題が出る。24時間動かし続けるだけの電気代を払えない人は死ぬ。
市場原理主義者は、それに何も感じないのかもしれないけれど、間違っている。

電力の自由化は進めるべきだ。
ただ、公共施設に関して「特別枠」を用意するべきだ。

太陽光発電の推進もするべきだと思う。
国は太陽光発電の利用促進に補助金を出すべき。しかし、その補助金の財源を電気代にしてはいけない。
不動産を持っている個人、企業を対象に、建物の屋根の面積に応じて課税するべきだ。その増収分を補助金の支払に当てればよい。

屋根を太陽光の発電に利用している人への補助金を、屋根をただ遊ばせている人から集める。ってことだ。
屋根の70%以上に太陽電池を設置した企業、個人には減税+補助金でそれなりの収入を保証できるようにすればよい。



最近は円高も厳しい。
円高になれば輸出企業は簡単に倒産する。例え2ヶ月後に円安になるとしても、倒産した企業が復活したりはしない。復活できるのは倒産しなかった企業だけだ。
輸入企業にとっては円高の恩恵は大きい。しかし、2か月後に円安になるとしたら、その恩恵はほんのわずかはものだ。逆に円安が行き過ぎれば、今度は輸入企業が倒産することになる。そして、倒産した企業は円高になっても復活しない。

市場原理主義者にとっては、「激しく乱高下する為替市場」が正しい状態なのかもしれない。

でも私は、適正な水準で「安定的に推移する為替市場」に魅力を感じる。
「固定相場制」に戻す根拠はナイ。しかし、過度の円高時には日本銀行が「円売り介入」を行い、円安に誘導するとともに外貨準備を増やし、過度の円安時には、その外貨準備を使って「円買い介入」を行い、円高に誘導する政策が正しい。


トヨタ自動車はUS$が120円台以上だった時に国内工場の建設を無計画に増やし、US$80円以下になって赤字を出した。US$建ての売上高を日本円に換算する時に、30%以上が増えたり消し飛んだりする。

それはおかしくないか?

日本銀行が円高・円安の両国面で適切に為替介入を行い、せめて年間の為替の変動幅を10%以内に収めるべき。
つまり、今のUS$が80円だとしたら、来年のUS$は、だいたい72円~88円の間ってことになる。そんなに無茶苦茶な話じゃない。と言うか、1ヶ月で20%近くも乱高下する市場が、おかしい。
市場原理主義者の頭もおかしい。

日本国内のほとんどの輸出企業にとって、US$が72円ってのは想像もしたくない世界だろうけど・・・。十分にあり得る。fast crashが起きる可能性もあるし。