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偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

2018-02-27 18:42:49 | 本の要約や感想
偶然の音楽/ポール・オースター(柴田元幸訳)/p13 感想その10「今日のところの結論」

<偶然の音楽の要約と感想最初から>リンク

偶然の音楽/The Music of Chance/1990/柴田元幸訳/新潮文庫

妻に去られたナッシュに、突然20万ドルの遺産が転がり込んだ。すべてを捨てて目的のない旅に出た彼は、まる一年赤いサーブを駆ってアメリカ全土を回り、〈十三ヶ月目に入って三日目〉に謎の若者ポッツィと出会った。〈望みのないものにしか興味の持てない〉ナッシュと、博打の天才の若者が辿る数奇な運命。現代アメリカ文学の旗手が送る、理不尽な衝撃と虚脱感に満ちた物語。(裏表紙より)


この本を読み終えて私が一番感じたことはこのブログにも何回か書いているが、はい読み終わりました。一応筋は通っていました。さてしかし内容に意味があったのだろうか。もしかすると作者はサイコロでも転がして書いたのではないか。いったい何が主題なのか。だった。

この文庫本は去年に部屋を掃除していた時に出てきたもので、いつどこで買ったのかも憶えておらず、題名すら記憶になかった。しかしその題名から私がどこかの古書店で内容も見ずに題名だけで買ったことはまず間違いなかった。

それで去年のクリスマス頃に読み始め、平易な文章だからすぐに読み終えたが、私の心は疑問符だらけになり、上に書いた感想をまずは持ったのだった。

それからこのブログになんとなく━━他に書くことがなくて━━中盤までの要約を書いてみて、最後の部分まで書くのはさすがに躊躇われ、私がテキトーに創作して終りにしたが、それでは少し無責任な気がしてきて、それなら感想を書いてみるか、という気になり、書き始めたら、これはやっかいな作品だな、ということに気がついて、現在に至るわけだ。

よし、もう私の結論を書いてしまおう。
この作品に意味があるのか、ないのか、を私は読後に強く感じたわけだが、つまりそれは作者の、ポール・オースターの思想の基盤からの意図で、つまり、私たち人間が生きることには意味があるのか、それともないのか、言い換えれば、意味を持って生まれてきたのか、それとも何も持たずに生まれてきたのか、これがこの作品の主題だ。と私は思う。もっと言い換えれば、この世界は必然なのか、それとも偶然なのか、の違いとも言える。

しかも、この作品は完成品ではない。しかしおざなりな未完成品でもない。おそらく作者のイメージする様々な描写と設定を象徴的に筋の中に嵌め込んだ明確な現実とも幻想ともいえない物語で、いやこれは物語というより詩的文章といったほうがむしろ理解し易いだろう。

それではいつ完成するのかというと、これは月並みだが、読者が解釈をして初めて作品は完成する。意味があると思えば意味のある作品になり、無意味であると思えば無意味な小説である。妻に逃げられ、子供とも離れ、疾走し、迷走し、出会い、賭けて、負けて、囚われて、壁を作り……、単に筋だけを追ったら、ああ面白かったね。それで終りだ。

だがもしこの小説に意味を見出そうとして読んだなら、その人の数だけ解釈と理解は生まれ、ゆえに作品も無数に派生することになる。そしてこれは言い過ぎになるかもしれないが、もしかすると著者本人もこの作品の真の意味を書いた当時にはわかっていなかったのではないだろうか。いや、決して悪い意味ではなく、なんというか、自分で書いて自分の手に余るというか、それくらい大きさのわからない作品というか、たとえば覗けばいつも自分の顔が映る鏡のような明確さはなく、箱に入った<夢の鉱石>のように、蓋を開けると乱反射をして、見つめても光の芯が見えないというような。

主人公ジム・ナッシュは自身の存在の意味や意義を探して全米を疾走したが、それはそのまま作者の姿であり、作者もこの小説を書きながら希望を持ったり失ったりと迷走したに違いない。なぜかそう思うかというと、ポール・オースターはどうやら自分の属性を悲観的な側にあるとこの小説の当時考えていたようだが、心の花びらを占いのように「悲観。楽観。悲観。楽観」と一枚一枚と毟っていくと、どうも最後に残るのは彼が好むと好まざるに関わらず、それはごく小さな楽観であるように私には感じられるからだ。だから当時まだ若かったポール・オースターは楽観的であろうはせず、しかし悲観的にもなりきれず、自分はどっちにいるのか、行くのかと迷った挙げ句、最後にジム・ナッシュをあのように光へと収束させてしまったのではないか。

わかり易く書けば、ポール・オースターはこの作品を書いた時点(1990)では、まだ十分に迷っていたのではないか。最新どころか、これ以外の作品を私は読んでいないから、現在の彼の心境を私は知らないが、推測するなら、もしかすると悲観や無意味の殻を破って楽観の光が作品から漏れ出しているのではないだろうか。なぜなら、人間やはり齢をとると自分の最奥の芯にあるものが出てくるものだから。

結論を書いたから、もうこれで終りにしてもいいのだが、それではあんまりだから、この結論に至った考察の検証を私なりにしようと思うが、きっと飛び飛びで長くかかる。そして上に書いた結論も変わる可能性もある。私は彼について名前すら知らなかったので、今日のところの結論はまったく反対に変わる可能性もある。今日は大きな勘違いだったかもしれない。しかしこの勘違いが後になって自分でも笑えて面白いというもの。
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