「イエスは人々に言われた。『狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。』」(ルカ13:23,24新改訳)
来たるべき永遠の世界・神の国に入るには「狭い門」をくぐらなければならない、と主イエスは言われた。いうまでもなく、狭い門とはイエスご自身を指しているが、主はどうして狭い門なのであろうか。それはこの門をくぐるには、イエス・キリストを個人的に救い主として知らなければならないからである。その理由は、入ろうとして入れなかった人たちに「おまえたちがどこの者か、私は知らない」(25、27)と主が答えておられるからだ。▼主のご在世当時、大勢の人々が集まり、話を聞き、教えを受け、一緒に食事をしたりした。だがそれだけでは、主を知ったということにはならない、と言われるのである。主が男だけで五千人の群衆(女性、子どもを合わせればもっと大きかった)に奇蹟のパンを食べさせたあと、人々は主を追いかけてカペナウムまで行った(→ヨハネ六章)。そこで主が「わたしは天から下ったいのちのパンである。わたしを信じるなら永遠に生きることができる」と言われると、人々は「なんだ、そんなことか」と失望して去ったと記されている。ナザレの青年大工が神であるはずがない、という不信仰と傲慢(ごうまん)がイエスを真に知ることを妨げたのである。▼つまり御国に入る門を狭くしているのは神ではなく、私たち人間の内にある罪性にほかならない。キリストと共に十字架につけられ、罪の性質から解放され謙遜になる、人はそうしてこそ、はじめてイエスの前にひれ伏すことができる。