しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <異邦人への使徒>

2024-08-24 | ガラテヤ
「ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。」(ガラテヤ2:8新改訳)

ペテロとパウロの選びによって、初代キリスト教の二大潮流があきらかになった。つまり、一つはユダヤ教社会への福音の展開であり、もう一つは異邦人社会への福音の拡大である。▼私たちは異邦人世界に生まれ育ったので、キリスト教といえばそれが中心であると思っているが、パウロに言わせれば、イスラエルこそが福音の中心なのである。すなわち、神の救いをオリーブの木にたとえれば、イスラエルこそ元木(もとき)であり、私たちは後から接ぎ木(つぎき)された野生の枝にすぎない。その価値において、はるかに軽い存在である。だからどのように福音が世界に拡大していっても、量的にはともかく、質的にはイスラエルの回心が起きなければ福音は完成しないのだ。▼パウロの宣教により、異邦人教会が次々と生まれ広がって行っても、福音の中心真理を受け入れないユダヤ律法主義がそれを破壊していく、その例がガラテヤ教会の変節(へんせつ)であった。使徒の苦しみと嘆きを痛感する。ただし、大きな目で眺めれば、ユダヤ的キリスト教徒からのパウロに対する攻撃は、ガラテヤ書を初めとするパウロ書簡を産み出す背景となった。私たちはこれにより、かえってパウロが伝えた福音の何かをより明確に把握でき、二千年のキリスト教会存立の土台に立つことができるのである。そこには、神の大きくて広い摂理の御手が存在する。だからパウロとともに叫びたくなるのだ。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」(ローマ11:33同)