平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

読み比べ 「桶狭間の戦い」

2009年05月19日 | 小説
 たまにはこんな遊びも。

★戦国歴史名場面の桶狭間の戦い。
 ここで今川義元が首を獲られるシーンを津本陽さんは「下天は夢か」でこう表現されている。

『服部小平太、毛利新助の二人は、間近に義元の顔を見て逆上した。義元は口をあけ、おはぐろをつけた歯なみをあらわし、太刀を八相に構えていた。
「今川殿、お覚悟召されよ」
 服部小平太は叫ぶなり、手槍で力まかせに義元の兜を殴りつけておいて、下段から刎ね突いた。
 槍先に手応えがあり、しめたと思った瞬間、義元の太刀が槍の柄とともに小平太の膝を、草摺りごと斬り割った。
 小平太はたまらず泥中に転倒する。
 「ご免つかまつる」
 毛利新助が横あいから義元の胸もとへ、渾身の力をこめて斬り込む。
 刀は鎧にはね返されたが、新助は義元に体当たりして、組み合ったまま泥中に倒れこんだ。
 新助は獣のような力で立ち上がろうとする義元の首を左腕でかかえこみ、はずされて惣髪を鷲づかみにし、夢中で右手に抜いた鎧通しの刃先を喉元に突き込んだ。
 血が沸騰し、義元は眼球をむきだし新助をぶらさげて立ち上がり、歩いた。新助は力まかせに義元の首をえぐった。
 言葉にならない叫喚を発した義元は、新助の右手の人差し指に噛みつき喰いちぎって、朽木を倒すように泥中に身を没した』

 津本さんらしい詳細な描写ですね。
 映像が浮かんでくる。
『義元は眼球をむきだし新助をぶらさげて立ち上がり、歩いた』『義元は、新助の右手の人差し指に噛みつき喰いちぎって』といった描写も絶命寸前の人間の執念を描いてすごい迫力。

★一方、「国盗り物語」の司馬遼太郎さんは……。

『「駿府のお屋形っ」
 と叫んで、義元にむかい、まっすぐに槍を入れてきた者がある。織田方の服部小平太であった。
 「下郎、推参なり」
 と義元は、今川家重代の「松倉の太刀」二尺八寸をひきぬくや、剣をあげて小平太の青具の槍の柄をかっと切り飛ばし、跳びこんで小平太の左膝を斬った。
 わっ、と小平太が倒れようとすると、そのそばから飛び出してきた朋輩の毛利新助が太刀をふるって義元の首の付け根に撃ちこみ、義元がひるむすきに組みつき、さらに組み伏せ、雨中で両人狂おしくころがりまわっていたが、やがて新助は義元を刺し、首をあげた。首は、首のままで歯噛みしており、その口中に新助の人差指が入っていた』

 「松倉の太刀」といった具体的なものが示されているが、司馬さんの場合は描写はあっさりしている。淡々と描写されている。
 人差指を喰いちぎっていたという描写も司馬さんの場合は結果描写。
 これは津本さんの進行形の描写の方が迫力がある。
 もっとも司馬遼太郎さんの凄さはその独自のキャラクター描写であり歴史解釈。
 文章で読ませるというよりは内容で読ませる作家。
 そしてこの点でいうと津本さんは物足りない。
 実証主義というのだろうか、作者の解釈はあまりなく歴史資料に基づいて出来事を精密に描写している。
 どちらが読み物として面白いかと言えば意見のわかれる所だが、文章で楽しみたい方は津本さん、内容で楽しみたい方は司馬さんという所だろうか。

※追記
 この桶狭間の戦いの締め方も津本さん、司馬さんでは個性が出ている。
 津本さんは
『義元の首からは、沈香が馥郁(ふくいく)と薫っていた』
 司馬さんは
『戦闘が終結したのは、午後三時前である』
 情緒、余韻があるのは津本さんですね。


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天地人 第20回「秀吉の罠」

2009年05月18日 | 大河ドラマ・時代劇
 「秀吉の罠」

★心理戦ですね。
 景勝(北村一輝)はひと言もしゃべらない作戦。
 景勝が無口故に絞りだした苦肉の策だったが、わりといい感じ。
 会話をしていたら<人たらし>の秀吉(笹野高史)の術中にはまってしまう。口車に乗って秀吉のペースになってしまう。
 さすがの秀吉もどう扱っていいかわからない感じ。
 それは秀吉が怒ってみても同じだった。
 「はて、怒っておられるのか」
 スカしてダメなら脅す。これまで全然違う迫力の秀吉。緊迫した空気。
 しかしこれにも動じない景勝。
 景勝はよく言えば肝が据わっている。悪く言えば鈍い。
 普通あの迫力で見つめられたらビビッてしまう。

 このふたりの対決、それぞれのキャラクターが出ていて見応えがありました。
 客観的に言えば景勝の方は無策なんですけどね。
 秀吉はあの手この手で攻めてくる。
 でもどんなに揺さぶられてもしゃべらないことを貫き通す景勝の<肝の据わり方><鈍さ>は見事です。
 秀吉にも「あれが上杉流なのかのう?」と言わしめた。
 結果は<義>を秀吉に解かれて景勝の負けではありましたが。

★そして兼続(妻夫木聡)。
 やはり軍師といえる存在ではない。
 ここは秀吉に一矢報いる返答をしなければ。
 圧倒されて黙り込み、最後は景勝の決断頼み。

 ということでやはり製作側が描きたい兼続像が見えてきませんね。
 優秀な軍師なのか、正直で心がきれいなだけ(←三成の評価)なのか。
 今回兼続が武田と同盟を結ぶために金を使った理由(「忠義や信に比べれば金銀などつまらぬもの」)が示されたが、どうしても詭弁に聞こえてしまう。
 例えば今で言えば、建設会社が受注のために政治家にお金を渡したとする。
 建設会社にしてみれば、自社の利益追求もあるだろうが、会社を潰さないこと、社員を露頭に迷わせないことという目的がある。
 兼続の行為は「それでいい」という行為?

 曖昧なのは<義>についても同じ。
 『信長の家臣を死に追いやってのぼりつめた秀吉は義に反する』としながらも、後半では『越後や民のために命を使うことが義だ』という結論。
 まあ『義とは人としての美しいあり様』(←謙信の言葉)ということらしいので局面に応じて様々に解釈されても仕方がないのですが。

※追記
 兼続と三成(小栗旬)の対決は今後も続きそう。
 田舎侍と馬鹿にしている三成が心を許すのはいつか?
 どの様に友情が生まれるのか?
 兼続の人間性が、どちらかと言うと人の心がわからない三成に影響を及ぼすドラマを見てみたい。

※追記
 初音(長澤まさみ)とお船(常盤貴子)のラブコメ対決。
 兼続と初音の関係を描き込んでいればもっと面白くなったのに。

※追記
 『義とは人としての美しいあり様』。
 難しいですね。
 例えば『信念・理想ために命を落とす』のも美しいあり様だし、『民のため信念・理想を捨てても生きる』のも美しいあり様。
 景勝は後者の様だが、それは人によって違っている相対的なもの。
 <義>という言葉を物語の中心に据えているからこのドラマはフラついている?


コメント (4)
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真夏の夜の夢

2009年05月16日 | 小説
 仕事でシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を読む機会がありまして。

 物語自体は妖精パックが言うように「他愛のないもの」なのだが、何という豊かなイメージ!
 たとえば、眠っている時まぶたに塗ると目を開けて初めて見る人を好きになってしまう<浮気草>。
 これがどの様に生まれたか?
 何とキューピットの放った矢が外れ、地上の真っ白の花の上に刺さったもの、それが<浮気草>なのだ。
 矢が刺さってその白い花は真っ赤に染まってしまったという。
 豊かなイメージですね。
 真っ赤な花からそんなバックストーリーを読み取ってしまうイマジネーション。
 すごいです。

 豊かなイメージは他にも。
 たとえば妖精の女王・タイターニアのベッド。
 『麝香(じゃこう)草、桜草、すみれが咲き乱れ、甘い香りの忍冬(すいかずら)、野バラ、麝香いばらが天蓋のように覆い被さっているベッド』
 小さな妖精のベッドだから花の中なのですが、こんなベッドに寝られたらすごいでしょうね。
 おまけにその妖精の女王のパジャマは『蛇が脱いだ皮』。
 実にすごいイマジネーション。

 他にもある。
 妖精たちが眠りにつく夜明けの描写はこんな感じです。
 『夜の女神を乗せた竜の車が、雲を切って駆けていく。彼方向こうの東の空には暁のオーロラの先触れがやってくる。そして彷徨い歩く幽霊たちは墓地に戻り、浮かばれぬ亡霊たちは蛆の寝床に帰る』。
 こんな夜明けの描写をした作家がいたでしょうか?
 実に豊か。

 その他にも『恋と理性は折り合いが悪い』『人間なんてものは所詮大馬鹿野郎』などお馴染みの警句もいっぱい。
 シェイクスピアは詩人ですね。

 この戯曲を夏の夜、森の中で読むと何だか妖精に出会える様な感じもしてきます。


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デスパレートな妻たち

2009年05月15日 | テレビドラマ(海外)
 LalaTVで放映中の「デスパレートな妻たち」にはまっている。

 四人四様のキャラクター。
 第3話「ガラスの理想」ではこんな感じ。

★スーザンは元夫のことでイライラ。
 夫に怒ることが自分を確認する手段の様だと思うが、そんな自分にも嫌悪。
 何とかその気持ちを清算しようとするが、結局喧嘩で、おまけに裸で家の外に閉め出されることに。
 そこに密かに思いを寄せているマイクが現れて。

★ガブリエルは浮気現場を見知らぬ少女に見られてフォロー。
 少女に人形を与え、自転車をプレゼントする。
 そして少女の自転車の練習につき合わされる。ハイヒールで。

★リネットは夫が出張中にハメをはずしていたことでイライラ。
 自分は子供の育児に追われているのに。
 夫に子供を相手にすることの大変さを味あわせてやろうと画策する。

 皆さん、実に人間的でいいですね。
 自分の感情や欲望に素直。
 いい人間であろうなどとは思っていない。
 第三者の視聴者として見れば、彼女らはおかしくて愚かに見えるかもしれないが、自分にだって同じ様な面がと思い至る。
 小さなことに不平や不満を感じ、ささいな欲望にふりまわされていろいろな所に頭をぶつけている。

★さて今回の主役はブリー。
 完璧すぎる妻で窒息寸前の夫。
 結婚カウンセラーに通っていることも世間体を気にするブリーの意見でテニスレッスンに通っていることに。
 それにしてもブリーは哀しいですね。
 夫が家を出て行く時も、「川沿いのモーテルの方が安い。通勤にも便利だ」と意見。
 モーテルにはプールがあるからと言って、海水パンツを夫のカバンに入れる。
 こんな非常事態でも完璧な妻なブリー。
 滑稽だが哀しい。喜劇と悲劇は裏返し。
 ブリーは自分の完璧さが夫を息苦しくしていることに気づきながらも、そんな自分から抜け出せないのだ。
 この夫が家を出て行く場面で最後はこんな感じ。
 <夫が出て行って哀しいのにベッドカバーの乱れを直してしまうブリー>。
 何かせつない。
 ブリーは夫を愛しているしすごく一所懸命なんですけどね。
 自分が持って生まれたものはなかなか捨てられない。

※追記
 この作品と同様なコンセプトの作品に桃井かおりさん、鈴木京香さんらが出た「スキャンダル」がありましたね。
 日本の現実を知っているためか生々しくてあまり洗練された感じはしなかった。


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アイシテル ~海容~ 第5話

2009年05月14日 | ホームドラマ
 第5話「意外な真相…息子の秘密」

 智也(嘉数一星)の心の中を丁寧に描いていますね。ミステリーの様に。

★大人になっていく子供の中には様々な心のドラマがある。
 子供の時代は母親がすべて。
 「あの人に近づいてはいけない」「公園のトイレを使ってはいけない」と言われればそうする。
 また自分と世界が調和しているのが子供時代。
 欲しい物を買ってもらえないなどの葛藤はあるが、基本的には世界は自分を祝福してくれていると思えるのが子供時代。
 しかし現実はそうではないと気づくのが大人になること。
 例えば橋の下のホームレスのおばさん。いきなり抱き締められて首を絞められて。
 現実は怖いものだと知る。
 母親は自分を必ずしも自分を守ってくれないと気づくのも大人になるということ。
 怖い目に遭ったのに「いつからそんな悪い子になったの!」と問いつめる母親。
 調和していた現実の崩壊。

 この目の当たりにした現実にどう対処するか?
 通常は同年代の仲間の中で克服する。
 友達と野球をやったり、ある時は不良をやったり。
 調和しなくなった現実を何とかもとに戻そうとする。
 まわりに友達のいない時はおばあちゃんであったり。
 ともかく再び世界を調和させようとする。
 しかし智也の場合は、誰もいなくて智也は心の扉を閉ざした。
 「痛い」ということを口に出さない様にした。

★こんな智也に対してさつき(稲森いずみ)。
 育児サイトに逃げていた。
 「解放の時間を邪魔する」と思って、息子の帰宅にイラついていた。
 また心を閉ざした智也のことを『反抗期』のひと言で片づけていた。
 智也と向き合うことを避けていたさつき。

 このさつきの失敗は子供を持つ親御さんにとっては教訓でしょうね。
 『自分は子供から逃げていないか、ちゃんと向き合っているか』
 重要なチェックポイントだと思います。

★最後に言葉について
 美帆子(川島海荷)はさつきに言う。
 「あんたが死んでみれば」
 突き刺さる言葉。
 言葉で人を殺せる。
 それは何気ない言葉でもあり得る。
 例えばさつきが智也に言った言葉。
 「いつから悪い子になったの?」
 母親との約束を破って罪の意識を持っていた優等生・智也には重い言葉。
 何気なく口をついた言葉でも聞く人によっては突き刺さる。

 この様に言葉は人を殺すことは出来るものですが、同時に言葉は人も救える。
 葉子(田中美佐子)はさつきに言う。
 「母親は万能じゃないんです」


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誰も守ってくれない

2009年05月13日 | 邦画
 「人の痛みを理解して背負って生きろ。それは大変でつらいことだけど」
 刑事・勝浦(佐藤浩市)のこのせりふがすべて。
 沙織(志田未来)にいったせりふだが、同時にマスコミやネットの書き込みに対するメッセージでもある。
 加害者の妹。世間の糾弾。そして母親の自殺。
 こんな沙織の痛みを考えれば誹謗中傷は出来ないはず。物事を上っ面で見るな。
 そんなメッセージ。

★ただ作劇的には疑問。
 兄や母親との関係がほとんど描かれていないから、沙織の痛みが十分に伝わらない。
 むしろマスコミやネットの書き込みの過剰さのインパクトが強すぎてそちらの方に目が行ってしまう。
 この作品で記憶されるエピソードって沙織が信じていたボーイフレンドに裏切られる所だろう。
 それは勝浦のエピソードもそう。
 妻や娘との関係は電話で語られるばかりから(この映画公開に先立ち、テレビドラマのスペシャルはあったが)、プレゼントのエピソードが活きてこない。
 
★さてそこでもう一度考える。
 この作品で描きたかったことって何だろう?
 マスコミやネットの怖さ?
 だとしたらむしろそっちに特化した方がいいと思うのだが、勝浦が向き合っているのはマスコミやネットの大魔神でなく沙織の気持ち。
 しかし前述した様に沙織の家族が十分に描かれていないから中途半端で今ひとつ。
 これでは佐藤さんや志田さん、豪華な役者さんたちがもったいないですよ。

 この作品は第32回モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞を受賞した作品らしいが、それほどの脚本か?
 て書くと脚本家さんや製作者の制作の痛みをわかっていない?
 でもこちらも映画館でお金を払って見ているのだから、駄作を見せられた痛みをわかってほしい。


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ブラザーズ・グリム

2009年05月12日 | 洋画
 あのグリム兄弟はいかさまの魔物退治でお金を稼いで生活していた!?

 この奇抜なキャラクター設定が面白い。
 ウィル(ヴィルヘルム)とジェイコブ(ヤーコプ)のグリム兄弟は作り物のモンスターを釣り糸で動かし、炎の出る仕掛けの十字架などでそれと戦い、お金をもらうのだ。
 いわばインチキいかさま師。
 そんな兄弟がインチキでない本当の魔女と遭遇、ハラハラドキドキノ戦いを繰り広げる。
 そして兄弟が後に童話で書いたことは彼らが見聞きしたことだった。

 この設定を思いついた時、製作者はやった!と思ったでしょうね。
 何しろグリム兄弟が書いた童話のイメージをそのまま使える。
 不老不死を願い魔女となった女王。
 自分が一番美しい?と鏡に尋ねる魔女。
 ヘンゼルとグレーテルや赤ずきんちゃんなども登場。
 老ガエルにキスをすれば森から帰る道を教えてくれる。

 そして兄弟が生きた時代も魅力的。
 18世紀末から19世紀にかけての時代。
 近世とはいえ中世のにおいがまだ残っている時代。
 民間伝承の中では森は怖ろしい所だし、人狼がいて、木の枝が動き、森の中に魔女のいる塔があってもおかしくない雰囲気。
 作品中でもフランスの近代合理主義とドイツの民間伝承の不合理なものの対立がある。
 キリスト教的なものと森の信仰の対立もある。
 また舞台となる街並みは城壁に囲まれ、街の中心には井戸があり、アヒルが地面を歩き、ウサギの皮を剥ぐ者がいる。
 何という芳醇なイメージ。

 「パイレーツ・オブ・カリビアン」もそうですが、これらのイメージを見られることは<目のぜいたく>ですね。
 よく出来たファンタジーはそれに浸っている間、心を遊ばせ癒してくれる。
 出来れば続編を。
 冒頭に出て来た「ジャックと豆の木」の設定でぜひ続編を見せてほしい。

※追記
 実際のグリム兄弟の長兄は言語学者だったそうですね。
 「指輪物語」の作者といい、言語学者にファンタジーを書く人が多いのは何故だろう?


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天地人 第19回「本能寺の変」

2009年05月11日 | 大河ドラマ・時代劇
 『本能寺の変』

★戦国時代、名場面のひとつの本能寺の変。
 どんな本能寺を見せてくれるかと思ったら、信長(吉川晃司)と謙信(阿部寛)の対話でしたね。
 内容はこの物語がずっと描いてきた対立軸。
 世の中を変えるのは圧倒的な力。力で立ち塞がるものを粉砕するしかないとする信長。
 「きれいごとでは世の中は直らぬ」
 それに対するは謙信。
 「天地人。天の時、地の利、人の和」
 信長には「人の和」が欠けていて、世の中を直すには<力>で押さえ込むのではなく<人の心>から変えなくてはならないと主張する。
 
 この対立、理想を言えば謙信のやり方なのでしょうが、如何せん時間がかかる。
 荒療治だが信長のやり方の方が即効性がある。

 結果、人の心を掴みきれなかった信長は凶刃に倒れたわけですが、人間の歴史とはこういうものなんですね。
 誰かがブルドーザーの様に強引に道を切り開き、後の者が整地していく(=秩序を作っていく)。
 確か司馬遼太郎さんが「花神」の中でこの様なことを言われていたと思います。
 そしてその秩序作りの中で<義>が新しい社会の価値観として使われてもいいわけですね。
 我々の戦後社会は<自由>と<民主主義>という価値観でしたが。

★さて兼続(妻夫木聡)。
 ついにお船(常盤貴子)と出会う。
 お船は魚津城のことで悩む兼続に「召し上がるのもお務めのうち」と諭し、さらに兼続の気持ちを確かめる。
 「お家のためだけに私と夫婦になったのでございますか?」
 姉さん女房でお船の方が兼続をリードしているという感じですが、こういう夫婦の形もあるのでしょう。
 ここで亡くなった前夫・信綱について兼続、お船がどう考えているかを描けば、物語は深くなったのでしょうが、脚本家はこれを避けた?
 この辺がこの作品の浅くて物足りない所です。
 結果、夫婦物語としてきれいにまとまったという感じですが、人間、きれいな思いばかりではありませんからね。
 やはり物足りない。

※追記
 今回は初音(長澤まさみ)が活躍。
 鈴が鳴り、布が敵の首に巻きつく。
 ぜひ金曜9時の「仕事人」に登場してほしい。


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誘惑のアフロディーテ

2009年05月09日 | 洋画
 『人生は奇想天外で何が起こるかわからない。だから素敵で面白い』

 これをテーマにした作品。
 レニー(ウディ・アレン)はスポーツ・ライター。
 妻アマンダ(ヘレナ・ボナム・カーター)はひとりの少年を養子にもらう。
 その子供の母親を捜していくと母親は娼婦のリンダ(ミラ・ソルヴィーノ)。
 レニーはリンダのために奮闘して……。

 ウディ・アレン自身が出演する作品では<人生を前向きに肯定する>というテーマが多いですね。
 ウディは常に『人生は厄介で困難だが、奮闘すること自体が素晴らしい』というメッセージを送っている。

 ここで大切なのは今回の主人公レニーを始め彼が演じる主人公達が皆、他人のために一生懸命だということ。
 リンダの場合は娼婦生活から抜け出すように言い、娼婦の元締めのギャングと直談判し、新しい恋人も世話してあげる。
 新しい恋人とのことはリンダの過去の素性がバレそうになって冷や冷や。
 そしてウディはこうしたレニーの奮闘は見ていて滑稽だが、奮闘すること自体が素晴らしいことだと言っている。
 奮闘しなければ何も生まれないからだ。
 少なくとも奮闘をすれば思い出は心に刻まれる。
 
 このことは次の物語の展開にも。
 リンダと新しい恋人の関係はリンダの素性がバレてダメになるのだが、折しもレニーの妻アマンダが浮気をして、傷ついた者どうしのレニーとリンダが一夜の関係を持ってしまうという展開。
 レニーとリンダが<傷ついた>という点で心が結ばれた瞬間だ。
 それは一夜のことであっても<心が結ばれた>という事実は変わらない。
 これもすべて<奮闘>の結果。

 ウディ・アレンの映画は<奮闘しましょう>ということをテーマにしている。

※追記
 ラストの神々の歌。
 ミュージカル・ナンバー『When You're Smiling』らしいが『微笑みかけましょう。そうすればまわりも微笑みかけてくれる』というメッセージもなかなか。
 人生で大切なこととは「神がいるか」「人生の意味は何だ」といった難しいことでなく、案外こういう単純なことなんですね。


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おくりびと

2009年05月08日 | 邦画
★納棺師という仕事は亡くなった方と生きている者を再び結びつける仕事なんでしょうね。
 遺体に化粧を施して生前の姿をよみがえらせる。
 そのことによって生きている者は死者と過ごした日々を思い出す。
 遺体は死体でなく少し前まで自分の側にいた身近な存在になる。
 納棺師が遺体を丁重に扱うのもそう。
 死者が苦しみもがきながらも人生を全うした敬うべき存在であることを教えてくれる。
 生きている者は「お疲れ様でした」と声をかけることができる。
 遺体に足袋を(時にはルーズソックス)を履かせるのもそう。
 生きている者は「死者がこれから旅だっていくのだ」と気づかされる。
 
 納棺師の所作ひとつひとつによって生きている人間は亡くなった人間と向き合えるのだ。
 そして死者もまわりの人間のそんな温かさに包まれて死んでいくことが出来る。
 納棺師は亡くなった方と生きている者を繋ぐ。
 儀式というのはこの様に意味のあったものなんですね。

★生きるということ
 この作品は死を扱いながら生きるとはどういうことかを教えてくれますね。
 印象的なのがガツガツ鶏肉をかじる大吾(本木雅弘)と社長の佐々木(山崎努)と余貴美子さんの女性事務員。
 まるで動物の様。
 でも生きるということは食欲を満たすためにガツガツ食べることなんですね。
 そして悲喜こもごも。
 遺体役でビデオに出るのも、意見が対立して妻に出て行かれるのも、自分の将来について悩むのも生きるということ。
 食べて、バカやって、泣いて、悩んで、怒って。
 体中のエネルギーをガンガン使って。
 それらが人生。

 そして人生の意味とは?
 大吾は父親の遺体を前にして「この人の人生とは何だったのだろう? 段ボールひとつ残しただけの人生だったのか」とつぶやく。
 しかし父親が残したものは他にもあったんですね。
 それは大吾であり、美香のお腹の中の子供。
 人は生きて何かを残す。
 それは子供でなくても善意であったり、石にまつわるエピソードであったり、納棺師の技であったり。
 それが人生の意味?

 この作品は<死>を通して、生きるとはどういうことかを教えてくれる。
 ガツガツ鶏肉を食べましょう!!


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