地域縁尽倶楽部 なになに寫眞帳

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街角風景~神社由来文

2018-07-25 09:01:00 | 日記
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記録保存 「岩手山神社由来」
       (出典:神社前説明文から文字おこし:一部無断校正した)

 『旧新山小路には 「新山堂」(シンザンドウ)と称する岩鷲山大権現(ガンシュウザン ダイゴンゲン)の遥拝所があった。「新山」というのは 本山に対して新しく神霊を勧請(カンジョウ)して祀った神社に名付けたもので 岩手山麓の 岩手山神社本社に対して
城下に建立した遥拝所を新山堂と呼んだものであった。
 一般には「お新山さま」「おしんざんさん」などと親しみを込めて呼ばれていた。



 寛永三(1626)年 南部家第27代(盛岡城主2代)利直公が建立しそののち 慶安元(1648)年に第28代重直公が再建したと伝えられており 盛岡の城下町開町とともに 身近な存在として親しまれてきた堂社であった。

 毎年7月7日の祭礼には 地元はもとより 三戸町 長町 材木町など 近隣の町内が連合して 賑やかな夏祭りを催したものであった。

 明治二(1869)年になって 「新山堂」は「岩手山神社」と改称された。
 昭和45(1970)年頃 都市計画により仁王地区の区画整理事業が施行され 新山小路から近傍の現在地に移転した。』


以下…感想など:
 寛永三年は 大坂城夏の陣(1615年4月)から ほぼ十年過ぎた後。それから現在までは ほぼ390年間 この祠は 地域の人々と共に過ごしてきている。また 明治二年の年は戊辰戦争に敗れ 時の筆頭家老が処刑(6月)された年である。
 明治以降150年 引越しなどにもめげず現在に至るのだが 時代背景を思い起こしながらこの文書を読んでいるうちに…この間 長かったのか短かかったのか の時間感覚と 本質的に成長しているのか がわからなくなってしまう。
 時代を通し 一般民衆は つつましく平穏な生活を「強く」願っていたことを確信させる空間であることは 祭事の用具や獅子頭などから 感覚的には実感できるのだが…今は…はて?。
 ある歴史学者曰く 「歴史学の最新の成果に基づく歴史像と 一般国民が抱く歴史像のあいだには 大きな開き 溝がある…(以下略)」という旨の指摘のご意見も 傾聴の価値大なるものがある。
 近現代に比し 江戸期の250年に注目しながら 今から百年先を夢想すると すごく眩暈するほど長い時間に感じてしまうのは どうしてだろうか?…と 詮無いことを思うのでありました。              <長駄文 ひらに御容赦 m(__)m > 

コメント
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