小泉首相が「今国会に提出し、成立を期す」(一日)と明言している皇室典範改定について閣僚を含めて自民党内から異論が続出。首相や執行部が対応に追われる事態となっています。女性・女系天皇を容認する改正案に対し“男性・男系尊重”の立場から反対が相次いでいるためです。天皇の地位は現在の憲法のもとでは主権者である「日本国民の総意」(第1条)に基づくことになっています。天皇の性別を検討するまえに、国民すべて法の下に平等という人権原理(第14条)に矛盾する天皇の地位について私たちはどう考えたらよいのでしょうか。
「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(憲法第2条)ことになっています。新皇室典範は戦後の新憲法制定に伴い国民主権の精神から憲法の下位である法律のひとつとして新たに制定されました。新皇室典範第1条は「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」として旧典範の男系男子の原則を引き継いでいます。戦後の一般国民の男女平等にからめて、庶子は認められない、女帝を認めたらどうかとの議論もあったようですが、男系男子の歴史的伝統(過去の女帝はあくまで臨時措置であり、女帝が退位した後は必ず男系に戻っている)を尊重したということです。
女性の天皇を認めないのは憲法14条の男女平等に違反するとの議論は、天皇が国民の一人だという前提にたったもので、天皇が国民でなければ憲法第三章「国民の権利及び義務」(第10条~第40条)の諸条文は適用外ということになります。
主権が国民にあることが宣言されている日本国は国家形態的には共和制です。しかし、日本が共和制ということに、なんとなく違和感をもつ国民も多いのではないでしょうか。敗戦と占領をつうじて、明治憲法から現行憲法に代わり、天皇の地位が神聖な主権者から非政治的な象徴にかわっても、同じヒロヒト天皇が天皇であり続けたため、国家形態の変化が国民の目には、はっきり写りませんでした。天皇を政治的に利用しょうとする勢力は、この変化をことさら曖昧にしてきました。天皇の戦争責任の曖昧処理は、小泉首相や麻生外相に見られる現代日本の外交の手を縛ることにつながっています。
国民主権の原則に対して例外となる天皇の規定は、規定どおり厳格に、制限的に解釈されなければなりません。かなり早くから、日本は天皇という特殊な制度をもつ共和制だと言った憲法学者(故鵜飼信成)がいます。日本共産党はこの観点から綱領の天皇条項を整理しました(04年1月)。天皇には「国政に関する権能」がないのだから、皇室典範の改定で女性天皇が誕生してもどうでもかまわないとも言えます。
女帝を認めた場合には皇配殿下をどうするかが問題になります。限りなく世俗化すれば天皇制の消滅につながります。宮内庁や皇室典範改定反対派が最も危惧するところでしょう。「側室制度」を廃止し、市民社会の一夫一婦制度を導入した段階で、男系の承継者が消滅する危機が始まりました。次第に形骸化する天皇制を維持することにどれほどの意義があるのでしょうか。ただし、天皇制の廃止には憲法改正が必要なことは確かです。
「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(憲法第2条)ことになっています。新皇室典範は戦後の新憲法制定に伴い国民主権の精神から憲法の下位である法律のひとつとして新たに制定されました。新皇室典範第1条は「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」として旧典範の男系男子の原則を引き継いでいます。戦後の一般国民の男女平等にからめて、庶子は認められない、女帝を認めたらどうかとの議論もあったようですが、男系男子の歴史的伝統(過去の女帝はあくまで臨時措置であり、女帝が退位した後は必ず男系に戻っている)を尊重したということです。
女性の天皇を認めないのは憲法14条の男女平等に違反するとの議論は、天皇が国民の一人だという前提にたったもので、天皇が国民でなければ憲法第三章「国民の権利及び義務」(第10条~第40条)の諸条文は適用外ということになります。
主権が国民にあることが宣言されている日本国は国家形態的には共和制です。しかし、日本が共和制ということに、なんとなく違和感をもつ国民も多いのではないでしょうか。敗戦と占領をつうじて、明治憲法から現行憲法に代わり、天皇の地位が神聖な主権者から非政治的な象徴にかわっても、同じヒロヒト天皇が天皇であり続けたため、国家形態の変化が国民の目には、はっきり写りませんでした。天皇を政治的に利用しょうとする勢力は、この変化をことさら曖昧にしてきました。天皇の戦争責任の曖昧処理は、小泉首相や麻生外相に見られる現代日本の外交の手を縛ることにつながっています。
国民主権の原則に対して例外となる天皇の規定は、規定どおり厳格に、制限的に解釈されなければなりません。かなり早くから、日本は天皇という特殊な制度をもつ共和制だと言った憲法学者(故鵜飼信成)がいます。日本共産党はこの観点から綱領の天皇条項を整理しました(04年1月)。天皇には「国政に関する権能」がないのだから、皇室典範の改定で女性天皇が誕生してもどうでもかまわないとも言えます。
女帝を認めた場合には皇配殿下をどうするかが問題になります。限りなく世俗化すれば天皇制の消滅につながります。宮内庁や皇室典範改定反対派が最も危惧するところでしょう。「側室制度」を廃止し、市民社会の一夫一婦制度を導入した段階で、男系の承継者が消滅する危機が始まりました。次第に形骸化する天皇制を維持することにどれほどの意義があるのでしょうか。ただし、天皇制の廃止には憲法改正が必要なことは確かです。
憲法第一条は、日本国民の総意に基づき、お気に入りの何かを、日本国の象徴兼日本国民の統合の象徴に決定する、日本国民の権利を明示する。
総意とあるのは、多数与党が、お気に入り典範をいじくってお気に入りをすり替えない為である。
行政の長と司法の長は、就任に当たり、国民の選んだ、象徴に対し、土下座をし、もって、主権の存する日本国民に土下座した事とし、権能を得る。国会は開閉に当たって、この土下座をおこなう。
ニャンコ人形に土下座するのが嫌で、衆院の三分の二で、ニャンコ人形とはワンコ人形であると決議しても、ニャンコ人形典範が違憲となるだけであり、ワンコ人形に三権が土下座しても、ニャンコ人形に土下座しない限り、主権の存する日本国民に土下座した事にならず、日本国民は三権に対し権能を付与した事にはならない。万世一系が憲法第一条で選ばれている場合も同じ。
万世一系への土下座が嫌なのは勝手だが、土下座しないのなら、一条改憲運動をするか、三権の仕事に就かないかどっちか。
万世一系を象徴とする事が主権の存する日本国民の総意であり、日本国憲法の発効をもってポツダム宣言の履行が完了したと認定したのは連合国。承認はサンフランシスコで行われた。
万世一系を象徴としたのが日本国民の総意である事は、国際社会の認定と承認によるものと、重く受け止めるべきである。
日本国民及び日本国が日本人とその国であるとするのは、憲法第一条において万世一系を象徴に選択している事を根拠とする。万世一系が象徴であるため、少なくとも父方が恒に日本である事を憲法が規定している事は意味がある。
この意味においても、衆院三分の二による皇室典範の改変により、万世一系を改変するような事はあってはならず、憲法第一条に照らし違憲である。
象徴と憲法の規定する人権の整合をはかるのは、一つの見識ではあるが、立法によるものと改憲によるべきものは峻別されるべきである。
最高裁始め三権の権威は思いの他失墜し、国民が進んで従う事に対し屈辱感を抱きつつある。三権の象徴への土下座が、主権の存する日本国民への土下座に他ならね事を銘記し、信頼の回復と土下座に励んでもらいたい。
憲法第一章を形式的なものとするか、国民の主権という権力と国権の三権力との、権力と権力の間の従属関係を規定するものかでは、意外と大きな差が生じるのではないかと思いますが如何でしょう。
前者では
憲法前文の
「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」は代表なら権力を行使出来る、福利があったら、国民のもの。国政選挙によってのみ、権力の行使は正当化される。法令に基づく、三権の権力の行使は、主権の権力の行使である、ちと怖過ぎる。
後者では
「その権力は」国民(の何かとしたら国民の福利?)のため「国民の代表がこれを行使し」と理解しやすいのではないかと思います。
こちらだと、代表による権力行使の正当性は国政選挙の結果のみによるのではない。権力行使の動機においても正当でなければならない。権力は国民のために行使されるのでなければ、代表による権力行使は正当ではない。三権の権力の行使はつねに国民のために成されなければならない。法令上裁量の余地がある場合は、国民全体(の福利?)の優先がなければ、正当ではない。その上での
憲法第十五条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」である。
ちと安心できる。
主権と国権の関係を権力と権力の関係と見ると、
就任、宣誓より、
任命、召集、解散の方が上下関係としては厳しいように私には思えます。