Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

天下分け目の戦いを感じる歴史ウォーク Ⅰ

2017-06-02 21:50:12 | まち歩き
所属している会の初めての企画です。 毎回関ヶ原周辺を舞台に自然観察会を行っているわけですが 気になっていました。 
駅を降りると否応なく史跡を案内する標識が目につきます。 特に近年関ヶ原町は歴史ウォークに力を入れているようで ボランティアガイドも頼めるとか
それなら一度しっかり歩いてどんなふうに歴史が動いたのかその場に立って感じてみたい・・・そんな思いからの企画です。

とても良い天気に恵まれました。(暑くてたまらんということですけれどね)
天下分け目の戦いは9月15日ですから ちょっと季節が違います。
感じ方に影響はあるでしょうか?

ガイドに地元の吉沢 広幸氏を頼みます。
まず関ヶ原町の歴史博物館に向かいます。
壁画に描かれている 関ヶ原合戦屏風図を見て概要をつかみます。

時間の経過を無視してそれぞれの合戦の場面を描いてあります。ドラマが満載の屏風図です。知らないで見ていると確かに大戦です。
またこの屏風図は井伊家がお金を出して描かせているので赤揃えが目立っています。
場面場面を歩きながら辿っていくことにします。

関ヶ原は古来から交通の要衝です。交差点になっている場所は中山道 伊勢道 北国街道が交差しています。かなり昔から歴史を見つめてきた場所なのです。
今回天下分け目の戦いを見て歩くのですが 壬申の乱 日本武尊などの史跡と言われる場所にも遭遇します。
天下分け目の戦いの時間を追って歩くわけにいきませんでしたので 何度も確認しながら歩きます。


資料館の横は陣馬野公園 徳川家康最後の陣跡です。 初めに関ヶ原の入り口桃配山に陣を取っていた家康はここに来て松尾山の小早川秀秋に向けて発砲をしました。

石田三成の笹尾山や松尾山からとても良く見える場所です。

ちなみに桃配山の名前の由来は壬申の乱に由来します。 この山に陣取った大海人皇子に村人が桃を配ったことにから名前がついたそうです。 
この場合の桃はヤマモモですが悪を退散させるといういわれもあり縁起のいい名前です。
三成がこの山のことを知っていたら 戦況は変わっていたのでしょうか?


床几場
ここで首実検をしたのだとか。
関ヶ原戦勝ののち竹中家に命じてここを整備させて 一つの聖地にしたそうで参勤交代の折は中山道からここまで入って一礼してからさきを急いだそうです。
そのころには徳川家康は大権現様ですからね。


電柱にはこんな風にたくさんの武将の名前が紹介されています。 見ているだけでも楽しいです。


左手前の小高い山が笹尾山です。石田三成の陣があったところです。
名前の通り笹野生い茂る山だったそうです。
今では整備されて 幟も立っています。


田圃を挟んで向こうに見える山が松尾山です。小早川秀秋がここでじっとしていました。
私たちは陣を張るということは山の中にひっそりと息を殺してその時を待つのだと思い違いをしていましたが 実際は山頂の木をすべて切り倒し 平地にしてしまうのだそうです。
そうしないと火をつけられたら大変なことになる。
盆地にも山にも兵士がいっぱいという様子を想像すると怖いですね。


笹尾山ふもとにある決戦地
実際にはもう少し畑の中だったそうですが 区画整理で邪魔になったのでここへ移したそうです。
総兵力では優勢にあった西軍でしたが 南宮山に陣取る毛利秀元は東軍にひそかにつながっている吉川広家に進路をふさがれ 安国寺恵瓊らも動くことができない。
そんな中での小早川秀秋の裏切りは西軍が総崩れになるきっかけを作り 何日もかかると言われた天下分け目の戦いも半日ほどで決着を見たのです。


馬防柵です。
鉄砲隊がここから迫りくる敵を狙うわけですが 当時の鉄砲は120メートルほどしか飛ばなくて 飛んでもどこへ行くのかよくわからない。 
20メートルほど近づかないと効果がなかったそうです。それも3割ほど・・・ 効率の悪さのびっくりしました。
それでも当たれば破壊力はすごい。
怖い武器だったのでしょう。


関ヶ原のボランティアさんでしょうか?
大砲を打ってくれます。
ずどんと盆地に響く音はなかなかのもので私も持っているカメラを落としそうに震え上がりました。
こんな音があちこちでしていたら やっぱ震え上がります。
田圃に群がる鳥を追い払う効果もあるようでした。


きっと石田三成も見たであろう景色は 右手前に天満山 奥には松尾山 左奥には南宮山が見えます。 
その麓にあたるところに桃配山が見えます。天下分け目の戦いの舞台です。

ここには石田三成に忠義を誓う島左近の陣跡もあります。

しばしここで起きたドラマを想像しながらお昼休憩です。

この後下に降りて松尾山の方向に向かいます。







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5 コメント

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歴史に疎いから (hide-san)
2017-06-03 09:53:22
旧中山道を歩いた時、街道の松並木道の先に、
関が原がありました。

関が原古戦場は、見学するのに一日掛かりました。
歴史博物館も行きましたが、
ここで壬申の乱を覚えました。
どうしてこんな戦をしただろうか、やっと理解できました。

板橋宿に秀家のお墓があったため、宇喜多秀家の陣も見ました。
夏の田んぼのあぜ道を思い出します。
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歩いてわかること (ろこ)
2017-06-03 10:26:32
こんにちは。
 わぁ~。すごくわかりやすいですね。
 こうして歩いて、説明を聞きながら眺めると、机の上で歴史書を読むのとはまるで違うリアルな光景が目に浮かびます。
 関ヶ原近くになると、体が寒くなると言った人がいましたが、大勢の人が合戦で亡くなったのでしょう。
 
 私は先日今川義元が織田信長に首をはねられた桶狭間に行ってきました。
 敗けたものというのは、みじめなものですね。
 その場は、とても歴史上のものとは言えないほど、荒涼として何もないみじめなもので、驚きました。
 今川義元の墓も、ひっそりと、道路に沿ってポツンとありました。
 百聞は一見にしかず。
 やはり現地を歩いてみるに限りますね。
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hide-sanそうでしたね (どら)
2017-06-03 21:06:37
hide-sanの中山道歩きはとても丁寧に歴史のことが書いてあったので 絶対歴史がお好きなのだと思っていました。
古戦場は広いので全部回ると一日でも難しいかもしれません。 一日で回られたとはさすが健脚のhide-sanです。
関ヶ原は古くから交通のかなめだったのですね?
壬申の乱の話も驚いたのですが 地名に黒血川 とか青墓とか残っているし ヤマトタケル伝説もいっぱいあって関ヶ原の戦いなどはついこの間のような気がするほどです。
宇喜多秀家は気の毒でした。それでも井伊直虎の努力があって温情ある戦後処理がされたことはうれしいことでした。
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ろこさん (どら)
2017-06-03 21:16:27
本当ですね? 歩いて感じることはいっぱいあります。
関ヶ原といっても石碑しか残っていなくて いろんなお話を聞きながらその場のたって感じるところに歴史ウォークのだいご味があります。
関ヶ原で体が硬直したことはありませんが 首塚などはいい気持ちがしませんでした。
累々と横たわる屍に村民たちは畏敬の念を持って手厚く葬ったとのことでした。
ガイドさんも「まだ国に帰れないでその辺にいる霊を国へ連れて行ってあげてください。」と
怖いというより 「一緒に帰ろ」と思いました。
今日 明日と桶狭間ではお祭りをやっていますね
混雑は苦手なので お祭りのときには行ったことはありませんが あれだけの強大な力を持った今川氏はなぜ滅びたのか?
興味あるところです。
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hide-san間違いです (どら)
2017-06-03 21:33:42
直虎ではなく 直政でしたね?
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