天王山という言葉は 今勝敗や運命の分かれ道を表わす言葉として使われている。 明智光秀と 秀吉が京都の南部の山で戦い 光秀が敗れたことによって秀吉が天下取りの道をまっしぐらに歩くようになったのに由来している事は誰もが知っている。
あのとき もし 秀吉が朝鮮出兵にまだ色気を出していたら もし光秀に味方するものがもう少し多かったら・・・ もし 農民に竹槍で刺されなかったら・・・
もしを連ねてみても仕方ないけれど 時代は ずいぶん変わったものになっていたに違いない。 また光秀を 惜しんで 本当は生き延びて天海僧正になったとかいう伝説が生まれるのも 不思議では無い。
そんな道を 光秀を偲びながら歩いてみた。 場所は 山崎駅から宝積寺 境内の中にある登山口を登り 山崎の合戦の舞台旗揚げの松 酒解神社 を通り山崎城址へ 長い長い尾根をひたすら下り 紫陽花の寺楊谷寺まで
とても優しい道だった。天王山までは 観光地を歩く気分。 宝積寺はとても立派なお寺。 仁王門 三重塔 本堂 閻魔堂 不動堂 小槌堂などを備える山崎で一番大きなお寺だとか・・・小槌堂 ここはあの一寸法師が家での小槌で大きくなってから 修行をした場所なんだって(って本気になってもおかしいけれど)
今日登った道は京都自然二百選に選ばれているそうで 実に緑が綺麗だった。
この辺は竹細工で生計を立てているのだろうか ずっと竹林が続く。
長い丸太階段をジグザグしながら 登っていくと 物資を運ぶためのものかレールが一本登山道の左を 一緒に登っていく。
青木葉谷広場 に寄ってみたが まだ休憩をする気にもならず 山崎の合戦の説明と 堺屋太一の文の一部が書かれている碑を読んで先に進む。
旗立の松。秀吉がここにたくさんの軍旗を並べて一気に攻めたといわれる場所。 ほんの少しだけ展望が。 町の様子がまったく分からない私にはさっぱりだけれど比叡山とか大文字山が見えるらしい。
酒解神社の鳥居がある場所に立つと 緑が綺麗。 ここから緑の中に突入。
緑の中を進むと17烈士の墓 立派なお墓がでんと真ん中に構えていたけれど この17人は山崎の合戦には関係ない。明治維新の頃の人らしい。 残念ながら知らない人だった。
お墓の回りを回って先に進むと酒解神社が・・・
丁度神社を修復されているのか何人かの職人さんが仕事中。
この神社元々麓にあったのを ここに移したのだそうで 創建は717年 此の地に移されて山崎天王社となり この山を天王山と呼ぶようになったらしい。
立派な神社だけれど 老朽化なのか 見た目は綺麗だけれど 屋根は波打って 痛みも激しい。 文化財はメンテナンスが大変。
竹林はますます深くなり 緑の中は気持ちよい。何度も立ち止まり 立ち止まり。
左に天王山へ登る分岐が現れる。 往復10分もあれば行ける道(いや 5分かも)空堀とかの気配は無かったけれど 斜面を登っていくと 広い場所が二つ。 一つには更に小高い場所があって ここが頂上だけれど お城があった頃には 天守閣?
敷石らしきものがあちこちに散らばっている。 頂上に立って見渡すと 足もとにトラックのようにぐるぐる幅のある平地がついている。 何の後だろう? したの広間に降りてみると こちらは広い。 居住場所だったのかな?
傍らに井戸の跡。 説明を読んでみると 山崎城は秀吉が山崎の合戦の後に作ったものらしい。
ここまで見て時間を見るとまだ11時半前 おなかも空かないので先を急ぐことにする。 頂上に登る道を戻って分岐に立つ。
今度は 緩やかだけれど 長い尾根歩きで 楊谷寺に向かう。 紫陽花咲いているかな? ここまでまったく花とは無縁の山歩きだったからね。
写真を見ると、天王山もずいぶん急坂のようですね。
どらさん!元気を取り戻しましたね!
山登りは ウィルスの様なものと言われたことがあります。初めは辛くても3度も行くと 完全にウィルスに冒されて 止められなくなるそうです。
ゆっくりゆっくりがコツ。 最後まで疲れないように 長く休まないでゆっくりゆっくり・・・私はこれで持久戦を乗り越えます。
時々空間の美しさを体いっぱいに感じながら。
旧道を神足近辺からいくと、だんだん狭くなって山崎あたりでは車ですれ違うのもゆっくり行かないといけないぐらいでした。
ここは淀川を挟んだ対岸の山もせり出して、明智光秀がおちのびるとききっと野武士にねらわれたでしょうね。
一般的には天王山で破れたと思われているけれど・・・
お散歩に気持ちの良い山でした。地元の人がたくさん ペットボトルのお茶を片手に 散歩のように歩いていらっしゃいました。緑がとても綺麗でした。紅葉に筍に 松茸 季節の変わる度に歩いてみたい・・・って 松茸持って行きませんよ。