gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

白頭翁湯と芍薬湯の比較

2012-11-22 00:15:00 | 漢方市民講座

芍薬湯(しゃくやくとう 素問病機宜保命集)

出典の素問病機宜保命集は「保命集」と略記されることもあります。金代中期頃の劉完素(りゅうかんそ)(11201200)の方剤とされます。したがって、傷寒論、金匱要略{張仲景150?-219}より約1000年の後世になります。

白芍 甘草 当帰 木香 檳榔子 大黄 黄芩 黄連 肉桂

白芍、甘草、当帰は行血和営緩急止痛、木香、檳榔は行気導滞、大黄は清熱解毒及び去積導滞に作用します。大黄は湿熱の邪による下痢に対し、その邪を早期に腸から排泄させる「通因通用」の原則に従うものです。黄芩、黄連は清熱燥湿し作用し、肉桂は苦寒傷中を防ぐために配合されています。大黄 黄芩 黄連三黄瀉心湯(張仲景 金匱要略)そのものですね。もう少し方剤の詳細を述べれば、白芍1521g、当帰9g、黄連69g、檳榔子6g、木香6g(後下)、炙甘草6g、大黄9g(後下)、黄芩9g、肉桂25g(沖服)となります。方剤論的には、芍薬が君薬、黄芩 黄連が臣薬、大黄 木香 檳榔 肉桂が左薬となります。芍薬と当帰は調和営血に、肉桂は苦寒薬に対し反佐として働きます。

このようにして、苦寒薬、涼薬、温薬の配合を色分けしてみると、バランスが取れている感じを受けます。劉完素は金元四大家の草分けで、寒涼の薬をたくさん用いたので、後世「寒涼派」と呼ばれていますが、浅学の私からすれば、「寒涼派」らしくもなく、当帰 木香 檳榔子 肉桂の温薬を四薬も使用しています。苦寒薬の中に、肉桂などの温薬を配伍すると、苦寒薬を人体が拒絶しなくなり、受け入れ易くなるのではないかとも考えますが、病状からの視点では、後述の張仲景の白頭翁湯が、アメーバ赤痢、細菌性大腸炎(赤痢を含む)などの急性期に用いられたと推測できるのに比較して、やや慢性化した痢疾、たとえば、現代の潰瘍性大腸炎の如き病状にも応用が可能な方剤と理解もできるのです。調和気血 清熱解毒の効能は、やや慢性化した痢疾に対するものと感じます。

では、劉完素より1000年さかのぼって、張仲景(ちょうちゅうけい)の白頭翁湯と比較してみましょう。

白頭翁湯(傷寒論):白頭翁15 秦皮12 黄連6 黄柏12

熱毒痢の方剤です。白頭翁は清熱解毒涼血に作用し君薬で、黄連 黄柏が補助する関係で、清熱解毒収渋止痢の秦皮が加わっています。苦寒薬一辺倒の方剤で、解りやすいですね。中焦の陽気の保持を要(かなめ)としていた張仲景でも、必要とあらば、苦寒薬だけの創方もしていたわけです。

金元四大家の草分けの劉完素(1120?-1200)は弟子に調子和(11561228)、張元素{後世、脾胃派と証される李東垣(11801251)が一時師事}、後世、滋陰派として名高い朱丹渓も劉完素の流れの羅知悌(12381327頃)に師事していた歴史を振り返れば、臨床医学は独学では修得不可能であるということです。劉完素が三黄瀉心湯を応用できたのは医書「金匱要略」から学んだのでしょう。あるいは、師とした陳希夷より教えられたかのいずれかであろうと思います。

現代西洋医学の臨床では、医薬史上、画期的とも言えるペニシリンが実用化されたのが1942年であり、アメーバ赤痢の治療がある程度確立されたのが、テトラサイクリン、メトロニダゾールの開発後であることからしても、3世紀~12世紀の中国で、医家が一定の治療成績を残したという史実には驚かされます。

スライド 張仲景 1000年後の 劉完素

張仲景の晩年は中国後漢末期の208年の赤壁の戦い以降に相当しますし、1000年後の、北宋で生まれた劉完素の一生は幼年時代から、金が北宋を滅ぼした後の金朝の民としてのそれでした。

ドクター康仁 記

張仲景は70歳弱、劉完素は80歳弱までの天寿を全うしました。当時の世界レベルでは長寿に入るのではないでしょうか?それに生前は現役医師そのものでした。長寿、仕事ぶり、ともにあやかりたいものです。

Jpeg