かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞 309

2016年04月30日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)127頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

309 親戚の皆集まりて撮りしときフラッシュひとつ死を呼ぶごとし

         (レポート)
(解釈)親戚がみんな集まって、集合写真をとる場面。一枚の集合写真を撮ると、また誰かが亡くなり、また次の集合写真の場面が来るようだ。
(鑑賞)光がひとつ光ると、死を呼ぶ、という下の句は、原爆の喩のようにも思った。(真帆)


      (当日発言)
★これも上手いなあと思います。さっき鈴木さんが言われたように光と影があって人間は存在する、これもフラッシュがたかれて、
 影を失った人が次に死ぬ。年の順に死ぬとは限らないけど誰かが次に死ぬわけですから。(慧子)
★死と生って連続性があるんですね。日常性の中に死があるとそういうことをうたっていらっしゃる。親戚が集まるのは死者を悼
 むそういう場なんですけど。そこに写真というものを登場させて異質なものを詠んでいる。(石井)
★この「ひとつ」はどちらに掛かるんですか?フラッシュが「ひとつ」か?「ひとつ」の死を呼ぶのか?(真帆)
★両方に掛かるんじゃないですか。フラッシュが「ひとつ」たかれると「ひとつ」の死を呼ぶ。
 私はこの歌を読むと小高賢さんの次の歌を思い出します。〈一族がレンズに並ぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて〉『耳の伝説』
(1984年)お父さんのお墓の傍にお母さんが立って、そのお母さんを囲んで一族が写真を撮っている。墓石にはお母さんの名
 前が赤い文字で入っている。そしてこの歌では次の死とは言っていないけど、次にお母さんの死が来ると充分想像させる。わり
 と似た状況の歌ですが、小高さんのはあくまで現実に即してリアル。松男さんのは下の句でぱっと次元が移動する感じですね。
      (鹿取)


渡辺松男の一首鑑賞 308

2016年04月29日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)127頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

308 いたずらにからだを張りてしまいたる柘榴が口をあけて実れり

      (レポート)
(解釈)無用に体を張って頑張ってしまった柘榴なのだろう。ぱっくりと口をあけて、実っている。
(鑑賞)上の句は、職場で精魂つかい尽くした作者とも、治療で苦しむ作者ともとれる。口を開けた放心状態でいながら、木に実っているのが切ない。(真帆)


      (当日発言)
★童話で腹が裂けてしまった蛙の話がありましたが、それを思い出しました。いたずらに体を張ったりしない方がよいと。(慧子)
★私には柘榴って非常にグロテスクなイメージがあります。それが実っている状態。人間でしょうか?(石井)
★無様ながら、それが世界に適応している形という。(慧子)
★仕事で成功しているんだと思います。(M・S)
★ふつう柘榴って口開けてはらわたを出してとか悲惨な感じですよね。それを体を張るという。それは成功したかしないかではなく
 て、ただ口を開けて実がなっているよという。(鈴木)
★ユーモラスに歌っていますよね。この歌は社会的な成功とか失敗とかは関係なくて、おまえ頑張っちゃたねって。滑稽だけど一
 生懸命で楽しい姿。(鹿取)
★私は、おいしい実りを得る為には体を張らないとダメだよと教えている歌と思います。(M・S)
★歌の解釈は個人の自由ですけど、歌は倫理とか教訓ではないので。まあ、そう思って歌作ってい る人も希にいるかもしれませ
 んが、松男さんの歌は倫理とか教訓とは無関係です。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 307

2016年04月28日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)126頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

307 わずかなる隙間が壁と本棚のあいだにありてうつしよ寒し

      (レポート)
(解釈)壁と本棚はぴたりとは付いておらず、間にかすかな隙間があるのを見つけた。見ていると、現実のこの世が思われ、つくづくと寒ざむしい心地になった。
(鑑賞)「壁と本棚のあいだ」に象徴されるものを考えた。壁というと、村上春樹がエルサレム賞を受賞したときの式典スピーチで言った、「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」を思う。これは2008年のことだから松男さんの歌の方が先だが、そんな「壁」が、社会での自分に立ちはだかるもののように捉えられ、「本棚」は自分の文学と捉えられ、仕事と短歌などの文芸の活動のなかに、それは一体化はされていなくて、どうしても隙間がある。二つは磁石の+と-のように、くっつこうとしてもくっつかない。それが本当に寒ざむしいことだなあ、と思っている歌だと鑑賞した。(真帆)


      (当日発言)
★家具を壁面に置く時、少し隙間を空けるんですよね。ものが倒れないために。その隙間を「うつしよ寒し」と持ってきた、その
 飛び方の感覚が素晴らしいと思います。(慧子)
★「うつしよ寒し」はいろいろ想像させますよね。本だから知恵とか人間の営みとかが文字と して書かれている。それと壁は何
 を象徴しているのか、現実でしょうか?その間に隙間があ って、やはり現実は寒々としている。(石井)
★真帆さんが葛藤とかそんなものを詠み込まれたと鑑賞されましたが、それもいいなあと思いまし た。(慧子)
★生活と形而上学的なギャップを詠んでいる。(鈴木)
★ちょっとした隙間からこういう歌にされるところが凄い。(石井)
★いろんな読み方がありますが、私はわりとそのまま取りました。つまり壁と本が何かの象徴とは とらない読み方です。でも、
 「うつしよ寒し」のところで形而上的な思考になる。そこは皆さ んと同じです。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 306

2016年04月27日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)126頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

306 点滴の間にうかびたる銀漢の遠くに杉は凍裂をしぬ

     (レポート)
(解釈)点滴をうたれている間に作者は天の川を見た。そのずっと先に、一本の凍裂してしまった杉が見えるという。
(鑑賞)あまりの高熱にチカチカしてしまうのかもしれない。冬の木が凍り、内側の水分が凍り、膨張し、身体を裂いてしまう。作者の心身の辛い場面をおもう。(真帆)


      (当日発言)
★点滴の間って時が過ぎているような過ぎていないような微妙な時間の移りですよね。自分は点滴を受けているけれど、厳しい現
 実が彼方にはある。宇宙のようなことを暗示しているのかなあ。(慧子)
★「うかびたる」だからたぶん天の川は現実に見えているのではない。そしてもっと彼方に杉が凍裂していく姿がくっきりと見え
 ている。それは苦しい心身が脳にそういう像を結ばせているんですね、というかそういうふうに解釈できるように作られている。
 凍裂する杉の像がとても清冽で、この像の出し方が上手だなって思います。(鹿取)
★幻覚を見てそれを表現していらっしゃるのかなと。すごいなあと思います。普通の状態じゃこんな歌できませんから。(石井)
★自分が杉とは思われませんか?(真帆)
★それは自分自身を投影しているんでしょう。(石井)
★私は宇宙にはあれもこれもあるって、この人は思っているんじゃないかなあ。自分はこうしてうつらうつらと点滴を受けている
 けれど向こうでは杉が凍裂している、そんな厳しさもある。(慧子)
★私は麻薬とかそういうものを飲みながら書いた人の詩を読んだことがありますが、それに通じるところがあります。(石井)


渡辺松男の一首鑑賞 305

2016年04月26日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)126頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

305 髄膜炎四十一度でわが見しは重油うずまくごとくなりけり

      (レポート)
(解釈)髄膜炎で四十一度の高熱を出している作者は、どろどろと重く、窒息してしまいそうな重油のうずまく中にいる。
(鑑賞)「重油うずまく」は、戦艦大和の護衛艦「矢矧」が、撃沈され、兵が沖縄の海に投げ出され、重油まみれに沈んでゆく場面を思った。(真帆)


      (当日発言)
★これはこのまま実感かなあと思いました。私も腎盂腎炎で四十一度以上の熱出したことありますけど、こんな感じだったから。
 入院していた時、遠く離れた道路を夜中に車が通る音が耳元で鳴る轟音に聞こえました。(鹿取)
★これは分かりやすい歌です。重油が渦巻くような朦朧とした感じがうまく表現されている。真帆さんみたいにそこから社会詠の
 ようにとるのもありかなと思います。(石井)
★水に重油が渦巻いていろんな色に見える、あの気持ち悪いような感覚。(鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 304

2016年04月25日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)125頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

304 幽霊を真上から見てみたきなりぞくぞくと闇を泳ぐ幽霊

    (レポート)
(解釈)幽霊を真上からみて見たいものだ。きっとぞくぞくと闇を泳ぐ幽霊たちがいるにちがいない。
(鑑賞)前の303番を受けているのではないだろうか。この連作ではタテとヨコに動くものに目を向けている。闇にいる霊はヨコに這うように泳ぐ。(真帆)


      (当日発言)
★幽霊って前から来たり横から来るからぞっとする。それで作者はユーモラスに上から見て高みの見物をしてみたいなと考えたの
 じゃないかな。泳ぐ烏合の衆のようにぞくぞくとやってくる幽霊たちを上から見る。(慧子)
★これ空中を泳いでいるんですよね、まさか水の中を泳いでいる訳じゃない。確かに向こうにボーと立っているから幽霊は怖いの
 で、泳いでいたらきっと怖くないよね。(鹿取)
★幽霊って足が無いのよね。それで上から見るとまるで泳いでいるように見える。そういう視点の面白さ。時空を超えている訳で
 す。「ぞくぞくと」は怖い意味ではなくて、何かそういう泳ぐ形の形容。(石井)
★「ぞくぞくと」は私も怖い意味だとは思わない。集団の意味だと百鬼夜行みたいで楽しいけど、あれはお化けで幽霊ではないか。
 でも、この歌、書いてある通りに読んで楽しくて好きですよ。(鹿取)
★人間界に置き換えると人間界もそんなものかと。(石井)
★松男さんは上から見る視点が斬新ですね。横から見たら怖くても上から見たら全然怖くない。まさに高みの見物ですよ。ぞくぞく
 はたくさんいるってこと。面白い歌ですよ。(鈴木)


渡辺松男の一首鑑賞 303

2016年04月24日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)125頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

303 こちら向きにおみなの祈る絵をみれば祈るおみなの背後は怒濤

      (レポート)
(解釈)作者の方を向いて祈る姿をしているおみなの絵がある。その絵に向かい合っていると、おみなの背後は、怒濤だというのだ。
(鑑賞)「怒濤」には、荒れ狂う波が描かれているのか。多分そうではなく、祈る者の背後の苦しみを感じているのだろう。このおみなになってみた作者の驚愕と同情がある。(真帆)


      (当日発言)
★レポートの「このおみなになってみた作者」というのはどういうところから出ているんでしょう。(鹿取)
★私はこの絵の背後に怒濤は描かれてないのじゃないかなあと思って。祈っている女性の絵を見ていたらだ
 んだんと自分がその女性の中に入っていって、その女性になりきった時、ああこの背後は怒濤じゃないか
 と感じたと。(真帆)
★をみなになってみなくても、祈っている背後にはものすごい苦しみがあるんだろうなあと想像できますよ
 ね。(慧子)
★私が「このおみなになってみた作者」と書いたのは結句に怒濤という強い言葉をもってきて響かせている
 ので作者が自分の実感のように感じたのじゃないかと思ったのです。(真帆)
★絵の背後に怒濤は無かったと思うんです。見た人の、作者の印象だと思うのです。祈るだとどうしても天
 国に向かって祈りますよね。地獄に向かって祈る人はいない。祈りの姿勢の中にはやっぱり背後に怒濤を
 抱えているのじゃないかな、と作者は見ている。(鈴木)
★私はね、マリア様に向かって祈っているような状況を想像しました。暗い闇のような背景の絵を何回か目
 にしましたが、それを怒濤と言われた。作者の想像ではないかと。(石井)
★祈る姿の絵があって、その背景は具体的な怒濤が描かれていてもいなくてもいいかなと思います。祈る人
 のこころは荒れ狂っていて、その心象を描けばまあ怒濤になるのでしょうね。何か祈るということの本質
 を表現したかったのかなと思います。だからマリア様に向かっていても仏様に向かっていても祈りの本質
 は同じかなと。(鹿取)

渡辺松男の一首鑑賞 302

2016年04月23日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)125頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

302 顎下腺胡桃のごとく腫れたるをおみなの医師の手に晒すなり

    (レポート)
(解釈)顎下腺が炎症をおこし、痛みと腫れを引き起こしている。その治療に作者は来ているのだが、担当医が若い女医さんだという。胡桃のように固くなって腫脹している顎の下を、触診されている。(治療方法には投薬のほか、唾液腺のマッサージもあるという)
(鑑賞)「手に晒す」にユーモアがある。また、「晒す」に作者の恥ずかしそうな様子や、うれしそうな気分がある。(真帆)


     (当日発言)
★若いというのはどこから出てきたのですか?(鈴木)
★松男さんのこの当時の歌は新仮名遣いなので「おみな」って表記されていますけど、古語では「をみな」という表記で
「若い女性」って意味です。今スマホの辞書引いていますが「学研全訳古語辞典」には「若く美しい女性」って出ていま
 す。あっ、並んでただの「女」も出てきますが、万葉集の例では「若く美しい女性」って意味で使われてますね。
     (鹿取)
★喉の辺りというのは男にとって敏感なところなんですよ。のど仏が男の象徴であるように。だから恥ずかしいですよ。
     (鈴木)

渡辺松男の一首鑑賞 301

2016年04月22日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

301 わが首のにおいをさせて五十本ネクタイが闇につるされている

      (レポート)
(解釈)五十本のネクタイを持つ勤め人は普通いないので、「わが首」とは馘首、作者の解雇を意味するだろう。ネクタイをした五十人ほどの同僚、上司、部下たちが、みな作者と同様にクビの危機をにおわせつつ、職場の闇に吊るされているという。
(鑑賞)この一つ前の連作「ポケットベル」(鈴木さんのレポート)で私達は、霞ヶ関に𠮟られに行く歌や、「職を全うできざるはわれのみならずトイレに入りて出てこぬ上司」という歌を研究した。そこでは、終身雇用の時代が去り、企業だけでなく公務員にもアメリカ式の成果主義が導入され、組織として同じ目標や成果を課され働かされる深刻な苦しさを見た。この一首の「闇」は、苦しい職場の状態もあらわすが、そこに働く人々の生殺与奪の権を握るものの象徴としての「闇」でもあるだろう。(真帆)

      (当日発言)
★解雇という意味に解釈されていますが私は意外に思いました。非常に感覚的な歌だと思いましたが。五十本のネクタイを持って
 いる勤め人もいるだろうと思います。30年くらいの間ですから。新入社員だった時はこれとか思い出もあるでしょう。(石井)
★五十本というのがミソだと思いますね。三十本だったら一人のものと思うのですが。(真帆)
★五十本というのは少し多いかなとも思うけどあっておかしくない数ですよね。家に帰ってネクタ イを吊したと思うのですが
 「わが首のにおいをさせて」のところが生っぽい感じがあってこの歌 ではそこが面白いのかなと。(鈴木)
★五十本は一人の勤め人のネクタイの数として違和感なくとりました。においの部分はついてはい ろいろ解釈できると思います。
 物理的にも科学的に鑑定すれば、もちろんそういう臭いの分子だ かが検出されるわけですよね。ここではそんなことを問題にし
 ているわけではないですが、勤め 人にはそういうものを眺めて感慨が湧くのでしょうね。(鹿取)
★私は首のにおいをさせた五十本のネクタイって涙ぐましい数だなと思いました。(慧子)
★脚光をあびることなく吊されているネクタイなのですね。(M・S)

渡辺松男の一首鑑賞 300

2016年04月21日 | 短歌一首鑑賞

 渡辺松男研究37(16年4月)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆
     司会と記録:鹿取 未放

300 秋桜の逆光の路へ行くひとよまぶしき路はにんげんを消す

      (レポート)
(解釈)秋桜の背後から逆光線がさしている。その光の海に向かう一本の路があり、逆光はその路をもまぶしく照らしている。この路を進んで行っているにんげんは、進むにつれだんだんと、逆光のなかに入ってゆく。しまいにはこの「まぶしき路」は「にんげん」を消した。
(鑑賞)「逆光の路へ行く」の構図の表現に注目した。まず読者の目に、秋桜の背後から照らす逆光線を見せる。このとき発句でイメージした秋桜の花々は、陽光の海原に覆われて消える。次いで、そこへ向っている一本の路をみせ、最後に路を歩いて行く人を光の中に消すという、映画のシーンのような技巧に驚く。また、この作者の歌に、光の集まる場所を霊の集まる場所としてとらえる歌があったが、この一首はむしろ、この「まぶしさ」の答えをここでは出さず、なんだろう?と、読者の関心を喚起する、連作の始まりの一首になっているのではないだろうか。(真帆)


      (当日発言)
★最初「ひと」と呼び、後で「にんげん」と置き換えています。異空間に入っていくようなイメー
 ジですね。人間は消えてしまったのですけれど、それは可視光線では見えない。(石井)
★人間の存在って光と影があってそれが出てくる。光だけになっちゃったので存在感が消されてし
 まった。(鈴木)
★秋桜って逆光でなくてもはかない感じの花で、それを歌い出しに持ってこられたところがお上手
 だなと思いました。(慧子)
★人間が秋桜の中に紛れていっちゃうという感じがします。(M・S)
★秋桜って何か宇宙のコスモスに通じるような気がするのですが。(石井)
★私ははじめ宇宙のコスモスとかカオスという言葉も連想しましたが、漢字だからやはり逆光の中
 に咲く秋桜として解釈しました。(真帆)
★秋桜って聞くと秋の澄んだ空とその空気感を感覚的に思いますよね。人間も秋桜も映像化してお
 いて消してしまう、見せ消(け)ちの手法ですね。(鹿取)
★後の方の歌を読んでいくと、このひかりはただごとならぬひかりなんだろうなって思います。そ
 れ以上は曲解する気がして鑑賞はそこでとめましたが。まぶしき道って何か正しい道のような気
 がしたんですね。正と負があるとしたら「正」のような。われこそは正しい道を歩いていると言
 っているような人は人間らしさとか個性を消しているよと言っているような。しかし松男さんの
 歌ってそんなふうに読んじゃいけないなと思い直しました。(真帆)
★真帆さんが今言ったようなことは、私も前回レポートしてそれを感じたんですよ。正しいとかそ
 ういうことではなくて、まぶしい光のなかでというのは、この世の中で光り輝いている人たちっ
 ていますよね、善悪ではなくて。そういう人たちって人間らしくないのではないかと。人間って
 光と影と両方持っていて人間なんじゃないかと。それを一方だけ取りだして光だけになると人間
 って消えちゃうよと、そういうことも言っているんじゃないかと。しかし、秋桜とは何を意味す
 るのかとか、そんなことは松男さんはしないと思いますよ。本邦雄なら何かを象徴させるって
 するかもしれないけど。(鈴木)
★前の章の職場のリアルな歌の続きとして読むと、眩しいを正しいとは思いませんが、不如意な思
 いをして生きている人を応援している気分かなと。でも、深読みはしない方がいい。(石井)
★秋桜って種がばーと散っていって別のところで群れて咲きますね。だから群れている人々のこと
 かともとれます。(真帆)
★いろんな読み方があっていいのでしょうが、私は「まぶしい」とか「ひかり」というものをそう
 いう社会的な観点から読まない方がいいと思います。この歌、両側に秋桜が群生している一本の
 路を人が歩いている、道の向こうにおそらく沈もうとする陽があって非常にまぶしいので、人間
 の姿がよく見えなくなる。そういう現象は別に不思議なことではなくて、日常ふつうに経験する
 ことですよね。でも、こう表現されると何か存在の奥深いものを暗示されているような気がする。
 その辺りをレポーターは「『まぶしさ』の答えをここでは出さず」というように書いていらっし
 ゃるのだと思います。「光の集まる場所を霊の集まる場所としてとらえる歌があった」とレポー
 トにあるのは、私がとても気になっている「まぶしさの中にかがやくまぶしさ」の歌がある「非
 常口」の一連だったと思うのですが。「まぶしい」とか「ひかり」というのが松男さんの心を深
 いところというか異次元に誘う特別のものなんだろうと思います。(鹿取)

   ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり  
   非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり  2首とも78頁(非常口)