かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠354(スイス)

2016年11月30日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
      【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)179頁 
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:N・I
       司会とまとめ:鹿取 未放

354 白鳥の貌つくづくみればおぢいさんいぢわる教師あり大方はをとめ

     (当日意見)
★じっくり眺めるとおじいさん貌の白鳥や意地悪な教師貌の白鳥もいるという発見が面白い。しか
 し「大方はをとめ」と収めたところがいい。大部分の白鳥はおとめのような可憐さなのだ。
  (鹿取)


       (レポート)
 大型の鳥の貌はおおむね獰猛なもので、この白鳥もよくよく見ればおじいさん貌、意地悪な教師の貌もあるが大方はまだ幼鳥だ。(N・I)



馬場あき子の外国詠353(スイス)

2016年11月29日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
      【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)178頁 
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:N・I
       司会とまとめ:鹿取 未放


353 漂鳥はここに住みつき声あぐる栃の花蔭に椅子あれば座す

     (当日意見)
★人間のありようと鳥のありようの二つの違い。(慧子)
★「漂鳥」とは「一地方の中で越冬地と繁殖地とを異にし、季節により小規模の移動をする渡り鳥。
 夏には山に近い林にすみ、冬は人里近くに移るウグイスのほか、ムクドリ・メジロなど。」と広
 辞苑にある。だからレポーターのいうように迷子になっているわけではない。(鹿取)
★鳥の名を言っていないのはあまり馴染みのない鳥か。もしくはウグイスなどのように分かりすぎ
 て、ある情趣がまとわりついてしまうのを避けるためわざと言わなかったのか。あるいは漂う鳥
 というイメージを大切にしたかったのか。次に白鳥の歌があるのだが、白鳥は通常長い距離を移
 動するので「漂鳥」ではないように思う。ここでは、その「漂鳥」を栃の花蔭の椅子に腰掛けて
 しばらく眺め、鳴き声に耳を傾けていたい気分なのだ。「椅子あれば坐す」をレポーターは「椅
 子があったら座りたい」と解釈しているが、「あれば」は仮定ではなく已然形の確定条件だから、
 「椅子があったので座った」ということ。(鹿取)


       (レポート)
 栃の花が今盛りである。渡り鳥が迷子になって住み着いて鳴いている。ゆっくり聞くために椅子があったら座りたい。(N・I)


馬場あき子の外国詠352(スイス)

2016年11月28日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
      【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)178頁 
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:N・I
       司会とまとめ:鹿取 未放


352 そこにゆく秘密のおそれアンティクの壺に魂を吸はるるやうな

     (当日意見)
★古いものには歴史の重みがあって、それに魂が奪われてしまいそうだと言っている。(曽我)
★「そこ」は、壺のことをさしている。(藤本)
★作者には「やうな」に類するまとめ方は少ない。(崎尾)
★「やうな」という危うい収め方が、アンティックのすばらしい壺に否応なく魂が吸い寄せられて
 いく恍惚感をうまく表現している。レポーターは「シンプル故に魅了されてしまいそう」と書い
 ているが、この壺がシンプルとはかぎらない。アンティックの壺は、むしろ装飾過多といえるほ
 どのものの方が多い。(鹿取)
★作者は快い気分になっている。その欲しいものが有るところへ、店でもよいが行きたくなるのだ。
  (曽我) 


        (レポート)
 オットットあぶない!壺はシンプルなものが多いのでシンプルさ故に魅了されてしまいそう。作者の気持ちの揺れが秘密の恐れと言わせ、それは甘美な誘惑感も含まれている。(N・I)



馬場あき子の外国詠351(スイス)

2016年11月27日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
      【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)177頁 
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:N・I
       司会とまとめ:鹿取 未放

351 十九世紀の陶芸の花に灯を当てて騙されてゐるゆたかな時間

     (当日意見)
★レポーターの「ガラクタもある」というのは違うのではないか。(曽我)
★なぜ店と決めつけるのか。買わせようとしているなども世俗的解釈すぎる。ホテルなどでランプ
 や人形などを見ているのだろう。(藤本)
★日本人ならまず花といえば生花。露を帯びた花のイメージが強いのに陶器でできた花を見て騙さ
 れている気分になった。文化的な差。(慧子)
★「花」にこだわらなくてもよいのではないか。(藤本)
★「陶芸の花」は陶で作った花、または陶の壺や皿などに描かれた花の絵ではないだろうか。次に
 壺に「魂を吸はるうやうな」の歌があるので花が描かれた壺かもしれない。博物館でもホテルや
 物産館などでもよいと思うが、十九世紀に作られたものだという陶芸の花に照明が当てられて、
 とてもすばらしく見える。贋作も混じっているかもしれないが、それを眺めている豊かな時間が
 ここにある。「土産物の店」ととると、「ゆたかな時間」が短くなる気がする。(鹿取)


        (レポート)
 骨董品もがらくたもある店に十九世紀作という陶器の花に照明を当て買わせようとしている。真実を知っているものの強みが騙されているふり、それが豊かな時間と表した、作者の心のゆとりという事。(N・I)



馬場あき子の外国詠350(スイス)

2016年11月26日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
      【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)177頁 
       参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:N・I
       司会とまとめ:鹿取 未放

350 ロイス川の向かうに行つてアンティクのマリア一体買はんと思ふ

      (当日意見)
★楽しんでいる。余裕がある。(曽我)
★夕暮れの雨の色をしている川の向こうですね。「アンティクのマリア」ということで、この国の
 古い歴史にコミットしたい想いがあるのでしょう。それを考えるとつねに夕暮れの雨の色をして
 いる地区というのも、もう少し深い意味があるのかもしれないなと思います。(鹿取)

 
        (レポート)
 川の向こうに行って骨董のマリアを買いたい。新品でないところがこの歌の眼目、骨董にはそれなりに訴えるものを宿しているのであろうから。(N・I)



馬場あき子の外国詠349(スイス)

2016年11月25日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子の外国詠49(2012年2月実施)
        【ロイス川の辺りで】『太鼓の空間』(2008年刊)176頁 
         参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I
         司会とまとめ:鹿取 未放

 
349 川の向かうはつねに夕ぐれの雨のいろアンティクのやうな灯をともしたり

     (当日意見)
★レポーターは「アンティク」を「ランプのような」と解釈されたが、古美術品のようなとか「ア
 ンティック」の辞書的な意味でよいのではないか。ところで、旅行者だから「つねに」といって
 も、せいぜい3,4日間のことだと思うが、滞在していた間はいつもということだろう。(鹿取)
★「つねに」は朝から晩までという意味。(崎尾)
★対岸は霧が深いところなのでしょうか。夕暮れの雨のような色に見えて、ぼんやりとした灯がと
 もっているという、旅行者にとってはロマンティックな情景ですね。(鹿取)
 

        (レポート)
 自分の立ち位置から見る川向こうはいつもどんよりと灰色の世界だ。その中に灯るランプのような明かりはよどみの暗さをいっそう引き立てている。(N・I)


馬場あき子の外国詠348(スイス)

2016年11月24日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子旅の歌48(2012年2月実施)
     【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)175頁 
      参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部 慧子
      司会とまとめ:鹿取 未放

348 風疾(はや)きビルの谷間を行くときをアルプスの兎低く啼く声
 
       (レポート)
 「風疾きビルの谷間」とはビル風のはやいことを言い、鋭く長い音は、人の情念を呼び起こしたり、たとえられたりした。そういう類を抜けた掲出歌。4、5句の「アルプスの兎低く啼く声」とは、ビル風でありながら地球を大きく吹ききたった風のようで「啼く声」は風の落とし物のように思ってしまう。北海道に氷河期を生き残ったナキウサギが生棲しているので、アルプスのナキウサギを想定してのフレーズであろう。それによって一首を支えている。(慧子)


       (当日意見)
★もがり笛からの発想か、鳴かないものを聞いたというところが面白い。(N・I)
★レポーターの言う北海道のナキウサギからアルプスの兎を連想したというのはおかしい。一連の
 題が「アルプスの兎」なのだから、アルプスに兎がいないことはないはず。(藤本)
★ここは帰国して都会の殺伐としたビルの谷間を歩いている時、そのビル風をアルプスの兎が鳴い
 ているようだと感じたのだろう。旅の途中、アルプスの兎の鳴き声を聞いたかどうかは不明だが、
 ビル風の音を聞きながら、アルプスの兎が鳴いたらこんな哀しい声ではなかろうかと想像してい
 るのかもしれない。歴史について、人間について様々な苦を見てきたとは言え、風景自体は夢の
 ように美しかったスイスの旅、ここでは都会に戻ってきた現実の苦い感慨だろう。(鹿取)

馬場あき子の外国詠347(スイス)

2016年11月23日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子旅の歌48(2012年2月実施)
        【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)174頁 
         参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:渡部 慧子
         司会とまとめ:鹿取 未放


347 乾燥トマト湯に戻しをり秋は来て想ふアルプスの村の家刀自
 
       (レポート)
 台所は女性を哲学的にさせると松村由利子さんの言にあるが、色彩にこころおどる人にもさせる。ミニトマトを乾燥させたものであろうか、それを「湯に戻し」秋の想いはよどむことなく、やはりまあるくて大きな地球上の「アルプスの村」へ着地した。「家刀自」からは、中世の暮らしを守って個性的に少し気むずかしい女性を想像する。「家刀自」によって過去の時間が持ち込まれ、ゆたかで楽しい気分が残る。(慧子)


     (当日意見)
★これは旅行から帰った歌。肉体的、感性で読まないと自分との関わりが出ない。(鈴木)
★土産に買ってきた乾燥トマトをお湯に戻しているところ。つましく工夫して家事を切り盛りして
 いたアルプスの村の「家刀自」のことを思い出している。(鹿取)
★「家刀自」の語がいきている歌ですね。(一同)

馬場あき子の外国詠346(スイス)

2016年11月21日 | 短歌の鑑賞

   馬場あき子旅の歌48(2012年2月実施)
       【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)174頁 
        参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子
        司会とまとめ:鹿取 未放


346 飴一つ含みて深く見下ろせばあな大氷河かそけく吹雪く

       (レポート)
 大氷河を見るべく立っていて、なんとなくなのか、自身をいとしむようになのか、いずれにせよ「飴一つ含みて」いる。そして「深く見下ろせば」という行為につづき、さらに大氷河をスケッチしようとするが、かなわなかったのであろう。「大氷河」は「かそけく吹雪く」状態だった。どれほどの深さだったのか、「かそけく吹雪く」とは塵がまうようだったのだろうか、想像が及ばない。(慧子) 


     (当日意見)
★標高差があって飴を嘗めたか?(藤本)
★いや、恐怖から飴を嘗めたのだ。(N・I)
★飴一つということで、大氷河の大きさが出る。(曽我)
★飴一つしか口の中に入っていない物足りなさに、かえって大氷河の広がりが感じられる。(鈴木)
★峠のてっぺんに立っていて遙か下の方に大氷河が見えているのでしょうね。遠いから吹雪いてい
 てもかそかな気配しか感じられない。その茫漠感でしょうか、飴一含んでいると安堵感が生まれ
 ますよね。(鹿取)


馬場あき子の外国詠345(スイス)

2016年11月21日 | 短歌一首鑑賞

   馬場あき子旅の歌48(2012年2月実施)
       【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)173頁 
        参加者:N・I、井上久美子、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子
        司会とまとめ:鹿取 未放


345 戦争を逃がれてスイスに棲まんとせし強き肩弱き足思ふ雪の峠に

        (レポート)
 ヨーロッパ中央に位置するスイスは、他民族・他国との利害、野望の中の歴史であった。それにともなう人、物の動きは、地理的にアルプス山脈(すなわち峠)を越え、繰り広げられた。ハンニバルのアルプス越え、ローマ皇帝カエサルの峠越え、ナポレオンの第2次イタリア遠征の為のサルベルナール峠越えなどは歴史に名高い。この他にも闘いが多く、そのたびに峠は戦略的に重要になり、また「戦争を逃がれてスイスに棲まんとせし」人々が峠を越えたと思われる。
 作者の旅は、その地の負う歴史に心を寄せるものであるが、掲出歌は闘いのどれとは特定せず、現代風に言えば難民であろう「強き肩弱き足」の民を「雪の峠に」「思ふ」のである。峠とは逃避、野望、憧憬など様々な想念の行き交うところ、そこへ「雪の」と形容する作者の思いは、遙かな過去に及んで抒情を添えている。(慧子)

       (当日意見)
★雪の深さを感じる。(N・I)
★強い人間の意志の強さ、それでも大変である。(崎尾)
★老若男女では動きが出ない。大人、女人、子どもを思わせ、具体を詠むことで実感が出ている。
    (鈴木)
★そうですね、強い肩を持った男性も、弱い足を持った女性や子どもも難儀をして峠を越え、スイ
 スに逃げてゆこうとしているのを思いやっている。確かにどの戦争と特定していませんけど、割
 と近い時代のことをいっているのでしょう。現代は鉄道やバスで比較的簡単に国境の峠を越えら
 れるけど。作者は今立っている峠の雪の深さに驚き、難民達はこんな雪深い峠を徒歩で越えたの
 かと言葉を失っている感じがします。(鹿取)