かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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馬場あき子の外国詠350(スイス)

2014年11月30日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年12月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)168頁
                 参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、たみ、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:崎尾 廣子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


337 美しく遠く思ひのとどかざるアルプスの雪ゆめならず見る

     (まとめ)(2011年12月)
 「とどかざる」は現在形だから、あこがれていた以前に届かなかったのはもちろん、実際に眺めている今も思いは届かないというのだろう。もし現実に見て思いが届いたのなら、ここは「届かざりし」と過去形になるはずだ。だから「遠く」は物理的な遠さのみではなく、精神的な距離を含んでいるのだろう。憧れていたアルプスにやってきて、夢ではなく目の前にその雪山を見ている。しかしその余りにも美しいアルプスの崇高さにはとても思いは届かない。人間には触れることを許さないような圧倒的な神々しさがそこに在ったのだろう。「とどかざる」と人間の思いを拒絶することで、賛美を際だたせている。(鹿取)


    (レポート)(2011年12月)
 この1首は5・7・5・7・7の音で詠まれた正統な歌である。眺めている場がよく分からないが展望台からであろう。マッターホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウなどの名峰の連なるアルプス。だが作者は峰峰の雪に目を向けている。標準的な表現がかえってそのアルプスの雪の美しさを彷彿させる。短歌のみがもちえる世界のたおやかな表現の力を感じる。
 「かりん」の11月号で中津昌子さんが先生の「ず」について述べているが、この歌の結句の「ず」もまた意味深い。この1音がこの歌の全てを成り立たせている。「ず」あっての1首であると思う。また「見る」の「る」にも目を向けたい。現実にアルプスの雪を見ている作者の今を感じる。思いがかなった喜びであろうか、想像するのみである。胸に沁みる美しい歌であると思う。(崎尾)


    (意見)(2011年12月)
★一連でみると、眺めているのは、ユングフラウ・ヨッホの展望台ではなさそうですね。ところで、
 「遠く思ひのとどかざる」をレポーターはどう解釈されますか。(鹿取)
★自然とは意識の疎通ができないことを言っている。(崎尾)
★憧れていたアルプスを現実に見た喜びがよく表されている。(N・I)
★遠かったが実際に来ているアルプス全体を現在形で詠っている。しかし、見ているけれど一体化
 はできない。(藤本)
★さっきの336の歌もそうだったけど、レポーターが歌の中の一音にだけ拘るのは違和感があり
 ます。「ず」は打ち消しの助動詞だから独立しているといえばいえるけど「ゆめならず」って慣
 用的に使いますからひとまとまりの語感があります。それにこの歌が「ず」1音でもっていると
 はとうてい思えません。また、動詞の「見る」は活用語の終止形で一語だから「る」だけに注目
 するってありえないです。音に敏感になるのは大切なことですけど、品詞をまずは理解して基本
 をおさえた上で考えないとまずいです。この部分なら、まずは「ず」は打ち消しの助動詞である
 という点を踏まえてから先を考えてほしいです。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠349(スイス)

2014年11月29日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年12月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)168頁 
                 参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、たみ、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:崎尾 廣子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


337 美しく遠く思ひのとどかざるアルプスの雪ゆめならず見る

      (まとめ)(2011年12月)
 「とどかざる」は現在形だから、あこがれていた以前に届かなかったのはもちろん、実際に眺めている今も思いは届かないというのだろう。もし現実に見て思いが届いたのなら、ここは「届かざりし」と過去形になるはずだ。だから「遠く」は物理的な遠さのみではなく、精神的な距離を含んでいるのだろう。憧れていたアルプスにやってきて、夢ではなく目の前にその雪山を見ている。しかしその余りにも美しいアルプスの崇高さにはとても思いは届かない。人間には触れることを許さないような圧倒的な神々しさがそこに在ったのだろう。「とどかざる」と人間の思いを拒絶することで、賛美を際だたせている。(鹿取)


     (レポート)(2011年12月)
 この1首は5・7・5・7・7の音で詠まれた正統な歌である。眺めている場がよく分からないが展望台からであろう。マッターホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウなどの名峰の連なるアルプス。だが作者は峰峰の雪に目を向けている。標準的な表現がかえってそのアルプスの雪の美しさを彷彿させる。短歌のみがもちえる世界のたおやかな表現の力を感じる。
 「かりん」の11月号で中津昌子さんが先生の「ず」について述べているが、この歌の結句の「ず」もまた意味深い。この1音がこの歌の全てを成り立たせている。「ず」あっての1首であると思う。また「見る」の「る」にも目を向けたい。現実にアルプスの雪を見ている作者の今を感じる。思いがかなった喜びであろうか、想像するのみである。胸に沁みる美しい歌であると思う。(崎尾)


    (意見)(2011年12月)
★一連でみると、眺めているのは、ユングフラウ・ヨッホの展望台ではなさそうですね。ところで、
 「遠く思ひのとどかざる」をレポーターはどう解釈されますか。(鹿取)
★自然とは意識の疎通ができないことを言っている。(崎尾)
★憧れていたアルプスを現実に見た喜びがよく表されている。(N・I)
★遠かったが実際に来ているアルプス全体を現在形で詠っている。しかし、見ているけれど一体化
 はできない。(藤本)
★さっきの336の歌もそうだったけど、レポーターが歌の中の一音にだけ拘るのは違和感があり
 ます。「ず」は打ち消しの助動詞だから独立しているといえばいえるけど「ゆめならず」って慣
 用的に使いますからひとまとまりの語感があります。それにこの歌が「ず」1音でもっていると
 はとうてい思えません。また、動詞の「見る」は活用語の終止形で一語だから「る」だけに注目
 するってありえないです。音に敏感になるのは大切なことですけど、品詞をまずは理解して基本
 をおさえた上で考えないとまずいです。この部分なら、まずは「ず」は打ち消しの助動詞である
 という点を踏まえてから先を考えてほしいです。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠348(スイス)

2014年11月28日 | 短歌一首鑑賞
 
馬場あき子旅の歌 (2011年12月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)168頁 
                 参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、たみ、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:崎尾 廣子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


336 風景は人間を抱き暮れゆけどグリンデンワルドの山夜を圧倒す

     (まとめ)(2011年12月)
 「たみ」さんの意見に同感である。335番歌の続きで、夜の暗闇にあってますます山の持つ神秘的な恐ろしさを感じとっているのだろう。もちろん、民家やホテルに明かりは点いているが、人工の明かりなどは遙かに凌駕した圧倒的な山の力なのだろう。(鹿取)


    (レポート)(2011年12月)
 「グリンデンワルド」はアイガーの麓に広がる小さな村。自然がみせる一面である優しさが感じさせられる上の句である。5・7・5音の韻律に子守歌を聞くような心地よさを覚える。またアルプスの少女ハイジをも連想する。眺めるままに陽が落ちると風景ががらりと変わったのであろう。上の句とは対象的な字余りの表現である。高峰がより高々と間近に迫り村を囲む峰峰もずっと近く目に映ったのであろう。怖ささえも感じたであろう作者の驚きが感じられる。4句の地名が持つ力強い響きとあいまって結句の表現にいっそうの勢いが感じ取れる。また「す」にはこれほど力強いひびきがあるのかと目に留めた。雄大な自然の前では村も人も小さな存在でしかないと詠っているのであろうと思う。しかも夜であれば恐ろしささえも覚えたのであろう。(崎尾)


    (意見)(2011年12月)
★山は一つの山ではない。街は人間くさいところで、人間のいとなみと自然を対比し、自然への
  畏敬を詠っている。(N・I)
★グリンデンワルドに降りると突然屹立して現れるというから、山はアイガーであろう。(藤本)
★グリンデンワルドという固有名詞が際だっている。(慧子) 
★「グリンデンワルドの/山夜(さんや)を圧倒す」とレポーターは読まれたが、そこは「グリ
  ンデンワルドの山(やま)/夜を圧倒す」だろう。「グリンデンワルド」(の町)が主語で、
 「山 夜を圧倒す」が述語だと、意味が通らない。下の句字余りの件は、外国の地名の場合特に長いも
 のがあるのでおのずと字余りになるが、この歌の場合も地名の必然性から生まれた字余りで、特
 別の意図はないだろう。また「圧倒す」という一語の動詞の「す」だけを取りだして力強いとい
 うのは違和感がある。(鹿取)
★人間の営みとか業を拒絶して山は屹立している。自然の山の前では人間は何ものでもない。上の
 句との対比で下の句の怖さがよけいに際だっている。(たみ)      
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馬場あき子の外国詠347(スイス)

2014年11月27日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年12月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)167頁  
                 参加者:K・I、N・I、泉可奈、崎尾廣子、曽我亮子、たみ、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:崎尾 廣子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


335 氷河渉るマンモスの足の重さもて佇めば襲ひくる白きアイガー

         (まとめ)(2011年12月)
 マンモスは氷河時代に棲息していた哺乳類動物だが、作者は獲物を求めて氷河をさまよう巨大なマンモスを思っている。空想しているうちに、餓えて氷河をわたりながら重い足を一時休めて佇むマンモスに作者がなりきってしまったのだ。その時、アイガーが「襲ひくる」のは、獣の本能的な実感であろう。「白き」という何でもない形容が、ここでは山の魔の恐ろしさをあますなく伝えていて見事である。ちなみにアイガーは標高3,970メートルで、切り立った峻険な北壁を持つ。
 レポーターがどこで切るか戸惑われた4句は、「佇めば/襲ひくる」というように10音が句割れとなっている。(鹿取)


    (レポート)(2011年12月)
 この歌は自身をマンモスに重ねてアイガーと向き合った歌なのであろうか。あまりの高さに愕然として見つめたのであろうと想像する。
 成り立ちをみてみる。6音で始まり、8・5とつづき4句は10音で結句は7音である。4句の切れがよく分からないが10音として読んでゆきたい。初句は1音字余りであるが「渉る」というのびやかなひびきのある表現がこの歌の心地よい幕開けとなっているように感じられる。2句の8音が3句へとかかるが氷の上を力強く踏んだであろうマンモスの足の力が1音の字余りでどっしりと3句へとかかっていると思う。結句の「白き」は初句ののびやかさ、3句から4句の重々しさを跳ね返しアイガーを屹立させていると思う。シャープなシルエットが特色であるアイガーをそしてその高さをこのようなスケールの大きいユニークな表現で1首としたのであろうと思う。「渉る」「白き」が印象に残る。(崎尾)


    (意見)(2011年12月)
★疲れ果てて作者は自分の足がマンモスの足のように感じられた。内なる思い。(N・I)
★作者は疲れてはいないが、自意識を出された。(慧子)
★雪崩が押し寄せて押しつぶされたマンモスが化石化している山。作者はマンモスと一体化してい
 る。前半字余りでずっと続く部分(「氷河渉るマンモスの足の重さもて~佇めば」)には、足を
 引きずり引きずり息もたえだえにやっと登ってきた様子がよく伝わってくる。富士登山をしたと
 きのことを思い出しました。(たみ)

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馬場あき子の外国詠346(スイス)

2014年11月26日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年12月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)167頁 
                   参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、たみ、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                   レポーター:崎尾 廣子
                   司会とまとめ:鹿取 未放


334 薄き空気と高さに馴れし体らは標高三千ではしやぎはじめぬ

(まとめ)(2011年12月)
 精神の高揚感がある。「体ら」の複数は「自分だけでなく他の人たちも、という意味」との意見があったが、複数の人ではなく〈われ〉の手も足も頭もというように体の複数の器官を指しているのだろう。だから「はしやぎはじめ」たのは〈われ〉の体感をいっているのだろう。(鹿取)


(レポート)(2011年12月)
 一首の成り立ちを見てみると初句は7音で、あとは7・5・9・7音と続く。ゆるやかに歌い始めている1音字余りの初句であるが、初句、2句、3句の最初の1音1音を追ってゆくとそこに軽やかにリズムがある。酸素の薄さにも慣れ、目・耳・皮膚などの感覚がもどり、体の動きまでも軽くなって行く感じをこのリズムで表現しているように思う。4句は9音だが8音をもつ名詞に強いひびきのある「で」の1音で場をはっきりと表している。結句のひらがなはにぎにぎしさを彷彿させていると感じる。また、「ぬ」で慣れてきた時間に終止符を打っているように思う。高所ゆえのにぎにぎしさに自然と顔がほころぶ歌であると思う。そして「で」の1音が印象ぶかい。また、「と」「に」の自然な表現、にぎにぎしさがより伝わってくると思われる結句の大きくした「や」の文字などにも目をとめたい。また3句の「体らは」はこの1首をより豊かにしている魅力のある表現である。(崎尾) 

(意見)(2011年12月)
★人間は高所では内省的になりにくい。これが地下なら内省的になるだろう。(慧子)
★「体ら」は複数を表し、自分だけでなく他の人たちも、という意味。(藤本)
★高さにだんだん順応して体が喜びに浸れる状態になってきた。同時に心も解放された。(たみ)
★評者のレポート、初句の1音字余りは2音字余りの誤り。結句の「や」については、馬場は旧仮
 名遣いなので当然「や」の文字は大きくなる。「や」に特別の意味を込めるために大きくしてい
 るのではない。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠345(スイス)

2014年11月25日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年11月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)166頁
                 参加者:K・I、N・I、泉可奈、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:渡部 慧子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


333 標高三千されど異(こと)なる体感ありアッパームスタン、ユウングフラウ・ヨッホ

     (まとめ)(2011年11月)
 アルプスの旅は2006年、ネパールの旅は2003年である。馬場が行ったジョムソンはアンダームスタンで、アッパームスタンと呼ばれるのはジョムソンから馬で更に3~4日かかるガミ村からである。アッパームスタンは特別な保護地域で旅行者は事前に申し込み、1日1万円程度の観光税を支払う必要がある。
 ジョムソンは標高2,700メートル余、アッパームスタンのガミ村は3,600メートル、こちらの方が3,454メートルのユウングフラウ・ヨッホに標高が近い。事実とは違うが標高の近さで選ばれた地名だろう。ガミ村にしろジョムソンにしろ耕作地の緑はわずかで、あとは見渡す限り瓦礫が広がる荒地である。ヨーロッパからもトレッキングに訪れる人は多いが、ユングフラウのように登山鉄道やバスで行ける華やかな観光地ではないから、観光客の数は多いといってもたかがしれている。世界中から家族連れで訪れるアルプスとは全く異なる。高度は似たようなものでもアルプスとヒマラヤでは当然気分も体感も違うのだ。(鹿取)   
 
      (レポート)(2011年11月)
 同じ高さの山に登ってもそれぞれの個性を感じられる作者なのです。(N・I)
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馬場あき子の外国詠344(スイス)

2014年11月24日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年11月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)166頁 
                   参加者:K・I、N・I、泉可奈、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                   レポーター:渡部 慧子
                   司会とまとめ:鹿取 未放


332 ユウングフラウ・ヨッホより見るアレッチ氷河天下統一の思ひのごとし

     (まとめ)(2011年11月)
 ここは駅からエレベーターで上った展望台からの景色であろう。アレッチ氷河は全長24キロメートルに渉って続いているというから、壮大な眺めである。その眺めのすばらしさを「天下統一の思ひのごとし」と詠んだものであろう。

 
     (レポート)(2011年11月)
 ユングフラウとはドイツ語で処女を意味するそうです。展望台より見る大パノラマは、まるで天地創造の如く、自然に対する素直な思いが歌われていると思います。(N・I)


     (意見)(2011年11月)
★作者の歌は「天下統一」、レポーターの「天地創造」とはまるっきり意味が違います。(藤本)
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馬場あき子の外国詠343(スイス)

2014年11月23日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年11月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)165頁
                 参加者:K・I、N・I、泉可奈、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                 レポーター:渡部 慧子
                 司会とまとめ:鹿取 未放


330 上り上りつひに立つなるつるつるの氷河胎内の薄蒼き闇

     (まとめ)(2011年11月)
 329番歌でも見たように、ユングフラウ鉄道で上ってきたのであろう。この鉄道の終点は、高度3454メートルのユングフラウヨッホ(ユングフラウの「肩」の意)駅。この駅は山の中に穿たれたトンネルの中にあるそうだ。だからこの歌は終点の駅で降りて、まだトンネルの中にいる場面だろう。そしてトンネルの中はつるつるとよく滑る。薄蒼き闇がいかにもそうであろうと思わせるが、やはり胎内のような感覚なのだ。(鹿取)
 
    (意見)(2011年11月)
★角度によって氷は薄青く見える。氷河の中にいろいろ閉じこめられていて、亡くなった人もいる
 から闇。(曽我)
★「蒼き」はよく使うが、「闇」は独特のもの。(崎尾)

(レポート)(2011年11月)
 スイスの観光ハイライトは雄大なアルプスのパノラマ、氷河鉄道で上り詰めた頂上、滑りやすい地上にしっかりと立った。胎内とは作者にとって大自然を内に取り入れている言葉だと思います。おそらく周りは観光客で賑わっているのだろうけれど、自分自身の孤の内を見つめている。それは歌人としての業なのではないでしょうか。(N・I)
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馬場あき子の外国詠342(スイス)

2014年11月22日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 (2011年11月)【氷河鉄道で行く】『太鼓の空間』(2008年刊)164頁 
                   参加者:K・I、N・I、泉可奈、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
                   レポーター:渡部 慧子
                   司会とまとめ:鹿取 未放

 
329 人間が考へることとつぴでもなくて氷河の胎内にゐる

     (まとめ)(2011年11月)
 ユングフラウ鉄道をWikipediaで調べると、「全長9・3キロメートル、始発のクライネ・シャイデック駅を出発すると、アイガー、メンヒ両山の山中をトンネルで通過し、ユングフラウの途中にある終点ユングフラウヨッホ駅まで登る。終点ユングフラウヨッホ駅はヨーロッパで最も標高の高い鉄道駅である。」等とある。
 「胎内」という意味の言葉が公式的に用いられているか不明だが、ブログの旅行記などにも「アイガーの胎内を走る登山電車」などの記事が見えるので、「胎内」と通称されているのだろう。薄暗くて外界よりはずっと暖かい氷のトンネルの中にいると胎内と呼ばれるのももっともだと納得しているのだろう。「とつぴでもな」いのは、氷河にトンネルを掘ることか、冷たい氷河の中を「胎内」というぬくくまろやかな名称に呼ぶことの不思議か分かりにくいのだが、私は「胎内」という呼び名のことかと思う。(鹿取)


    (レポート)(2011年11月)
 古代スイスは国内の半分は氷河に覆われていたそうです。歴史を積んだ氷河を見ていると、風変わりな発想もなく、胎内にいるようだ。作者は静かに自然と一体となっているのだと思います。(N・I)

     (意見)(2011年11月)
★人間とは自分のことで、胎内の発想は作者。逆にとっぴだったのでこう言った。(慧子)



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馬場あき子の外国詠341(ネパール)

2014年11月21日 | 短歌一首鑑賞

 馬場あき子旅の歌 【ニルギリ】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁  
                        参加者:K・I、崎尾廣子、佐々木実之、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
                        レポーター:渡部 慧子
                        司会と記録:鹿取 未放

152 八千メートルの山の背碧空のほかはなしあなさびし虚空なす時間のありぬ

      (レポート)(2009年5月)
 ヒマラヤの八千メートル級の山々が厳しい線をみせてつらなり、そこに碧空があるのみで広大な景を前にしている。もう自分の思念もちっぽけで物に寄せて何かを思うことも不可能なほどなのだろう。「八千メートルの山の背碧空のほかはなし」「あなさびし」「虚空なす時間のありぬ」と「 」三つをそれぞれ独立させ、無いと言って有るという。上の句、下の句を逆接に頼らず「あなさびし」という独立句を挟み、繋がりのほどは読者に任せているのであろう。
 この構成の妙は一首の不思議な力の所以となっている。大きな内容を鑑賞しがたく構成の面から近づいてみたが「あなさびし」に注目してみると、存在の寂しさとは異質の「さびし」としてよく据わっており、はかりしれない宇宙を「虚空なす時間のありぬ」と透徹した眼と力を感じる一首である。(慧子)    


     (まとめ)(2009年5月)
 小型機に乗ってジョムソンからポカラに移動している一連の中にある歌。ダウラギリ、マチャプチャレ、アンナプルナなどの山名が一連に出てくる。しかし、この歌、単独で読むと地上から眺めている感じがある。滞在したジョムソンからダウラギリ8157メートルが見えたので、その印象かも知れない。八千メートルを超えて聳える山の背には真っ青な空が見えている。そして空しか見えない。その空には「虚空なす時間」があるという。「虚空」を改めて「広辞苑」で引いてみると仏教語で「何もない空間」を指すとある。何もない空間に、おそらく作者は長い長い宇宙的な時間をみているのであろう。
 既に挙げた156番歌「生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て」でも触れたが
崇高な山の姿にふれて、それらヒマラヤの山脈が形成された気の遠くなるような宇宙的時間を思ったのであろう。また、その後に生まれた人類の歩んできた長い長い時間をも思うのであろう。「あなさびし」はそんな宇宙的時間にふれた詠嘆のように思われる。(鹿取)
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