かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠378(中欧)

2017年12月30日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
   【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)100頁~
   参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木良明
   司会とまとめ:鹿取未放

378 くらしの時間はすみやかに何かを忘れしめ孤独なり老いて静かに肥ゆる

      (レポート)
 「くらしの時間」とは、日常の何気ない生活のことだろう。日常性に埋没するということか。サルトル流に言えば、「自由と不安から目をそらしながら生きている自己欺瞞」。こういった生活の中では、政治や思想、社会との関わりなどが忘れ去られ、「モノ」的存在として孤に還る。作者の当時の感慨であろうが、ハンガリーの人々の思いも重ねているのだろう。(鈴木)


          (当日発言)
★この歌もサルトルとからめて考えないと読めないだろう。(鈴木)
★鈴木さんの評に「ハンガリーの人々の思いも重ねているのだろう」とあるが、ここまで書いて
 くれていて有り難い。(崎尾)
★以前の歌にあったハンガリー動乱も彼方となって虹を見ていたおばあさんも太った人のイメー
 ジ。人は忘却しないと生きていけないから〈日常性への埋没〉は致し方が無いが、サルトルはそ 
 こを踏みとどまってアンガージュマンすることを説いた。ハンガリー動乱の当事者は革命や愛す
 る人の死を忘れ果てて生きているわけではないが、日常の表面からはうすらいでいるであろう。
 そして時折、忘れていることの罪の思いがきりきりと胸を刺すのだ。老い、肥えて孤独であるこ
 とにハンガリーの人も、それを見る作者も胸の奥に痛みをしまっているように感じられる。
    (鹿取)





馬場あき子の外国詠377(中欧)

2017年12月29日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)100頁~
   参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木良明
   司会とまとめ:鹿取未放


377 「知識人の役割」を熱く語りたるサルトルの通訳は深作光貞なりき

     (レポート)
 サルトルは、講演のなかで、①専門外のことに口をだすものこそが知識人であり、タコツボ的に個別の領域に閉じこもる専門家は、知識人ではない ②知識人は普遍性を追求するものだが、専門家は、結局は個別的なブルジョア階級に奉仕している ③普遍性を追求する知識人は、個別的な階級の利害の外に出ることになる ④個別具体に関わらない口先だけの偽の知識人にならないよう、閉じた場所の外へ、世界へと関係するとき真の知識人となる、などと熱く語っている。その時の通訳は、深作光貞(1925~91)文化人類学者。1952年~57年パリソルボンヌ大学留学(現代文明の重苦しい息苦しさを感じる)。その後、5年間 東南アジア、カンボジアで生活(自然の中で生きてゆく博物誌的な人間の瑞瑞しさを知る)。(鈴木)


      (当日発言)
★わざわざ通訳の名前を出しているのは特別だから。この人は通訳なのにサルトルと丁々発止と
  やり合ったと聞いた。(曽我)
★そうすると通訳としては適役ではなかったのか。(鈴木)
★否定的という訳ではない。(曽我)
★馬場と深作は短歌で深い繋がりがあったので好意的に詠んでいる。知識人の政治参加を強く訴え
 たサルトルの通訳がわれらの深作だったんだよと言っている。文化人類学者である自分の専門に
 閉じこもらず活躍していた深作だからこそサルトルの通訳として適役だったと思う。(鹿取)
★丁々発止の内容を知りたいなあ。話は逸れるが、国際ペン学会でカナダ人の会長の口からいき 
 なり佐藤佐太郎の短歌の話が出たことがあった。10カ国語ほどに同時通訳されていたので通訳
 者は困惑するのではと驚いたが、こういう場合演説の原稿は前もって通訳者には渡されているそ
 うだ。深作にも前もって原稿は渡っていて丁々発止の準備期間が充分あったのだろう。(鹿取)
★でも、短歌を知らない人には深作の名が出てきても分からない。(崎尾)
★作者は自分の歌を読む人は当然深作を知っていると考えて作っているのだろう。それにわれわれ
 は「短歌を知らない人」ではなく短歌を知っている立場ですから、知らないのはまずいし、知ら
 なければ調べればいい。エッセーなどで馬場は深作との関係をしばしば語っている。例えばつい
 最近の「かりん」10月号にはこんなことを書いています。

 四月には東京の練馬にある豊島園で、「現代短歌シムポジウム」が開かれ、塚本邦雄にはじめて会った。これが縁となって、深作光貞が主催する歌誌「律」誌上に、塚本の企画による紙上劇「ハムレット」にガートルード役で参加したが、この作詞によって想を得たのが、短歌で創作する劇詩「橋姫」である。私はガートルードの余力を駆って五十首相当ほどの作品をまとめた。(「かりん」2011年10月号)

  昭和38(1963)年当時の話です。歌誌「律」は深作が資金を提供し、中井英夫が編集人となった 歌誌。ただし、7号で終刊した。深作は若い時「人民短歌」によって実作もしたようです。91年、66 歳で没しています。(鹿取)

              (追記)(2015年8月)
 小中陽太郎が『1968 パリに吹いた「東風」—フランス知識人と文化大革命—』の中で、深作光貞が通訳をしたこの講演のことに触れているので、以下引用する。

 1966年、ベ平連は、ある版元とサルトルとボーボワールを日本に呼んだ。パネルのひとり谷川雁は開口一番「サルトルの名前は不愉快だ、下宿でコッペパンをかじりながら読んでいた頃を思い出す」といかにも貧乏学生らしい歓迎の辞を発し、これにはさすがのサルトルも帰国後「日本は大変楽しかった、ベ平連でさえ」といった、と風のたよりに伝わった。火花が飛んだのはボーボワールだった。開高健が「『第二の性』にベトナム植民地の話が全く出てこないのはなぜか」と問うたからたまらない。カッとなったボーボワール、ものすごい早口でまくしたてた。通訳にあたった深作光貞(精華大教授)もお手上げだ。女史は「トミコ、トミコ」と会場の朝吹登水子を壇上に呼び、「それは別の話(本)だ」と応じたが。

 評者はサルトルに謝まった。彼は「ça fait rien 」と答えた。「たいしたことない」という常套語である。アルチュセーリエンヌの「リヤン」と同じ言葉である。評者はこれを深く徳とし、のちモンパルナスの墓地に行って二人の墓に手を合わせた。

 ここで、「評者」とあるのは筆者の小中陽太郎のことである。この討論集会に参加した様々な「知識人」が回想を記しているが、日本滞在中通訳として同行した朝吹登水子も『サルトル、ボーヴォワールとの28日間・日本』という本でこの場面に触れている。小中よりボーヴォワールの主張は詳しく書かれているが、深作の通訳については立場上配慮されたらしく記述はぼかされている。参加者の回想をひとつひとつ当たれば、サルトルと深作の丁々発止の具体的なやりとりが読み取れるかもしれない。ちなみに、通訳を努めた深作はこの時41歳、この討論集会の傍聴者は1300人だったそうだ。(鹿取)


馬場あき子の外国詠376(中欧)

2017年12月28日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
   【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)100頁~
   参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木良明
   司会とまとめ:鹿取未放


376 ハンガリー動乱より十年の日本にサルトルは鑿(のみ)のごとく冴えゐつ

       (レポート)
「ハンガリー動乱より十年」といえば1966年。この年には、ビートルズも来日しているが、サルトルは、ボーヴォアールとともに来日し、各地で講演を行った。作者もその講演を聴いていることだろう。サルトルは、当時の文学者や芸術家にも影響を与え、多くの若者にとって知的アイドル的存在であった。「鑿のごとく冴えゐつ」という比喩も、まさに実感だろう。(鈴木)


     (当日発言)
★サルトルもハンガリー動乱について批判的意見を言っているので、その繋がりでこう詠んでい
  る。(鈴木)
★そういう繋がりなんですね。旅行詠だからハンガリー動乱を詠んでいるうちに、そういえば10
 年後にはサルトルが来日したことに連想が及んだのかと思っていました。サルトル来日の19 
 66年当時、高校生だった私はサルトルとボーヴォワールに熱狂的に憧れていた。講演を聴くた
 めに何枚も葉書を書き、一枚当たったが結局倫社の先生にあげてしまった。(鹿取)
★サルトルは 知識人のアンガージュマン(政治参加)を強く打ち出した哲学者で、鈴木さんや私
 など団塊の世代がサルトルの影響を受けたいちばん尻尾だろう。馬場あき子は60年安保に敗れ
 た後の長い喪失の時代だったと思われるが、なおさら政治参加を説くサルトルの言葉は作者を含
 む若い知識人達に鋭く迫ってきたし、励まされもしたのだろう。「鑿のごとく冴えゐつ」にサル
 トルへの賛嘆の思いが表れていますよね。余談ですが、サルトルは64年、ノーベル文学賞に選
 ばれたが、「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」と言って、これを辞退し
 たということです。(鹿取)


馬場あき子の外国詠375(中欧)

2017年12月27日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)100頁~
   参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
       渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木良明
   司会とまとめ:鹿取未放

375 歴史動く時の決断にカダールは敵でなきものは味方と言ひき

        (レポート)
 ハンガリー動乱を革命とみるか反革命とみるか、カダールという人物に対する評価によってこの一首の読みは変わってくる。以下08年発刊の『ハンガリー革命1956』より要約。

 ※ハンガリー動乱は、1956年にナジ政権の樹立とソ連軍撤退を要求して、ハンガリーの民衆が蜂起した十二日間の闘い。このときカダール(1912~89)は、ナジ革命政府に参加しながら、途中で裏切り、ソ連と手を結び、反乱鎮圧後、ソ連からハンガリー最高指導者に任命され、実質的に88年まで続いた。62年「われわれに反対しない人たちは、われわれの味方だ」と言い、武装蜂起して逮捕され投獄された人々への恩赦を約束し、ほぼ全員が釈放された。ただ反乱鎮圧後、死刑になったナジ等に対する罪の意識を後に告白。ハンガリー動乱をめぐる評価については、ハンガリーでも89年に、動乱の評価を修正し、反革命という表記を改め、民族独立運動とみなす。同年、社会主義を捨て、人民共和国を建国し、ヨーロッパへ回帰する。(なお、動乱当時、日本の社会党、共産党はともに、「反革命」との立場をとっていた)(鈴木)*下線は、レポーター


      (当日発言)
★一首では分かりにくい。ハンガリー動乱時、カダールがソ連軍を招き入れた時、「敵でなきもの
 は味方」と言ったのか。作者はそのことを良いと 思ったのか、反対だったのか。しかし『ハンガ
 リー革命1956』にあるように62年のことばだとすると、武装蜂起で投獄されていた人たち 
 を釈放したことだから同国人のことで、この言葉は大したことがないように思える。(鈴木)
★ハンガリー動乱時、ラジオでずっと実況していて、子供心にソ連や共産主義というものを怖い
 と思っていた。(藤本)
★「敵でなきものは味方」はレポーターの説明を聞いていると、弱い。こじつけとまでは言わな 
 いが。(崎尾)
★作者の立場はどうなのか?作者の意見が分からない。(藤本)
★作者はソ連軍導入時に発せられた言葉だと思って、こう歌ったのかも知れない。62年の事柄だ
 とすると「歴史動く時の決断」と緊密に結びつかなくなる。歌とは直接関係ないが、いじめなど
 の場合は、はっきりと自分に味方してくれない者は、みんな敵というのが通常の考え方だが、カ
 ダールはその逆を言っている。ある意味、苦しい言い訳のようにも聞こえる。(鹿取)
★この時点でカダールはナジが裏切ったように見えて、処刑にしたのか。(曽我)
★結果的にはそうだろう。ナジはアメリカに助けを求めたが、アメリカは動かなかったらしい。 
 それにしても、この言葉を詠む意義は何だったのか?大戦中中立で敵ではないと思っていたソ 
 連が突如敵になったことへの何かか?この歌は馬場先生はいつ歌われたのか。(鈴木) 
 *中欧への旅は1999年。(後日、鹿取記)
★もっと細かく歌わないと分かりにくい。私たちの歌とすると注文がつきそうだ。カダールは最初
 は民衆を裏切ったのだから。(藤本)
★そうかなあ、私はこれで歌えていると思うけど。(鹿取)
★「敵でなきものは味方」という言葉の裏にある複雑さを先生は見ているのかもしれない。
   (崎尾)

     (まとめ)
 「敵でなきものは味方」については、きちんとした文献を調べないといけないのだが、とりあえずWikipediaによると、動乱の1956年、

  ソ連の戦車は革命を潰すため、11月4日の夜明けにブダペストに向かって動き出した。
  同日、カーダールを長とした、いわゆる「臨時労農革命政府」(Provisional Revolutionary
     Government of Workers and Peasants)の樹立宣言がソルノクから放送された。(中略)
  カーダールはまた「敵対しない者は誰もが我らと共に」あり、「普通の人々は、弾圧はも
  とより監視さえも恐れる必要なく、その経済活動を続け、演説し、読み、書くための正当
  な自由を得る」と付言した。これは、自らに従わない者はすべて敵とみなしたスターリン
  主義独裁者ラーコシによる支配とは特筆すべき対照をなした。(Wikipediaより)

 と書かれている。この「敵対しない者は誰もが我らと共に」が馬場の歌の「敵でなきものは味方」のことなら革命当時(当日)の発言である。これで「歴史動く時の決断」と緊密に結びつく。この決断を馬場は評価しているのだろう。また後日、かつて敵として戦った思想の違う同国人を恩赦した、そのことをも評価しているのだろう。
 ところで、レポートにカダールがその処刑に罪の意識を持っていたと書かれたナジは、53年ハンガリー勤労者党の首相に就任。国民の生活改善をはかり、農業集団化制度や宗教を緩和し、強制収容所を廃止した。それがスターリン主義者達との対立を招き、55年首相を退陣、勤労者党からも除名された。ところが、徐々に民主化の声が高まり、56年に党に復帰し、同年ハンガリー動乱が勃発すると首相に復職。その後ソ連軍に拘束され、2年後の58年KGBによる秘密裁判で、絞首刑に処された。満62歳。一方カダールはソビエト連邦に支援され新しい共産主義政府を組織し、56年以降ハンガリーを統治。88年までハンガリーの権力の座にあったが、経済悪化と病気を理由に書記長を辞任し、翌89年7月77歳で病没。それから2ヶ月余り後、ハンガリー動乱33年後の同月同日に当たる1989年10月23日、社会主義独裁を放棄しハンガリー共和国が建国された。この年、ナジは名誉を回復している。(鹿取)




馬場あき子の外国詠374(中欧)

2017年12月26日 | 短歌一首鑑賞
  馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
     【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
     参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木良明
      司会と記録:鹿取未放

374 ドナウ川八橋の中の自由橋に自由社会の自殺増ゆると

         (レポート)
 上流(北端)の鉄道橋を除く、「八橋」のことだろう。自由橋を巡る際に、ガイドの説明の中にこの言葉があったのかもしれない。自由とはすばらしいものだと普通思っているが、サルトルは逆に、「実は人間はみんな自由であることに不安を感じ、そこから逃れようとしているのだ」という。それだけが自殺の増える要因とは思わないが、そのような一面もあるだろう。さらに皮肉なのは、「自由橋」での自殺者が多いということだ。世界遺産に登録されていないこの橋は、さほど目立たない橋、改称した共産主義政権に対する民衆の鬱屈した思いの顕れか。(鈴木)


      (当日発言)
★人間は自由でありすぎると不安を感じて戦争中よりかえって自殺する人が増えるらしい。
   (鈴木)
★人間の不思議を感じる。ああしなさい、こうしなさいと言われる方が楽だ。(崎尾)
★鈴木さんのレポートにもるようにサルトルは「人間は自由という鎖に繋がれている」というよう なことを言っていますよね。フェレンツ・ヨーゼフは王様の名なので、共産主義政権下ではまず いから「自由橋」に改称されたのでしょうね。(鹿取)
★もともとハンガリーは第二次大戦中日独伊側だったが、戦後ソ連に占領され、共産主義に組み  込まれていた。今はユーロ圏の一員。89年にソ連から解放されて、共産主義から自由主義に  変わった。(鈴木)


     (まとめ)
 自由橋は第二次世界大戦時に、他の橋と同様に破壊されたが、最も早く修復されて、オリジナルの装飾が復元された。緑に塗られ、ハンガリー国王の紋章や伝説の鳥トゥルルを戴く美しい橋だそうだが、レポートにもあるようにどうした訳かこの橋だけ世界遺産には登録されていない。歌は、自由橋の自、自由社会の自、自殺の自と頭韻を踏み、濁音のあまり心地の良くない不思議な韻律を作っている。その韻律からは苦い諧謔の味がしている。(鹿取)


馬場あき子の外国詠373(中欧)

2017年12月25日 | 短歌一首鑑賞
  馬場あき子の外国詠52(2012年5月実施)
       【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木良明
      司会と記録:鹿取未放


373 ドナウ川マルギット橋くさり橋平和橋自由橋見渡せば秋

     (レポート)
 ドナウ川に架かるブダペスト市内の橋を、上流(北側)から巡ったのであろう。古い王室の名、拘束をイメージする「くさり」、それらから解放される「平和」、「自由」。それぞれの歴史を思わせる橋を巡ってくると、ドナウ川は今、秋を装う一本の川でありながら、歴史の流れをそのまま映す川のようでもある。
 ※現在、橋は、9つ。上流(北端)の鉄道橋、南端の高速道路を除くと七つの橋が主に使用さ  れている。これを北側から順にみると、次のような並びになり、いずれも第二次大戦でドイツ  軍に破壊され、再建または復元されている。(○印は世界遺産登録)、
 ○マルギット橋―ハンガリー王の息女の名。モンゴルの襲来が二度とないよう祈りの生涯。
 ○くさり橋―「セーチェーニ鎖橋」。ハンガリー伯爵の名と鉄鎖を用い、鎖状の電飾から。
 ○エルジェーベト橋―ハンガリー王妃の名。(この橋を「平和橋」と呼んだか)
 ●自由橋―「フェレンツ・ヨージェフ橋」という名であったが、共産主義政権下で改称。
(鈴木)

      (当日発言)
★くさり橋、平和橋、自由橋は、馬場先生がそう呼ばれたのか?(藤本)
★くさり橋、自由橋は現地でこう呼ばれている。平和橋については調べたが分からなかった。しか
 しここで平和橋の代わりにエルジェーベト橋と呼んだのでは、歌が壊れてしまう。(鈴木)
★作者が勝手に平和橋とは言わないだろうが、私も調べたが分からなかった。くさり、平和、自
 由と橋の名がうまく関連して繋がっている。(鹿取)
★橋の一つ一つに歴史がある。これらの橋の歴史を知りながら旅をする先生。先生がこれらの橋
 に自分の人生を重ねているように思える。(崎尾)


     (まとめ)
 平和橋については文献には出てこなかった。マルギット橋から南に向かって順にくさり橋・エルジェーベト橋・自由橋と呼ばれている。その順番からレポーターは作者がエルジェーベト橋を平和橋と呼んだかと推定されたのだろう。レポートにもあるように自由橋の改称前の名は皇帝の名をとったフェレンツ・ヨーゼフ橋。その王妃がエルジェーベトで、改称前は夫婦の名称の橋が並んでいたことになる。
この歌の「平和橋」の名は歌作の折、くさり橋と自由橋の間にふっとすべり込んだものかもしれない。橋の名前をリズミカルに連ねているが、橋の名の意味するところはハンガリーの歴史が刻み込まれていて、重い。「見渡せば秋」の「秋」に歴史への哀惜と旅の途上のあてどない気分が滲んでいる。(鹿取)

馬場あき子の外国詠372(中欧)

2017年12月23日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   司会と記録:鹿取未放

372 夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人

     (レポート)
 「夫をなくせし市街戦も」と「も」によって昔語りのように詠い出され、女性にスポットを当て、歴史的事実の周縁を「歴史にて」としていよう。はた「はるかな」と形容しているのは、過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような視線だ。「虹」があたかもそれを象徴し、時そのものとして流るる「ドナウ川」にかかる。時をつかのま照らすのだ。そしてそれを「ひとり見る人」がいる。いずれにせよ取材によったのではなかろうに断定でとおしていることに違和感がないのは、作者の力のゆえであろう。
 最後に馬場あき子の『太鼓の空間』あとがきより引く。(慧子)
「日常の視線の中にも縦の時間をみることによってその存在を納得しようとする方向をもっていたように思います。それはもう私の癖といってもいいように身についてしまったものの一つですが、この時間空間に漂遊する時が一番私にとっては豊かな思いがあります。」 


      (当日発言)
★「虹をひとり見る人」は371番歌「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリ
 ー動乱も夢」同様、作者の力量で作り出した人物。プロのやり方。(鈴木)
★レポーターの言う「過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような
  視線だ」というところは反対。人々の気持ちは歳月が経っても癒されきれていないだろう。
    (崎尾)
★生々しい傷は歳月によって薄れているだろう。(鈴木)
★確かに生々しい傷は薄れているのだろう。それが虹を見るという行為で表現されている。しかし
 「ハンガリー動乱」で夫を亡くした老女はその傷を死ぬまで抱えて生きるのだ。三・一一で子供
 や親を失った人も同じだと思う。ただ鈴木さんのいうように実在しない人物を詩の力で登場させ
 たと考える方が歌として深くなるかもしれない。あるいは「ドナウ川の虹をひとり見る」老女が
 いたが、その老女と作者は関係を持たず、したがって「夫をなくせし市街戦」は作者の想像と考
 えることも可能だ。そういう独断が詩を生み出しているとも言える。レポーターもいうように馬
 場の独断・断定の歌には秀歌が多い。また馬場自身朔太郎の「独断でさえないものが詩であろう
 か」というような意味の言葉をよく引用している。(鹿取)
   沙羅の枝に蛇脱ぎし衣ひそとして一夜をとめとなりゆきしもの『青椿抄』馬場あき子




馬場あき子の外国詠371(中欧)

2017年12月22日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   司会と記録:鹿取未放

371 ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリー動乱も夢

     (レポート)
 ケンピンスキーホテルに投宿するのだが、「一夜」として物語風に時と場所を設定し、そこにハンガリーの代表的作曲家リストの曲が流れている。すでに認識していたことを聴覚はさらに美しく浄化させる力があると思うのだが、ピアノ曲であろう、それを聴き、それに身をゆだねている「老女」がいる。そんななかでいろいろ過ぎ去ったけれど「ハンガリー動乱も夢」と「老女」は「知る」。夢というものについて解釈はできないのだが掲出歌では「夢」だったとか「夢」のようだとしていないのも味わい深い。ところで「老女知る」これは誰なのか。1956年の「ハンガリー動乱」の為に動いた男達の背を、またそのすさまじさを見ていたであろう女、深く時代と人を見つめて、経験が知恵となっている「老女」を誰というのではなくここに登場させる。「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ」という詠い出しにふさわしい人物の据え方だ。(慧子)


      (当日発言)
★自分の感じを言うのではなく、ある人物を登場させて代詠のように詠うやり方。この人物は実 
 際にいなかったかもしれない。(鈴木)
★リストが流れるホテルの一夜の方が主眼だと思っていた。(崎尾)
★良い歌で好き。レポーターが書いている「ハンガリー動乱も夢」と「老女」が「知る」という点
 については賛成できない。老女が知っているのは「ハンガリー動乱」であって、夢にまでは掛か
 っていないだろう。ともあれ舞台は豪華なケンピンスキーホテル、おそらく生演奏されているの
 だろうリストを聴いている旅の一夜。老女の記憶の中には生々とあるハンガリー動乱も、旅人と
 してここに身を置いていると夢のように感じられる、ということだろうか。(鹿取)


      (追記)(2013年11月)
 鈴木さんの発言にあるように、この老女は実際にはいなかったのかもしれない。言葉の問題を考えると近くに座った老女が作者に問わず語りにハンガリー動乱のことを語ったと考えるには無理がある。そうすると広島とか沖縄でやっているような老人が体験談を語る会か。これも公会堂とか体育館とかなら分かるが、背景のリストが流れる優雅なホテルにはそぐわない。やはりこういう老女の存在を設定しているのかもしれない。
 おそらく老女(架空でもよいが)は、どんなに時間が流れてもハンガリー動乱を生々と覚えているのだろう。昨日のことのように覚えていながら、世の中においては遠い夢になってしまったことを老女は自覚しているのだろう。作者はその老女のぼうぼうとした思いに寄り添っているのだ。
 この老女は能のシテである。(鹿取)



馬場あき子の外国詠370(中欧)

2017年12月21日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   司会と記録:鹿取未放

370 動脈のごとく貫けるドナウ川の薔薇都市の重き疲れ夕映ゆ

     (レポート)
 「ドナウ川」はドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリー、セルビア・モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアを流れて、ヨーロッパ東南部をまさしく「動脈のごとく貫ける」川だ。「薔薇都市」とは美しいイメージが立ち上がる。日本の古都は碁盤状だが、エッフェル塔を中心に市街が放射状の薔薇を連想するパリのような都市がドナウ川流域にあると、ここまで想像したのだが調べるにしくはなし。ブダペストを指すと得られた。
 流域とかほとりを省略して「ドナウ川の薔薇都市の」と言葉をつなぐ、二つの「の」が優美だ。そして薔薇の重なる花びらの「重き」と都市の物語の語りつくせないほどの「重き」をかさね合わせ、それは「疲れ」へと言葉に無理のない流れがあり、「夕映ゆ」に「薔薇都市の重き疲れ」は慰撫されてみえたのであろう。(慧子)


      (当日発言)
★「重き疲れ」を出すために上から言葉を使ってきている。(鈴木)
★8、5、6、8、7と韻律がたどたどしていて読みにくい。それが「重き疲れ」 とマッチし
 ているともいえる。「薔薇都市」はそう呼ばれているということだが、「貫ける」「薔薇都市」
 と並べられると、がぜんエロティックな印象を受ける。それもけだるい気分に一役買っている 
 のだろう。(鹿取)


     (まとめ)
 上の句の言葉は硬く8音、5音と韻律を乱ししているが、イメージ的にはエロティックな感じで下の句に繋がっていく。それは漢字表記の薔薇という字に負うところが大きい。そして歌は、そういうイメージを負う都市そのものに疲れを見いだしている。それは華やかな過去を持ちながら疲弊しているブダペストの街の感想であり、ハンガリーの国の姿でもあるのだろう。薔薇都市の名称をつけられた表層は美しい街が、重い疲れごと夕映えている。
 なお、レポーターの書いているチェコスロバキアは1993年から分離独立してチェコとスロバキア二国に別れている。馬場のこの旅行は1999年秋のことなので、正確にはチェコとスロバキアということになる。(鹿取)

馬場あき子の外国詠369(中欧)

2017年12月20日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   司会と記録:鹿取未放

369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも

      (レポート)
 あそびのごとく「あひ群れて撮す」時があるのだが、堅固な城の側ではなく、滔々と流れていかなるものものみこんでしまいそうな「ドナウ川の」そばだ。そこで「ひと日の風景にすぎざるを」そんあ感慨をもったのは「ドナウ川の」悠久のなかの「ひと日」と作者の人生のある「ひと日」との落差によるのだろう。「わが身かなしも」に愛しと哀しの二文字が浮かぶ。(慧子)


     (当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い有名だし、
 ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ドナウ川としての説得
  力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、どこから見
  ているか分からなかった。(藤本)
★確かに「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川にも置き換え可能に見える。この川でないとい
  けないことを説得力あるようにどうして出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江
  の人と惜しみけり〉という句についての問答があるのを思い出した。{と、「去来抄」の概略
  を説明した後、①実景である ②歌枕であるという点で}あそこでは「行く春」を「行く歳」
  に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないという話だったが、この歌ではどうか。(鹿取)


         (まとめ)       
 当日の議論はここまでだったが、くだんの「去来抄」の部分を引用する。

  行春を近江の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。

 芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。さて、ドナウ川はどうであろうか。(鹿取)