かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡辺松男の一首鑑賞  77

2014年02月28日 | 短歌一首鑑賞
  【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)47頁
                           参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                            レポーター:渡部慧子
                           司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


110 ひとり夜にうずくまるとき闇よりも真っ黒なもの 犀のにおいす

      (レポート)(2014年2月)
 夜になってひとりうずくまるときがあるのだが、それは闇より黒く「犀のにおいす」と孤独を詠っていよう。犀のごとくひとりゆけと仏陀は言ったが、存在の寂しさにたえて修行せよとの意味へ掲出歌を広げなくてもよいと思う。作者自身のその時の孤独を、人間としての美醜や、智恵を捨てたものとして、動物も自分も同じところにいる感があったのではないか。「真っ黒なもの」と突き放している。いずれにせよ「犀のにおいす」とは観念にたよらず、すぐれた結句となっている。
   (慧子)


     (意見)(2014年2月)
 犀は、「地下に還せり」のなかでも、「犀の放尿」として詠われているが、この歌でも孤独の象徴としての犀に自らを重ねて詠んでいる。夜の底でひとり眠りに就くとき、闇よりも真っ黒なものに向き合っている孤独な姿(しかし独り生く気概を持つ)が、そこにはある。(鈴木)    


      (発言)(2014年2月)
 ★「人間としての美醜や、智恵を捨てたものとして」というところが分からないんだけど。
    (鹿取)
 ★学んできた智恵とか、美醜とかは関係なく人間も動物と同じだということです。(慧子)
 ★生命を持つ存在として人間も動物も同じ、というのはよく分かります。孤独とか寂しいという
  ような概念で捉えられる以前の、意識にはのぼらない原初的な存在そのものの感じを犀のにお
  いとして捕らえていて、「観念にたよらず、すぐれた結句」というのは全く同感です。(鹿取)
 ★鈴木さんは向き合っていると書いているけど、私は動物と向き合ってはいなくて、動物のよう
  に動物と同じ孤独感でもって自分もそこにいると思います。動物になりきっていて自分を対象
  化してしないんです。鈴木さんのは知が勝った解釈です。(慧子)
 ★人間も動物も、どの個であっても「闇よりも真っ黒なもの」である、そしてそれはいわ
  ば「犀のにおい」がしている、動物だ人間だという点に差異はない、ということですか?
  人間が学んできた智恵や知識を取り去って、とさっきおっしゃったのはそういうこと
  ですか。それならよく分かります。(鹿取)
 ★ あと細かいことですけど、鈴木さんの「夜の底でひとり眠りに就くとき」は、うずくま
  るとは姿勢が違うので、眠るときとは違うかなあと思いました。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  76

2014年02月27日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)47頁
                                  参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                   レポーター:渡部慧子
                                  司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


109 上州はひねもす風の荒れしあと沈黙にあり寒の夕焼け

      (意見)(2014年2月)
 これもからっ風だろう。ひもすがら続いた強い風が夕方には止み、寒々とした夕焼けが西の空に広がり、上州に沈黙が訪れたのである。終日続いたはげしい風の音がやんだあとの沈黙の深さが感じられる。
   (鈴木)


      (発言)(2014年2月)
 ★申し訳ありません、私がテキストを印刷する時、この歌を飛ばしていました。鈴木さんは私の
  テキストではなく原典から抜き出して鑑賞してくれているので、これで間違いないです。この
  意見に対して慧子さんいかがですか? (鹿取)
 ★まったく異論ありません。鈴木さんの鑑賞どおりと思います。(慧子)
 
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渡辺松男の一首鑑賞  75

2014年02月26日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)46頁
                                 参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                  レポーター:渡部慧子
                                 司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


108 上州は黄のからっ風父の耳母の耳砂塵のなかにあらわる

     (レポート)(2014年2月)
 上州をさして〈かかあ天下とからっ風〉の言葉があるが、「父の耳母の耳」が「砂塵のなかにあらわる」とは、母だけではなく両親と風土を詠う。ご両親を象徴的に耳によっているのは、聴くことに聡きお二人なのかもしれない。また何よりも風土に溶け込んで生きてこられたその立ち姿は樹のようで、疾風に揺れる木の葉と耳を重ねられたのかもしれない。あるいは一般に長く豊かな耳を持つ仏像(仏)と敬愛するご両親の年を加えられた風貌を重ねられたとしても不思議はなく、作者の感性をこよなきものに思う。「からっ風」に「黄」を冠しているのも風土への愛着であろう。(慧子)


     (意見)(2014年2月)
 上州のからっ風は、昔から定番である。その風が砂塵を巻き上げると、黄の紗がかかったようになって、視界が遮られる。どこに誰が居るのかを声や音で確認するほかはない。そういう中で、ともに何かの作業をしていたのだろう、父と母の耳が見えてきて、少し安堵したのである。(鈴木)


      (発言)(2014年2月)
 ★鈴木さんの解釈、何かの作業をしていたのだろうまではいいけど、父と母の耳が見え
  てきてはいきなりの感があります。この間に何かの思いが欲しい。(慧子)
 ★そうですか、私は鈴木さんの解釈よく分かります。視界が狭い中で見えなかった父母
  の姿が耳から見えてきた、何か懐かしい気分がします。現実にはお母さんは作者23
  歳の時に亡くなっていますけれど、別に関連づける必要はなくて、この歌は書いてあ
  る通りに読めばいいと思います。(鹿取)
 ★〈かかあ天下とからっ風〉っていうけど、お母さんだけ目立つのではなくお父さんも加えた
  かった歌かなと思いました。(慧子)
 ★うーん、そういうことは関係ないように思うけど。(鹿取)
 
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渡辺松男の一首鑑賞  74

2014年02月25日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)46頁
                                 参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                  レポーター:渡部慧子
                                 司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


107  鴉A影をおおきく羽ばたけり冬のたんぼに涙はいらぬ

      (レポート)(2014年2月)
 「A」と仮に名付ける鴉がいて「影をおおきく羽ばたけり」というすぐれた表現の上の句と「涙はいらぬ」にとまだった一首。鴉の「A」が数学の大小関係を表す「>」にみえて、鴉とその影に関係の逆転が起こり、影を主体のように思えてくる。ここから「冬のたんぼに涙はいらぬ」と続くのだが、上の句下の句の切れは読み手に様々な思いをいだかせる。たとえば影が実の存在を危うくさせたり、魂を抜き取るような力を持つ等。だがここは「冬のたんぼ」、鴉とその影が逆の関係になろうとも、悲惨はなく「涙はいらぬ」との表現になったのではないかと考える。(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 「鴉A」という言い方は、何匹かいる鴉のなかに差異をみて、「おおきく羽ばたく」鴉の存在を強調しているのである。春から秋にかけてのたんぼは、鴉をはじめ大小さまざまな命が生息する、弱肉強食の世界であり、生き物にとっての涙の季節でもあるのだ。ところが米の刈り入れを終えた冬ざれのたんぼは、閑散としてさばさばとしている。生き物たちは、それぞれの種ごとに冬眠や来春の次世代へむけた準備にとりかかっている。下句の「冬のたんぼに涙はいらぬ」は、そのようなことを物語っている。(鈴木)


       (発言)(2014年2月)
 ★影が魂を持ったというお話がどこかにあって、作者はそれを知っていたんじゃない?
    (慧子)
 ★Aの文字が「>」に見えるというのは考えすぎじゃないかなあ。Aと「>」では文字
  の向きが違うし。鴉と影との逆転関係というのはものすごく怖い話で面白いとは思う
  けど、この歌でそれが詠われているとは思わない。私は鴉が羽ばたいた時の大きさを
  影の方からとらえていると単純に読んだけど。(鹿取)
 ★上下の切れがいろいろな読みを誘うんです。私は鴉と影の逆転と読みました。(慧子)
 ★鴉であっても影と逆転したらとても怖いことで、人間ではなく鴉のことだから涙はい
  らないというのは渡辺さんの発想ではないように思う。そんなふうに人間と動物を区
  別して考えない人だから。(鹿取)
 ★鴉AというからにはB、C、D、E……と鴉はN羽いるわけだけど、なぜ鴉一羽とか
  一羽の鴉ではなく鴉Aなんだろう。巷では少年Aとか少女Aというのは犯罪を犯した
  少年少女を匿名にする為に使われることが多いけど、悪い鴉ではなさそうだし。鴉が
  一羽飛び立ったら涙ぐましい光景だけど、没個性的な集団の中のどの鴉でもいい、た
  またたまAだから「冬のたんぼに涙はいらぬ」のか、それも違うなあ。うーん、なぜ
  この下の句が出てきたのか私にはわからないです。やっぱり鈴木さんのような解釈か
  なあ。
    (鹿取)
 ★小池さんが杭に甲だとか乙だとか付けていなかった?知らない?(慧子)

    *慧子さん発言の小池光の歌は次のもの。
       甲の鳥杭の上(へ)にをり 乙の鳥その杭にゐる一年ののち
           小池 光 『時のめぐりに』(2004年)
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渡辺松男の一首鑑賞  73

2014年02月24日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)46頁
                                  参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                   レポーター:渡部慧子
                                  司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


106  背中のみ見せて先行く人があり容赦なくわれはその背中見る

     (レポート)(2014年2月)
 見られていることさえ知らない無防備な背中を容赦なく見るという。行きずりの人への無礼講的行為か、あるいは軋轢のある知人への作者の真理を表しているのか、いずれであろう。みる、みられる、みあう、みかえす、などや見る、看る、視る、観る、診るとさまざまなみると思った。
(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 人の顔や背中にその人の来歴がよく現れる。相手の顔を見ることは逆に相手から見られることでもあり、なかなかまじまじとは見ることはできない。特に日本人は、相手から見られることを強く意識する国民であり、相手の目を見ずに伏し目がちに接する人は多いだろう。〈われ〉もそのひとりで、背中であれば、見られることはないので、安心して人を観察できる。それだからこそ容赦なく背中を穿鑿してしまう人でもあるのだ。(鈴木)


      (発言)(2014年2月)
 ★私、何となくお父さんの背中かと思っていたけど、そうでもないのかな。次の次の歌にお父さ
  んが登場するので、そう思ったのかな。行きずりの人なのか、ある特定の人なのか、どうなん
  でしょうね。慧子さんの言うように軋轢のある人、父とか上司とかなのか、どうもこの歌だけ
  では特定できないように思う。やっぱり一般的な背中なんでしょうかね。(鹿取)
 
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渡辺松男の一首鑑賞  72

2014年02月23日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)45頁
                              参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                               レポーター:渡部慧子
                              司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


105  しんぶんに軍というものめだつなり愁嘆声(しゅうたんしょう)はなに色なるや

      (レポート)(2014年2月)
 掲出歌がいつの時点で詠われ、「しんぶん」にみえる「軍」とは、どこのどのような状態を指すのかつぶさにわからないのは、作者の意図するところだろう。それによって、普遍性に繋がり、説明ではなくとらえられている。人々にすれば、震撼させられ「愁嘆声」をもらすであろう。それを「なに色なるや」と問う。声の色を問うとは、生きている命の層を観念ではなく、とらえようとしている。(慧子)

  
      (意見)(2014年2月)
 本歌集をまとめたのが九十七年であるから、その前に新聞に「軍」という文字が目立つとしたら、九十一年の湾岸戦争やソ連邦の解放をめぐる各国の軍隊や我が国の自衛隊の動き、のことだろうか。いずれにしても、そこから「愁嘆声」、人々の愁い嘆く声が聞え、それは何色なのだろうか、と飛躍する。戦争に向けられる「愁嘆声」は何色だろう。
   (鈴木)


     (発言)(2014年2月)
 ★「軍」について慧子さんは「つぶさにわからないのは、作者の意図するところだろう。」
  と書いているけど、たまたまであってわざとぼかしているのではないと思います。
    (鹿取)
 ★鈴木さんのは、戦争に向けられる愁嘆声と焦点を絞り込んでいますね。その絞りがい
  いですね。(慧子)
 ★ただこの歌に即していうと「軍というものめだつなり」だからあくまで我が国の状況
  に照らして詠っているので、戦争が起こる危惧があることに対する愁嘆声だと思いま
  す。もっともこの歌が作られた頃、日本では起こっていないだけで湾岸戦争とかは実
  際に行われていたわけで、当然そこでも愁嘆声はあったのですね。でもそこの嘆きは
  もっと直截で、色を問うような段階ではないかもしれませんね。(鹿取)
 ★愁嘆声の色を問うている飛躍が論理的に考えようとするとわかりずらいんだけど。もし戦争
  になったらと民衆がおびえて嘆いている声があっちからもこっちからも聞こえてきて、何か巨
  大な青黒い色が渦巻いているようなイメージなのかなあ。でも、色を限定するとつまらなくな
  りますね。(鹿取) 
 ★黄色い声、というのがあるから声を色で問うのはそんなにおかしくはない。(慧子)
 ★それにしてもユニークな下の句で、渡辺さん以外絶対こんな下の句付けないよね。だいたい
   愁嘆声も造語だし、それが何色かって。(鹿取)
 ★茂吉が上海と色を結びつけた歌を作っていますよね。何でしたっけ?鳳仙花?(慧子) 
 ★ああ、「たたかひは上海に起りゐたりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」(『赤光』)ですね。戦
  争と紅が結びついています。(鹿取)  
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渡辺松男の一首鑑賞  71

2014年02月22日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)45頁
                               参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                                レポーター:渡部慧子
                               司会と記録:鹿取 未放


 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。

 
104  三十五万回「狂」という字を思いみよ入院者三十五万人の「狂」

     (レポート)(2014年2月)
 いきなりの「三十五万」にとまどったが、これはおそらく行政単位の人口のように思う。「三十五万『狂』という字を思いみよ」とは、そのことごとくの精神や暮らしぶりを思い、寄り添ってみよというのであろう。「思いみよ」となげかけたものを、「入院者三十五万人の『狂』」と下の句では作者のふところに回収しているように思う。入院患者とはせず患を省いているのは、時数の都合ではなかろう。正と狂の境は何であろうか。(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 数は大きくとも小さくとも、その数値自体はなかなか実感しにくい。そこで現実に存在するものとの比較でその大きさを実感する方法が用いられる。たとえば、あるものの大きさを実感するために、その隣に「たばこの箱」を置いてみるなどである。本歌では、入院者三十五万人の「狂」を実感するために、「狂という字」を思ってみよ、というのである。「狂」という字を三十五万回も。ただただ、圧倒されるが、そもそもこの数字は何なのだろう。最近の障害者白書(平成23年版)によれば、全国で精神疾患患者数約三二三万人、そのうちの10.3%が入院者数とのことであるから、本歌の数に近い。   (鈴木)


     (発言)(2014年2月)
 ★私はわりとこの歌は分かりやすかったです。どこかで精神疾患による入院患者数の統
  計を見ましたが、毎年34万から35万の数で推移しているんですね。そして鈴木さ
  んも書いているように35万という数だけ言っても実感できないので、ひとりひとり
  の病んでいる人の顔は見えないんだけど、苦しんでいる人がいるんだよと、35万回
  「狂」という字を思い浮かべてみてください、って言っているのよね。そうしてもま
  あ届かないんだけどね。(鹿取)
 ★「思いみよ」と命令形で言っていますけど、別に他人に命令している訳ではなく、自
  戒かもしれないですね。あんまり実生活に照らし合わせて考えたくないですが、公表
  されている年譜によると25歳で精神病院に通い始めたとあるし、そういう病院関係
  の仕事もされていたようなので、精神を病んで苦しんでいる人を見ての実感なんだと
  思います。私も身近に心を病む人がいるので、その苦しみが分からないもどかしさを
  いつも感じていて、この歌はわりとすっと心に入ってきます。(鹿取)
 ★そういうことなのですか。やっと分かりました。(慧子)
 
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渡辺松男の一首鑑賞  70

2014年02月21日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)45頁
                          参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                           レポーター:渡部慧子
                          司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


103 無といわず無無ともいわず黒き樹よ樹内にゾシマ長老ぞ病む

     (レポート)(2014年2月)
 ※ゾシマ長老:「カラマーゾフの兄弟」の登場人物。町の修道院の長老。慈愛に満ちた
        高徳の人物で、信者の尊敬を一身に集める。

 「ゾシマ長老」は病んでいる。それは「黒き樹」の内である。「無といわず」「無無ともいわず」は初句で切り、2句で切りながら、それは「黒き樹よ」と倒置している。しかしこれが実に効果的で、樹はもちろんゾシマ長老にもあてはめて味わえる。さらに各々は独立句であるゆえに、世界に対して「無ともいわず」「無無ともいわず」という表現になった。その「無」を①一切有の否定、どんな有もないこと。 ②有の対立者ではなく有そのものをも存在させるような、絶対的根源者 のように思うが、私にはしかとは分からない。また「無無」はものごとに行き詰まって発する「ムム」を「無無」と当てたのか。さらに「黒き樹」は何を指しているのか。ゾシマ長老が聖職者であることから、ロシア正教の組織、教理体系などを、樹に親しんでいる作者が集約的に樹にこめようとしたのか。黒は①濃い墨のような色 ②黒い色のもの ③犯罪の事実があると判定された容疑者 ④無政府主義または無政府主義の俗称 などの意味の他に、清濁をあわせ黒なる美に至るという観念もないではないが謎である。こうして疑問を重ねることでしかこの一首に近づけない。
   (慧子)


      (意見)(2014年2月)
 黒き樹は病んでいるのだろうか。「カラマーゾフの兄弟」のゾシマ長老は、人々に慕われる修道院の長老だが、病気がちで余命幾許もない。聖者の遺体からは「芳香」がするという奇跡を人々は信じていたが、期待に反して、長老の遺体からは「腐臭」が立ちのぼる。そのようなゾシマ長老を、病んでいる黒き樹に見立てているのである。聖なるものの存在について、無(欠如)といわず、無無(欠如ではない)ともいわずは、樹内のゾシマ長老であり、聖なる黒き樹である。(鈴木)


       (記録)(2014年2月)
 ★改めてこの歌読んだら、前の歌の「神学に痩せゆきし人」はアリョーシャよりゾシマ
  長老の方がふさわしいかなあと、ふっと思いました。(鹿取)
 ★無や無無が何なのか、レポートを書いていて実は分からなかったです。(慧子)
 ★鈴木さんはこの主語を聖なるものの存在と書いていますけど、まあ神と言い換えても
  いいのかなあ。神が「無い」とも、「無いのでも無い」とも病んでいるゾシマ長老は
  言わない。無とか無無は老人のふっともらす「ム」とか「ムム」という声にならない
  声のようなものに重ねていて、そこは慧子さんと同じ解釈です。大きな黒い樹が「ム」
  とか「ムム」とか低い声を漏らしているように読んでも面白い。(鹿取)
 ★『カラマーゾフの兄弟』を読みふけって五教科で赤点をもらった、という意味のこと
  が公開されている年譜の高校時代の項に書かれているので、渡辺さんにとってゾシマ
  長老や、以前の歌に出てきたアリョーシャはとても思い入れのある人物ですよね。だ
  からおろそかには読めないので恐いのですが。(鹿取)
 ★あまり小説に立ち入っても何ですけど、ゾシマ長老の死を契機に、アリョーシャは生
  前の彼の教えを思い出して悟りのような境地に至り、感激の涙を流しながら大地に接
  吻するという場面があります。(鹿取)
 ★渡辺さんはこの歌で小説やキリスト教から少し離れて自分に引きつけているのではな
  いでしょうか。「無」と「無無」を並列させる捉え方は禅問答みたいで、仏教の「色
  即是空、空即是色」にも通うところがあるように思います。渡辺さんは哲学を学んだ
  人ですけど、東洋(ゴータマに代表されるインド哲学、老子、荘子、禅など)と西洋
  (キリスト教やニーチェ等)の融合が自然に歌の上で行われているように思います。
     (鹿取)
 ★宗教の「無」という深遠で難しい言葉を使ってますけど、深みを持たせながら音で読
  ませてユーモアを滲ませている。全体に余裕のある歌いぶりで、もしかしたら人間を
  窮屈な聖性から解き放している痛快な歌かなあとも思います。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  69

2014年02月20日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)44頁
                    参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                     レポーター:渡部慧子
                    司会と記録:鹿取 未放

 ◆大雪の為、勉強会の日程を急遽変更。鈴木良明の(意見)は、事前送付のものです。


102  神学に痩せゆきしひと羨しけれわれらしきりに葱抜きている

     (レポート)(2014年2月)
  「神学に痩せゆきしひと」は作者に、まずニーチェが思われたのではないか。牧師の長男としてボン大学神学部に入学、のち古典文献学に転向した経緯があり(道徳の系譜学
参照)、肉体は繊細でしなやかだったらしい(2013年2月 鈴木レポート)。私達が神学者をイメージするならば二句と異ならない。そういう人を羨しいよ、しかしさりながら、という感があり、それが四、五句にみえる。葱の産地にあって葱抜きの労働(農作業)にいそしんでいることを「しきりに」とは尊く肯定していよう。(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 理性的思惟によって真理を把握する形而上的な神学に携わり、さまざまに煩悶して痩せてゆく人がいる。しかし、自然一般・感性的現象として形をなす現実の生活の中で、しきりに葱を抜いて悪戦苦闘している生活者からみれば、それは羨ましいことである。形而上的に生きたいと思っていればこそ、余計その思いが強くなるのだ。(鈴木)


     (記録)(2014年2月)
 ★レポート4行めの「二句と異ならない」という部分、よく分からないんだけど、どうい
  う意味ですか?(鹿取)
 ★「痩せゆきしひと」です。神学をやっている人は痩せているというように私も想像する、と
   いう意味です。(慧子)
 ★「神学に痩せゆきしひと」を鈴木さんは一般的に捉えていて、慧子さんはニーチェを当てはめ
  ている。作者は具体的に誰かを指していないのですが、ニーチェは神学からはずいぶんはみ出
  して自分の思想を打ち立てた人ですから、ちょっとそぐわないかなと思うんだけど。次の歌に
  ゾシマ長老が出てくる関連から言えば、私は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャなんかを
  思い浮かべます。「ひと」というにはアリョーシャは幼い気もしますが、ゾシマ長老に心酔し
  て純粋に神学を求め、学んでいる少年です。修道院に入って現実の社会は知らない少年なので、
  無神論者の兄さんが連れ出して論争をしかけたり、現実の社会はこんなに醜くくて複雑怪奇な
  んだと見せようとしたりするんですけど。(鹿取)
 ★「痩せゆきし」と過去形を使っているので、小説中の人物という私の解釈はちょっと苦しいと
  ころもあるんだけど、誰か例にあげるとすればアリョーシャあたりかなという意味です。まあ
  そういう人物が羨ましい、という部分は私は言葉どおりと捉えました。だから上の句の具体か
  抽象かという違いを除けば、解釈は鈴木さんと同じです。(鹿取)
 ★では、労働は尊くないの?(慧子)
 ★作者は労働が尊い、とは言っていない。もし労働が尊いということを言いたいのなら、「羨し
  けれ」あたりが揺らいでくる。もちろん、労働を蔑している訳でもない。ただ葱を抜くような
  日常というものがある生活者としては(公務員としての生活者でも同じ事ですけれど)、「神
  学に痩せゆきしひとを羨ましいと思う、ということではないですか。(鹿取)
 ★でも、自分たちを決して否定はしていないと思うなあ。(慧子)
 ★そうすると「羨しけれ」はどうなりますか?(鹿取)
 ★実は否定的で、ほんとうに羨ましいとは思ってないんじゃないかな。この歌ではわれらの側に
  価値を置いていると思います。(慧子)
 ★いや、労働を否定しているんじゃないけど、形而上的な何かを求める心が強い作者だから、葱
  を抜きながら、やはり純粋に形而上的なものを求める立場に立てる人を羨ましく思うんだろう
  と私は思います。これも三者三様の意見なので、並列で書いておきましょう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  68

2014年02月19日 | 短歌一首鑑賞
          【愁嘆声】『寒気氾濫』(1997年)44頁
                  参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
                   レポーター:渡部慧子
                  司会と記録:鹿取 未放


 ◆大雪の為、急遽、勉強会の日程を変更。参加者は2人になってしまった。鈴木良明の(意見)は、事前送付のもの。


101 引き抜けば天に草根ひかりたり登校拒否児笑みしならずや


     (レポート)(2014年2月)
 しっかりと根を張っている草を抜いた。力を入れていたであろうから、抜けるはずみに尻餅をついたと想像する。その様子を「登校拒否児」は笑ったではないかとの歌意。「草根ひかりたり」と「登校拒否児笑みしならずや」が「天」のもとのこととして包み込まれている。平素見えていないもの「草根」と精神的に躓いて弱者に見えるかも知れない「登校拒否児」そういう2つがひびきあう。(慧子)


      (意見)(2014年2月)
 雑草は地中に根を下ろして収まるべきところに収まり、成長していくのである。ところが、たまたま抜いた草の根が空をバックに光り輝いて、それは、まるで登校拒否児が学校の教室のしがらみから解放された一瞬の笑みのように、作者には思えて、下句が生まれたのだ。義務教育として初めて経験する集団生活、その枠組みになじめない感覚は、登校拒否児に限らず、多かれ少なかれ感じるものである。それは作者の実感でもあるだろう。
  (鈴木)


      (記録)(2014年2月)
 ★私の意見は草を抜いている所へ登校拒否児が来合わせた者として考えているが鈴木さんは違
   う。鈴木さんの解釈だと登校拒否児は、この場面にはいないのね。(慧子)
 ★そうですね。鈴木さんの意見は、登校拒否児はいわば比喩のような使われ方ですよね。鹿取の
  意見はこうです。〈われ〉と登校拒否児は一緒にいてふたりで草を抜いていた、たまたま引き
  にくい草を引いたときひっくり返るか何かして根っこが天を向いた、それを見て日頃学校を嫌
  がっている無口な登校拒否児が面白がってきゃっきゃと笑った、そういう場面。慧子さんはた
  またま登校拒否児が来合わせたとおっしゃったけど、私は日頃何らかの関係がある子で初めか
  ら一緒にいるという解釈です。自分の子供か、隣の子か親戚の子かその辺は分からないけど。
  もちろん歌の上での設定ということで、事実はそういう子は周囲にいないかもしれないけど、
  そんなことは問題ではないです。だから登校拒否児との距離感が慧子さんと私とでは違います。
  日頃その子のことを心配していて、だからこの場面で笑ったことにほっとしたんだろうと。草
  の根が天に向かって光っているという情景に明るい気分が投影されていると思います。(鹿取)
 ★あと細かいことだけど、慧子さんのレポートの「笑ったではないか」という部分が気にな
  ります。原文は「笑みしならずや」ですから。(鹿取)
 ★でも否定の否定だから肯定でしょう。(慧子)
 ★いや、否定は「ず」の1カ所しかありません。それと「や」を慧子さんは詠嘆で捉え
  ているけど、「笑ったのではないだろうか」と私は疑問に解釈しますが。場面として
  はね、この登校拒否児は「笑った」ことにかわりないけど、ニュアンスの問題として「笑っ
  たではないか」は気になりました。(鹿取)
 ★鈴木さんのは面白い解釈なんだけど、作者の意図はどういうところにあったのでしょうね。3
  者の意見を並列ということで書いておきます。(鹿取)
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